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March 31, 2010

神田川夜桜

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早稲田近辺の神田川夜桜。8~9分咲きだった。デジカメの電池切れに気づかず、辛うじてこの1枚だけ。


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March 30, 2010

聖林寺から三輪神社へ

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若いときから大和盆地へは何度か行っているけれど、このあたりははじめて。大阪で仕事があったので、翌日曜日、難波から近鉄に乗って桜井まで足をのばした。どんより曇っているけど暖かい日。

聖林寺の十一面観音は以前から見たいと思っていた。天平時代の仏像の傑作として有名だ。その姿を和辻哲郎は、「流るる如く自由な、さうして均勢を失はない、快いリズムを投げかけている」と書いた。桜の季節だけれど、拝観者は僕ともうひとりの女性だけ。本堂脇から回廊を昇ると、お堂のなかに十一面観音がひとり立っていた。

僕は仏像の専門的なことは分からないけど、うーん、ふくよかな顔、胸から腰にかけての肉感、すっと立った姿勢、流れるような衣のライン、すべてが魅力的。十一面観音は男性性と女性性をあわせ持つと言われるけれど、山城・観音寺や湖北・渡岸寺の十一面観音がどちらかといえば女性性を感じさせるのにくらべると、この観音さんはどちらにも傾かない。

古典的といえそうな美しさ。この柔らかな優美さを、もっと古い法隆寺の釈迦三尊や韓国や中国の仏像から(そんなに見ているわけじゃないけど)感じたことはない。この時代に、日本のオリジナルを加えた仏像になったということだろう。

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境内からの風景。左奥に霞んでいるのが三輪山。

聖林寺の十一面観音は、もともと三輪神社の神宮寺(神社に附属した寺)である大御輪寺(おおみわでら)の本尊だった。ところが明治初年の廃仏毀釈で寺が壊され、十一面観音も雨ざらしのまま放置された。それを惜しんだ関係者が大八車に乗せて聖林寺まで運んできたという。聖林寺は代々、大御輪寺の住職が引退して住む寺だったから、その縁で避難させたのだろう。

三輪神社からここまでおよそ6キロ。春の日差しだし、観音さんが大八車に乗せられてきたコースを逆に歩いてみることにした。

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聖林寺は大和川の支流に沿い、小倉山の麓にある。川沿いに桜井の市街地を目指して歩く。

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市街地を過ぎ、近鉄の踏切を渡ってしばらく歩くと海石榴市(つばいち)跡に出る。7世紀ごろ、ここには海石榴市と呼ばれる大きな市があった。竹ノ内街道、山辺(やまのべ)の道など何本もの街道が交差し、大阪湾から大和川をさかのぼる海運の港でもあったから、交易の中心地として栄えた。

遣隋使もここから出かけ、また帰ってきたから、中国文明の玄関口であり、仏教もここに上陸した。

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「日本書紀」によると552年、百済の使者が釈迦仏と教典を携えてこの港に上陸した。使者は港近くの磯城嶋金刺宮に向かい、仏と教典を奉ったという。写真が磯城嶋金刺宮と伝えられる場所。今は桜井市の水道局になっている。かつては保田與重郎の筆による碑があったようだが、現在は別の場所に移され、何もない。

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大和川沿いの道で遊んでいた子どもたち。

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海石榴市からは山辺の道を歩く。三輪山の麓に沿って古道が整備されており、散策する人もぐっと多くなる。

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聖林寺に移された十一面観音を本尊としていた大御輪寺は廃仏毀釈で壊されたが、今は平等寺として再興されている。十一面観音はここから200メートルほど昇ったあたりに放置されていたという。

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三輪神社は三輪山全体が神体であり、だから本殿のない神社として有名だ。神が山や岩や木に降り、そこが聖なる場所とされた古神道の面影を伝えている。やはり場所そのものが聖域で建築物を持たない沖縄の御嶽(うたき)や済洲島の本郷堂(ポンヒャンダン)とも共通するところがある。

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摂社(三輪神社に附属した神社)のひとつ狭井神社。いかにも山そのものを祀っている感じ。

