『バッド・ルーテナント』 イグアナの見る夢
バッド・ルーテナント(悪徳警部補)のテレンス(ニコラス・ケイジ)が、追いかけていた殺人犯のギャングたちを罠にはめて銃殺したあと、仲間の刑事に言う。「もう一発撃て! 魂がまだ踊ってる」と。見ると、死体の背後で、当の死んだはずの男が手足を狂ったように動かして踊っている。テレンスが銃を撃つと、死体は二度死ぬ。踊る魂は、テレンスだけに見えていた幻想なのか。
まぎれもなくヴェルナー・ヘルツォークの映画だなあ、と思った。死体だけではない。テレンスがイグアナを幻視するショットも2度出てくる。テレンスと仲間が、容疑者の家を向かいの家から監視している。テレンスは麻薬でハイになっているらしい。彼が目線を下げると、机の上にイグアナがいる。
カメラは、イグアナの緑のウロコに近づき、ぎょろりとした目玉を映しだす。ほかの刑事たちにイグアナは見えていないらしい。現実のなかに突然現れた緑のイグアナは、テレンスの幻想なのか、あるいはテレンスの内部でうごめいている何ものかを奇怪なイグアナという形で見る者に提示したのか。
ラストシーンも印象的だ。警部に昇進したテレンスは、ニュー・オリンズのホテルの一室で麻薬を吸いこもうとしている。そこへ偶然、ハリケーン・カトリーナで水没しそうな拘置所の檻からテレンスが助け、今はまじめに働いているルーム・サービス係がやってくる。テレンスは男と会話を交わしながら、何の脈絡もなくつぶやく。「魚は夢を見るのかな?」
その直後、水族館の巨大な水槽の前でテレンスと男が座っている。背後では、巨大なサメやエイが泳いでいる。ここでもまた、白い腹を見せてゆったり泳ぐサメやエイは、テレンスが見る奇怪な夢そのもののように感じられる。
ニュー・ジャーマン・シネマの監督、ヘルツォークの映画が日本で公開されるのは久しぶり。というか、僕が見ていなかったんだな。1980年代の傑作『フィッツカラルド』以来、二十数年ぶりに彼の映画を見て、変わってないなあと思った。登場人物の内面や外面が異形で、現実と夢が入り混じり、グロテスク。聖と俗、正と悪が判然としない世界。
『バッド・ルーテナント(原題:Bad Lieutenant:Port of Call New Orleans)』は、1992年にニューヨーク・インディーズの監督、アベル・フェラーラがつくった『バッド・ルーテナント』のリメイクだ。僕は残念ながら前作を見てない。資料を見ると前作はニューヨークの話だけど、ヘルツォークはハリケーン・カトリーナ襲来直後のニューオリンズに舞台を移している。
ニューオリンズは歴史的にフランス系やカリブ海のクレオール文化が流れ込み、地理的には湿地帯に囲まれているから、じっとり湿り(映画にはワニや蛇も登場)、熱帯のほの暗い狂気を感じさせる、南部でも独特の雰囲気を持った町だ。さらにカトリーナ後の荒廃を加えれば、ヘルツォークの世界にふさわしい。
実際、カトリーナ後に人口が流出してゴーストタウンと化した郊外でロケされている。僕も2年前に行ったことがあるけれど、調べるとその後も人は戻っていないし、犯罪も増えている。映画はそういう現実を背景にしているんだろう。
腕利き警部補のテレンスが、カトリーナの際、男を助けたことから腰を痛め、処方された痛み止めを飲むうち麻薬にはまる。警察署の証拠品保管所からコカインやヘロインを盗み出す。クラブから出てきたカップルを脅し、マリファナを押収して自分で吸う。女性には性的奉仕を強要する。愛人の高級娼婦フランキー(エヴァ・メンデス。クレオールの美女役)と麻薬を楽しみ、フランキーの客も脅す。スポーツ・バーでギャンブルにはまる。
その一方、麻薬の売人だったセネガル人一家が惨殺された事件を追い、犯人である麻薬組織の元締めの黒人ギャングに近づいて罠にかける(このあたり、罠にかけたのか、悪事が署内でばれそうになったのでギャングに接近し、成り行きで裏切ったのか判然としないけれど)。結果として、すべてがうまくいき、テレンスは警部に昇進する。ヤク中のフランキーも更生して、赤ん坊ができる。一見、ハリウッドふうハッピーエンドなんだけど、テレンスは相変わらず麻薬にはまっているらしい。この後、テレンスはどうなるのか?
正義と悪の境目がなくなり、破滅に向かって突っ走る警部補を、ニコラス・ケイジが例によってやりすぎで怪演してる。テレンスが幻視した夢は、ドイツ人ヘルツォークが見たアメリカという国のグロテスクな悪夢なんだろうな。ヘルツォーク流フィルム・ノワールとして楽しみました。
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