三輪神社に本殿はないけれど拝殿があり、お参りに来た人たちはそこで手を合わせる。拝殿の裏、神体である山との結界にあたるところに三ツ鳥居と呼ばれる鳥居があるという。

見学させてもらったら、三つの鳥居が重なってひとつの鳥居をなしているような建造物。三つなのは、三輪神社の祭神が大物主(おおものぬし)など三体の神であることによる。三ツ鳥居の手前では、神主さんがご神体の山に向かって祝詞をあげていた。


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March 24, 2010

『ホワイト・オン・ライス』と寅さん

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『ホワイト・オン・ライス(原題:White on Rice)』は在米日本人を主人公にしたコメディ。アメリカ人監督デイブ・ボイルがつくったインディペンデント映画だ。知り合いのMio Takadaが出演している。彼はTVの人気シリーズ「ヒーローズ」にも出ている。

この映画に出たことは知っていたけれど、日本ではなかなか見る機会がなかった。そんなところに大阪アジアン映画祭に特別出品されることになり、東京でも1回だけ上映された(3月20日。4月5日に追加上映あり)。

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会場の渋谷・アップリンクには主演の渡辺広、NAE(裕木奈江)、監督のデイブ・ボイル(左から)が顔を見せて挨拶。渡辺広はロスを本拠に活動しており、『ラスト・サムライ』や『硫黄島からの手紙』に出ている。NAEも『硫黄島からの手紙』がすごく印象的だった。彼女もロスに住んでおり、次はデヴィッド・リンチの『インランド・エンパイア』というから楽しみだ。

25歳のデイブ・ボイルは初めて日本に来たというのに、日本語がうまいのにびっくり。聞けばデビュー作は、彼自身がオーストラリアの日本人コミュニティで伝道に従事しながら日本語を習った体験をもとにした『ビッグ・ドリームス・リトル・トーキョー』だという。この作品がロスのAFI映画祭で注目された。今回の作品もロサンゼルス・アジア太平洋映画祭で審査員特別賞を受けている。

『ホワイト・オン・ライス』のキャッチには「アメリカ版寅さん」とあった。たしかに。

アメリカで暮らすアイコ(NAE)とタク(高田ミオ)夫婦の家に、アイコの兄・ハジメ(渡辺広)がころがりこむ。別れた妻が忘れられないバツイチの40歳で、趣味は恐竜。小学生の息子の部屋に居候し、いろいろ仕事をやっているのだが失敗つづき。何をやってもうまくいかない。ある日、タクの姪ラモナ(リン・チェン)に再会したハジメは、美しく成長した彼女に心を奪われる……。

ハジメが寅さんなら、ラモナがマドンナ。アイコとハジメは、さくらと寅さんと同じ「賢い妹」に「ダメな兄」の関係。タクが、寅さんを半ば迷惑がりながら愛している、さくらの夫や叔父、叔母といった家族の役どころをひとりでになう。

寅さんのキャラクターが落語の影響を受けていることはよく知られている。寅さんも、その家族も、舞台になる下町の濃密な人間関係もリアリズムでなく、過去にも現在にも存在したことのない、人々の願望や夢のようなものであることは誰もが分かっている。現代の民話みたいなものだからこそ長寿なシリーズになった。

それをアメリカの日本人コミュニティに移しかえようというのはむずかしい試みだね。寅さんのキャラクターが民話として成立するのは、誰もがそれを了解し愛することのできる共同体あってのことだけど、それがない。となると、寅さん(ハジメ)は共同体から切り離された個人になってしまい、ただのルーザーであったり、マドンナにまとわりつくストーカーみたいになってしまう。

ハジメは何があってもめげず、最後には仕事も恋もなんとかなってしまう。寅さんが最後に必ず失恋して再び旅に出るのとちがって、そのあっけらかんに笑ってしまう。そのズレというか、ちぐはぐな感じが、この映画の面白さかもしれないな。

アメリカの日本人(アジア人)コミュニティを舞台に英語と日本語が行きかう(息子は家族内でも英語しかしゃべらない)こういう映画ができたこと、しかもそれをつくったのが日本映画オタクのアメリカ人だったってところが、いかにも今の映画づくりの裾野がどう広がっているかを表わしているようだ。

タイトルのwhite on riceとは、「引き剥がそうとしても、離れない。白とごはんは一体のものだから。つまりハジメを一家から引き剥がせない」という意味らしい。

Mio Takadaは、その引き剥がせないハジメと妻のアイコを苦々しい表情で見つめる夫の役を演じて、いい味出してる。NAEさんも、困ったちゃんの兄を優しく見つめる妹役で相変わらず魅力的でした。

(後記)ハジメとアイコを弟と姉と書きましたが、兄と妹でした。それに従って本文を直しました。指摘してくれたTAKAMI君、ありがとう。

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March 22, 2010

浦和ご近所探索 縄文地図

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(「浦和地質模式断面図」~『浦和市史』から。左3分の1あたりを南北に走っているのが国道17号)

面白い地図をみつけた。浦和の地形図を等高線に沿って色分けしたもの。海抜10メートル以上が黄緑や黄色、オレンジといった濃い色で塗られている。10メートル以下は、写真では灰色に見える。

これがなぜ面白いかといえば、今から7~8000年前の縄文時代、地球が温暖化して海面が上昇した。その時代の海面は、現在より5~10メートル高かったとされている。だから大雑把にいえば、この地図で灰色に見えるところは海で、黄色やオレンジ色の部分は陸地だったことになる。これは「縄文時代の浦和」の地図なのだ。

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浦和という地名は、もともと「浦曲」と書いて「うらわ」と読んでいたらしい。白川静『字通』によれば、「浦」は「はま、水のほとり」、「曲」は「まがる、こまごまとした」の意。つまり「浦曲」は「浜が曲がりくねっている」という意味になる。地図を見ると、海岸線の入り組んださまはまさに「浦曲」ではないか。

そこで等高線6~10メートル、つまり縄文時代の海岸線に当たるあたりを歩いてみることにした。いちばん分かりやすいのは国道17号線だろう。

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わが家から3分ほどのところを国道17号線が走っている。それを日本橋方向に20分ほど歩くと「別所坂上」の信号がある。そこからゆったりとした下り坂が200メートルほどつづき、下りきったところに「別所坂下」の信号がある。

地形図によると、別所坂上は標高12メートル前後、別所坂下は8メートル前後。とすると、縄文の海面が最も上昇した時代の海岸線は、この坂下あたりにあったことになる。

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別所坂下の交差点そばに、白幡沼がある。国道17号線が南北に走っている細長い台地と、その東側にあって旧中山道が走っている台地に挟まれた谷の入口に当たる。沼はそんなに古いものでなく、かつて海だったこのあたりの低湿地が新田開発された江戸時代に灌漑用につくられた溜池らしい。

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沼のほとりには、「宝永」(1704~1710)と刻まれた庚申塚がある。

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住宅や学校に囲まれた白幡沼の周りは遊歩道になっている。

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白幡沼から数分歩いたところの高台に睦神社がある。鳥居の建っているところの標高は沼とほぼ同じレベル。そこから石段を数十段上がったところに社殿がある。つまり睦神社は、縄文時代には海に突きだしていた台地の上に建てられている。

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睦神社の鎮守の社には自然林が残っていて、シロダモ、ヤブツバキ、ビナンカズラ、キチジョウソウといった暖地性植物が自生している。境内の案内板には、「これは、この台地の縁辺にかつて太平洋の暖流が打ち寄せており、この地一帯に暖地性常緑広葉樹が繁茂していたことの名残のものです」とある。

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(左端が富士社)

案内板には「睦神社は大宮台地の南縁の舌状台地上にある」と説明されている。高台に立って南を見ると、ヤブツバキやビナンカズラの林の向こうに川口、東京方面が見渡せる。変哲もない住宅地の風景が春霞にぼんやり広がっているだけだけれど、縄文の風景を想像してみる。

いま見下ろしている川口から東京にかけては縄文時代、考古学で奥東京湾と呼ばれる海だった。現在、荒川が流れている流域をまたいで、十数キロ向こうの対岸には赤羽台~王子・飛鳥山~日暮里・道灌山~上野山の連なりが見えていたろう。

近くに貝塚もあるから、このあたりで縄文人が暮らしていたことは確か。大宮にある県立歴史民俗博物館の展示を見ると、対岸の古東京とこのあたりの土器は様式が同じだから、両者の間には交通があったようだ。境内には富士社がある。古東京の背後にそびえる富士が信仰の対象になっていたのだろう(今でも晴れた日にはよく見える)。

睦神社の縁起はよく知らない。でも、この神社が舌のように突き出た長い岬の突端に位置していることは興味深い。中沢新一『アースダイバー』によれば、東京の縄文地図をつくってみると、神社はしばしばここと同じような岬の突端につくられていたという。「縄文時代の人たちは、岬のような地形に、強い霊性を感じていた。そのためにそこには墓地をつくったり、石棒などを立てて神様を祀る聖地を設けた」(中沢新一)。

とすれば、この睦神社も縄文の時代、既になんらかの聖なるものが置かれ、祭祀が営まれていたのかもしれないな。そんな空想をしてみたくなる。


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March 20, 2010

『ハート・ロッカー』と西部劇のヒーロー

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冒頭、「War is a drug.」というエピグラフが映し出される。見終わって、この言葉に映画のエッセンスが込められていたのが分かった。これは「戦争依存症」の男の映画だったんだ。

戦争依存症の男にとって、戦場はイラクであろうがアフガニスタンであろうが、戦場でありさえすればどこでも構わない。また、正しい戦争(というのがあるとして)であろうが、間違った戦争であろうが、それも問題ではない。

『ハート・ロッカー(原題:The Hurt Locker、棺桶)』の主人公、米陸軍爆発物処理班のジェームズ軍曹(ジェレミー・レナー)にとっては、爆弾処理の危険な現場が存在することだけが重要なのであり、その爆弾を誰が、どういう理由によって仕掛けたのかが意識に上ることはない。彼にとっては死と隣り合わせの体験だけが「生きている」時間で、それをもたらした状況はどうでもいい。

だから、この映画は「われわれはなぜイラクにいるのか」とは問わない。「この戦争は間違っているのではないか」という疑問とも無縁だ。

だからといって、そういう意識のあるなしでこの映画を評価しようとは思わない。映画に倫理や価値観をもちこむ必要は必ずしもないのだから(いや、別に持ち込んでもかまわないけど。『戦艦ポチョムキン』や『カサブランカ』みたいなプロパガンダ映画の傑作もある)。でも、そういうものをセリフや音楽や映像で明示しなくても、どうしたって映画全体から自ずからにじみ出てくるものがある。大げさにいえば映画の無意識みたいなもの。

爆発物処理のルールを無視し、防護服を脱いで爆弾を処理したり、無茶をやって部下を危険にさらしたりするこの男は、戦争依存症という病気であると同時に、現場の司令官が誉めたたえるヒーローでもある。そういう相反する二面性がこの男には与えられている。

戦争依存症といっても、それは見ている僕らがこいつは病気だなと思うだけで(あるいは、つくり手がそう思わせる描写をしているだけで)、劇中のジェームズ軍曹がそれを自覚しているわけじゃない。戦場に恐れおののき、軍医にセラピーしてもらっているのは、部下のエルドリッジ技術兵(ブライアン・ジェラティ)のほうだ。

ジェームズ軍曹は700発以上の爆弾を処理したプロ中のプロで、部下のサンボーン軍曹(アンソニー・マッキー)とは殴りあいをすることで友情を確かめあうような男。プロフェッショナルで、マッチョで、でも女性や子供に優しいキャラクターは、西部劇の荒くれ男を筆頭に、アメリカ映画がいちばん好むヒーロー像でもある。

この映画は、そんなジョン・ウェインに象徴される古いタイプの西部劇のキャラクターと構造を、そのまま踏襲しているようにも思える。ジョン・ウェインは、俺たちはなぜ西部にいるのかと自問しなかったし、インディアンはなぜ襲ってくるのかと疑問をもつこともなかった。ウェスタン映画の舞台だった西部がイラクになり、インディアンがイラク人テロリストになったと思えば、この映画はひとひねりしたヒーロー(病気の男)を主役にした現代的西部劇と言えるかもしれない。

同じような現代的西部劇でも、例えばクリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』は、古い西部劇が無自覚のうちに前提とした白人は善、インディアンは悪という単純な価値観に疑問をさしはさむものになっていた。『ハート・ロッカー』は、手持ちカメラを多用した戦場シーンはリアルだし(撮影はケン・ローチ作品を撮っているバリー・アクロイド)、アクション映画としての出来はいいけれど、古い西部劇の構造をひきずっているために、どこか底の浅い感じを否めない。

「War is a drug.」というエピグラフに、それなりの批評的な目を感ずることはできるけれど、それもひとひねりしたヒーローのアクション映画に薬味をきかせる程度の役割しか果たしてないんじゃないか。

とすれば、この映画が今年のアカデミー賞最優秀作品賞を取った理由もよく分かる。ひとつは、アメリカ映画の主流である西部劇(戦場映画)としての出来のよさによって。もうひとつは、戦争の是非を問わないことによって。

さっき触れた『グラン・トリノ』や、同じイーストウッドの『父親たちの星条旗』、あるいは『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』といった自らを切開する痛みをともなう映画群は、所詮アカデミー賞とは無縁なんだろう。でも、こういう映画が次々に生まれることこそアメリカ映画の素晴らしさだと僕は思ってる。


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March 19, 2010

ニラの花

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ニラの花。このニラはお隣の庭からじわじわわが家に広がってきた。ニラが幅をきかせているところには、ほかの草が生えない。その生命力の強さに驚く。でも花は可憐。葉は八百屋で売っているものほど長くないけれど、苦みがより強い。

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March 18, 2010

『パレード』の語り口

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行定勲監督の映画を見るのは『go』以来のことになる。

『go』は金城一紀の直木賞受賞作を原作にした、在日韓国人高校生と日本人女子高生の恋を描いた青春もの。同じ在日韓国人を主役にしたものでも、『血と骨』や『パッチギ』が民族問題をストレートに、深刻な表情で取り上げていたのに比べると(それが成功したかどうかは別にして)、在日の問題を青春の悩みのひとつみたいな軽々とした手つきで扱っていたのに若い世代の感覚を感じた(原作もそこが新しかった)。

『go』もそうだったけど、その後、『世界の中心で、愛をさけぶ』とか『春の雪』とか小説を原作にした映画をつくっているのを眺めて、文芸ものをつくるのがうまい監督なんだなあと思っていた。いま、いちばん脂がのってる作家、吉田修一の『パレード』を原作にしたこの映画でもその印象は変わらない。

主人公の1人がマンションの部屋で目覚める冒頭。ヘリのぱたぱたいう音が遠く聞こえ、カーテン越しに揺らめく陽の光が彼に当たっている。その音と光の揺らぎが、見る者に不安を感じさせる。その後も、この映画は光をとてもうまく使っている。特に都会の人工光の明滅が主人公たちの心象を巧みに表現していると思った。

原作は、世田谷のマンションをルームシェアしている5人の若者がそれぞれ一人称で語るスタイルで書かれていた。映画もそれを踏襲している。映画会社勤務の会社員や学生、男からの電話を待っているだけの女など、男2人女2人の「ネットのチャットルームみたいな」関係。セックスと、相手の内部に踏み込むのはルール違反。それが嫌なら出てゆけばよい。

その部屋に、男娼をやっている年下の男が新たに仲間として入り込むことで、彼らの日常に小さな波紋が広がってゆく。マンションの近くで連続女性殴打事件が起こり、その犯人が男娼ではないかと疑いをかける。

原作は1990年代のTV番組やタレントの名前をちりばめながら5人の日常を語ってゆく。映画は、小説のおいしいセリフやエピソードを上手にまとめてる。ただ、小説は淡々とした日常にある瞬間、亀裂が走るところが吉田修一らしいところだけど、映画はどちらかというと犯人探しのミステリーに力点がおかれる。映画化に当たってそれは正解だったかもしれないけど、風俗小説の体裁を取りながらその裏側に潜む凄みが魅力を感じさせる、原作の力はやや薄くなった。

行定監督は語りがうまい。あるいは、うますぎる。だからだろう。揺らぐ光をうまく使った不安な映像も、それが表現として突出せず、スムースな語りのなかにこじんまりと収まってしまう。すごい、というより、うまい映画だな、という印象。

先週見たパク・チャヌクなら、そこをごりごり押し出す。『パレード』は今年のベルリン映画祭国際批評家連盟賞を、パク・チャヌクの『渇き』はカンヌ映画祭で審査員賞を取った作品だけど、僕の好みはパク・チャヌク。


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March 16, 2010

庭の春

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このところの暖かさで、開花の遅いわが家の庭の花もようやく開いた。ユキヤナギ。

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木瓜もやっとひとつ開花。

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レンギョウ。

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ヒヤシンス。

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March 14, 2010

春の下田街道

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暖かい一日、湯ヶ島から修善寺まで下田街道を走った。中伊豆の柔らかな風景。

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白花タンポポがたくさん咲いている。日本タンポポの一種。

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下田街道には何度となく来てるけど、旭滝ははじめて。落差105メートル。こんな見事な滝があるとは知らなかった。

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滝の脇には瀧源寺跡がある。明治期に宗派が途絶えた普化宗の寺。普化宗は網笠に尺八で諸国を行脚する虚無僧の宗派として知られた。

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修善寺寒桜は満開をすぎ、散り始めている。

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伊豆最古の木造建築、指月殿。北条政子の建立で、本尊は阿弥陀如来。


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March 12, 2010

『渇き』 荒唐無稽なリアル

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ヴァンパイアは相手の首筋に食らいついて血を吸うものと決まってるけど、ヴァンパイアになった神父のサンヒョン(ソン・ガンホ)は、人を殺さないよう病院で点滴している患者の管を口にくわえてチュウチュウ血を吸う。思わず笑ってしまう。

いったんは死んで動かなくなった人妻テジュ(キム・オクビン)が、サンヒョンにヴァンパイアの血を注ぎこまれ、画面いっぱいにアップになった下あごから首筋の肌がピクリピクリと動きはじめる。そのエロティックなこと! 家を飛び出し夜の街を走るテジュがいきなりサンヒョンに抱きかかえられ、はだしの足に男の靴を履かせられる。その切ないこと! 

夫のガンウを共謀して殺したテジュとサンヒョンが夫婦のベッドで抱き合っていると、裸の2人の間には死んだガンウがきょとんとした顔ではさまっている。2人の罪悪感が生んだ妄想を映像化してるんだろうけど、なんとも滑稽。夫を殺す前、テジュは口を開いて寝ている夫ガンウの口のなかに、ハサミの刃を突き立てる寸前まで振り下ろす動作を繰り返す。ギャッと叫びたくなるような空想の痛覚。

ワイア・アクションで夜の街の屋根から屋根へ飛びうつる抱き合ったサンヒョンとテジュの美しいこと! そんなふうに記憶に残るショットを数えあげれば、まだまだある。

ヴァンパイアの恋物語ってよくある話だけど、パク・チャヌクの『渇き(原題パクチェはコウモリの意)』は設定を現代の韓国に移しかえ、男には宗教的な破戒と自己処罰の劇を、女には因習的な家の「犬」として生きてきた人妻が自らを解放する『人形の家』的な劇を重ねて、荒唐無稽だけどリアル、コミカルだけど切なくて、グロテスクだけどエロティックで、作品としての統一感はないけどパワフルな映画になってる。

ソン・ガンホとキム・オクビンがすごくいい。2人の映画といってもいいくらい。

ソン・ガンホは韓国を代表する、日本でいえば役所広司みたいな役者だけど、10キロ減量して引き締まった顔で登場。カソリックの神父がウィルスの実験台に志願してヴァンパイアになってしまい、幼馴染の男の妻と愛し合うようになって女もヴァンパイアにしてしまう。最初は神父として、後にはヴァンパイアとして、わが身を滅ぼそうとする衝動に突きうごかされる男を演じてみごと。

キム・オクビンを見るのははじめて。チマ・チョゴリの店(セットみたいだけど、昭和の洋服店みたいな懐かしさを感じさせる)を経営するマージャン狂いの女経営者に育てられ、お人好しの息子の嫁にさせられて奴隷のように生きてきた女。それが神父と出会って変わりはじめ、店の暗がりで神父と抱き合い、自らもヴァンパイアになり、神父と共謀して夫を殺し、母親を不随の身にして店を乗っ取る。果ては神父すら振り回すようになる。

そんな女の変幻自在を全身で演じて魅力的(カタロニア映画祭で主演女優賞)。挑むような眼がいいね。そんなにキャリアのある女優じゃないらしいけど、美形の韓流スターというよりペ・ドゥナみたいなタイプかな(激しいラブシーンも厭わないし)。韓国映画を見る楽しみがまたひとつ増えそう。


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March 10, 2010

雪の庭

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今朝の庭。昨日からの雪が少しだけ積もり、起きたのが遅かったのでもう融けはじめている。

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沈丁花がようやく咲きはじめた。

たった今、がんで闘病していた知人が亡くなったとの知らせを受けた。63歳だったはず。20代のころ、一緒に仕事をしていた。才能がほとばしる男だった。冥福を祈る。

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March 09, 2010

春の雪

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雨が夕方からみぞれになり、雪に。午後6時、早くもうっすら積もりはじめた。明日の朝はどうなっているか。


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March 06, 2010

『バッド・ルーテナント』 イグアナの見る夢

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バッド・ルーテナント(悪徳警部補)のテレンス(ニコラス・ケイジ)が、追いかけていた殺人犯のギャングたちを罠にはめて銃殺したあと、仲間の刑事に言う。「もう一発撃て! 魂がまだ踊ってる」と。見ると、死体の背後で、当の死んだはずの男が手足を狂ったように動かして踊っている。テレンスが銃を撃つと、死体は二度死ぬ。踊る魂は、テレンスだけに見えていた幻想なのか。

まぎれもなくヴェルナー・ヘルツォークの映画だなあ、と思った。死体だけではない。テレンスがイグアナを幻視するショットも2度出てくる。テレンスと仲間が、容疑者の家を向かいの家から監視している。テレンスは麻薬でハイになっているらしい。彼が目線を下げると、机の上にイグアナがいる。

カメラは、イグアナの緑のウロコに近づき、ぎょろりとした目玉を映しだす。ほかの刑事たちにイグアナは見えていないらしい。現実のなかに突然現れた緑のイグアナは、テレンスの幻想なのか、あるいはテレンスの内部でうごめいている何ものかを奇怪なイグアナという形で見る者に提示したのか。

ラストシーンも印象的だ。警部に昇進したテレンスは、ニュー・オリンズのホテルの一室で麻薬を吸いこもうとしている。そこへ偶然、ハリケーン・カトリーナで水没しそうな拘置所の檻からテレンスが助け、今はまじめに働いているルーム・サービス係がやってくる。テレンスは男と会話を交わしながら、何の脈絡もなくつぶやく。「魚は夢を見るのかな?」 

その直後、水族館の巨大な水槽の前でテレンスと男が座っている。背後では、巨大なサメやエイが泳いでいる。ここでもまた、白い腹を見せてゆったり泳ぐサメやエイは、テレンスが見る奇怪な夢そのもののように感じられる。

ニュー・ジャーマン・シネマの監督、ヘルツォークの映画が日本で公開されるのは久しぶり。というか、僕が見ていなかったんだな。1980年代の傑作『フィッツカラルド』以来、二十数年ぶりに彼の映画を見て、変わってないなあと思った。登場人物の内面や外面が異形で、現実と夢が入り混じり、グロテスク。聖と俗、正と悪が判然としない世界。

『バッド・ルーテナント(原題:Bad Lieutenant:Port of Call New Orleans)』は、1992年にニューヨーク・インディーズの監督、アベル・フェラーラがつくった『バッド・ルーテナント』のリメイクだ。僕は残念ながら前作を見てない。資料を見ると前作はニューヨークの話だけど、ヘルツォークはハリケーン・カトリーナ襲来直後のニューオリンズに舞台を移している。

ニューオリンズは歴史的にフランス系やカリブ海のクレオール文化が流れ込み、地理的には湿地帯に囲まれているから、じっとり湿り(映画にはワニや蛇も登場)、熱帯のほの暗い狂気を感じさせる、南部でも独特の雰囲気を持った町だ。さらにカトリーナ後の荒廃を加えれば、ヘルツォークの世界にふさわしい。

実際、カトリーナ後に人口が流出してゴーストタウンと化した郊外でロケされている。僕も2年前に行ったことがあるけれど、調べるとその後も人は戻っていないし、犯罪も増えている。映画はそういう現実を背景にしているんだろう。

腕利き警部補のテレンスが、カトリーナの際、男を助けたことから腰を痛め、処方された痛み止めを飲むうち麻薬にはまる。警察署の証拠品保管所からコカインやヘロインを盗み出す。クラブから出てきたカップルを脅し、マリファナを押収して自分で吸う。女性には性的奉仕を強要する。愛人の高級娼婦フランキー(エヴァ・メンデス。クレオールの美女役)と麻薬を楽しみ、フランキーの客も脅す。スポーツ・バーでギャンブルにはまる。

その一方、麻薬の売人だったセネガル人一家が惨殺された事件を追い、犯人である麻薬組織の元締めの黒人ギャングに近づいて罠にかける(このあたり、罠にかけたのか、悪事が署内でばれそうになったのでギャングに接近し、成り行きで裏切ったのか判然としないけれど)。結果として、すべてがうまくいき、テレンスは警部に昇進する。ヤク中のフランキーも更生して、赤ん坊ができる。一見、ハリウッドふうハッピーエンドなんだけど、テレンスは相変わらず麻薬にはまっているらしい。この後、テレンスはどうなるのか?

正義と悪の境目がなくなり、破滅に向かって突っ走る警部補を、ニコラス・ケイジが例によってやりすぎで怪演してる。テレンスが幻視した夢は、ドイツ人ヘルツォークが見たアメリカという国のグロテスクな悪夢なんだろうな。ヘルツォーク流フィルム・ノワールとして楽しみました。

 


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March 05, 2010

木造住宅の解体

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いつも通る道で、古い日本家屋が解体されていた。

このあたりは戦前からの住宅地で戦災にも会わなかったから、戦前や、戦後も高度成長以前に建てられた木造住宅がぽつりぽつりと残っている。そのうちのいくつかは、玄関脇に一間だけの洋間がある昭和初期の「文化住宅」というやつ。この建物は「文化住宅」ではなかったけれど、白壁に生成りの柱を露出させた玄関を持つ粋なつくりだった。

つい先日も逆の方向で、やはり木造の日本家屋が解体され、駐車場になったのを見たばかり。僕は築80年以上の古い木造住宅に住んでいるので、こういう光景を見ると、わが身を切られるような痛みを覚える。

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March 04, 2010

『ルドandクルシ』のゆるさ

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『天国の口、終りの楽園。』ってメキシコ映画は、大ヒットしたわけでもなく、ベスト10クラスの映画でもなかったけれど、なぜか忘れがたい感触が残っている。

高校の同級生2人が、年上の女と3人で「天国の口」と呼ばれる伝説の海岸を探して旅に出る。とりたてて事件が起こるわけでもなく、なんてことない青春のロード・ムービーがメキシコののどかな風景のなかで展開される。現実感がなく、リアルな地上からほんの数センチ浮いているみたいな、ゆる~い幸福感が印象的だった。

『ルドandクルシ(原題:Rudo y Curci)』は、その『天国の口、終りの楽園。』の脚本を書いたカルロス・キュアロン(同作の監督、アルフォンソ・キュアロンの弟)の初監督作品。『天国の口』に主演した2人、その後、国際的に活躍しているガエル・ガルシア・ベルナルとディエゴ・ルナが共演している。

田舎のバナナ園で働くサッカー好きの兄弟がスカウトの目にとまり、メキシコシティに出てプロ選手として活躍するが、麻薬やギャンブルや女にはまり、あれやこれやで結局、田舎に逆戻り。そんな浮いたり沈んだりを、『天国の口』と同じような柔らかな語り口で楽しませてくれる。

もっともキュアロンは『天国の口』でヴェネツィアの脚本賞を取り、主演の2人も今やスターだから、映画の規模はぐっと大きくなっている。カルロスの兄、アルフォンソ・キュアロン、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ(『アモーレス・ペロス』)、ギレルモ・デル・トロ(『パンズ・ラビリンス』)というメキシコを代表する3人の監督が集まってつくった製作会社の第1作。それだけに、映画好きが好きなようにつくったらしい『天国の口』に比べると、ぐっと普通の映画に近づいてる。

人口の都市集中や麻薬といった問題も折り込んで社会派的な顔を持ってるし、コメディぽいシーンもあって、いろんな客層を狙うエンタテインメント映画の王道を行く。でも、ギャンブルにはまって借金を作った兄を脅しにくるギャングがスーパーでパンパースを探していたりして、そんなゆるさが『天国の口』の語り口に似て快い。

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