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February 27, 2010

満開の梅

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満開の梅。昨日からの雨ではやくも散りはじめた。

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沈丁花はまだ蕾。日当たりが悪く、おまけに何年か前、雪の重みで倒れて以来、勢いがなくなった。

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ボケもまだ蕾。鎌倉に住む友人、TAKAMI君のブログRadical Imaginationを見てると、開花に半月ほどの差がありそうだ。


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February 21, 2010

『抱擁のかけら』 赤いノワール

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色彩あふれる官能的な映像で、ファンにはおなじみの愛と裏切りの物語が展開される。今回もアルモドバル節全開だなあと楽しんでいて、ふと、この映画、ノワールやハードボイルドの語りを意識してると気づいた。

『抱擁のかけら(原題:Los Abrazos Rotos)』は冒頭から謎や秘密がちりばめられている。盲目の脚本家ハリー・ケイン(ルイス・オマール)は、ある出来事をきっかけに、それ以前の名前を捨てた男。そのハリーのもとに、何かを秘めているらしい男、ライ・Xが訪ねてくる。これはハードボイルドのオープニングの定番。ライはハリーに、「父の記憶に復讐する息子の物語」の脚本に協力してくれるよう求める。

ハリーのそばには、かつて妻か恋人だったらしいエージェントのジュディットと息子のディエゴがいて、身の回りを世話している。家族のようにも見える3人の関係も、冒頭からしばらくは謎。

ライの訪問は、ハリーに過去を思い出させる。ハリーの机の奥には、美しい女の写真が隠されていた。ディエゴの興味に答えて、ハリーは過去を語り始める。この一人称の語りというスタイルもハードボイルドの定番。写真の女は、ハリーのかつての恋人レナ(ペネロペ・クルス)だった。

高級娼婦だったレナは、大企業のオーナー、エルネスト・マルテル(ホセ・ルイス・ゴメス)の愛人で、当時、映画監督だったハリーが企画する映画のオーディションに応募してきた。レナが初めてハリーを訪ねるシーン、ジュディットはハリーに、「美しすぎる女が来た」と伝える。ファム・ファタールの登場にふさわしい。

レナと、彼女を主役に抜擢したハリーは、映画の撮影が始まるとすぐに愛し合うようになる。それに気づいたエルネストは、映画に出資して2人を抑えにかかる。その上、父親に複雑な感情を持っている息子のライ・Xにビデオを持たせ、映画のメイキングをつくりながら2人を監視させる。

このあたりで見る者は、3人の愛がいずれ破局を迎え、ハリーが盲目になり名前を変えたのはそのせいだなと見当がついてくる。事故か、犯罪か? 

ノワールやハードボイルドの定石を踏まえた展開なんだけど、一見そう見えないのは、ひとつには華麗な色彩のせい。

ノワールやハードボイルドはモノクロームで光と影を際立たせ、カラーでも漆黒の描写を多用したものが多い。でもこの映画はそうではなく、撮影監督ロドリゴ・プリエト(『アモーレス・ペロス』『8mile』『バベル』)の撮るカラー映像が明るく、なんとも官能的だ。

スペインの風景、特にカナリア諸島の黒ずんだ大地に緑が散在する荒野を車が疾走するシーンなんかも美しい。ハリーとレナが車の中でキスしているメイキング映像の最終シーンに、現在のハリーの手が重なってくるショットや、小さく引きちぎられたハリーとレナの写真の切れ端が散乱しているショットも魅力的だ。また、ペネロペのスーツやハリー愛用の車、カーテンなど、アルモドバルの映画ではいつもそうだけど赤が意識的、かつ効果的に使われている。官能的な赤色。形容矛盾だけど、赤いノワールとでも呼びたいほどだ。

一見ノワールやハードボイルドに見えないもうひとつの理由は、アルモドバルらしく劇中映画をめぐる色んな仕掛けがほどこされていることかな。ハリーがレナを主演に撮っている映画は『謎の鞄と女たち』ってコメディなんだけど、この劇中映画はアルモドバルの『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(未見)を下敷きにしているらしい。

この劇中映画の撮影中、ライ・Xはハリーとレナを執拗に追ってもう1本の劇中映画、メイキング映像をつくっている。それを見たエルネストが2人への嫉妬を燃えあがらせ破滅を招くんだけど、このメイキングはそれだけじゃなく、ライ・Xとエルネストの父子関係をも照らしだしている。

冒頭、ライが盲目になったハリーを訪れて、「父の記憶に復讐する息子の物語」を撮りたいと言ったのは、金持ちで抑圧的な父に対する感情に加えて、ライもまたレナに惹かれ、執着していたことを示してるんだろう。外見はヤワ、でも偏執的なこの脇役の存在が、映画の味付けになってる。

ほかにも映画による仕掛けがされている。ハリーとレナが部屋で見ているのはロッセリーニの『イタリア旅行』だ。イングリッド・バーグマンが美しい。彼女は、ポンペイで抱き合ったまま火山灰に埋もれた男女のミイラが掘り出されるのを見ているけれど、この抱き合ったまま死んだミイラはハリーとレナの愛の行方を暗示しているだろう。僕は気づかなかったけど、エンド・ロールにノワールの古典『ガン・クレイジー』もクレジットされていた。ハリーの部屋にポスターでも貼られていたんだろうか。

それにしてもアルモドバルの語り口はうまい。いかにもアルモドバルらしい愛と裏切りのストーリー・テリングは巧みだし、映像は美しいし、音楽もいかにもスペインふうだし。しかも最後には家族の再生に映画の再生を重ね、ファム・ファタール、ペネロペへの愛をハリーの記憶のなかにきちんと埋葬してみせる。かつてのアルモドバル映画の激情やバランスを無視したこだわりは薄くなったぶん、良くも悪くも成熟したんだろうか。

ペネロペをマリリン・モンローふうにブロンドにしてみたり、オードリー・ヘップバーンふうな髪型にしてみせたり、アルモドバルの彼女への偏愛だけは変わりませんが。


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February 16, 2010

『インビクタス/負けざる者たち』のまっすぐ

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小生、40歳まで草ラグビーをやっていたから、一応はラグビー・ファンのつもり。ファンにとって、『インビクタス(原題:Invictus)』に描かれた1995年のW杯は思い出したくもない記憶だ。なにしろ、予選プールで日本はニュージーランド(オールブラックス)に17対145とW杯史上最多失点で敗れた。映画でもそのスコアに触れられていて、館内から失笑がもれるのがつらい。

どんなに実力差のあるチーム同士のゲームでも、100点取るのは大変だ。大学ラグビーや日本選手権の1回戦でときどきあるけど、印象としてはゲームの最初から最後まで一方的に攻め、トライを重ねてはじめて100点の大台に乗る。それが145点というんだから、想像もつかない。薫田主将以下、平尾、元木、ラトゥ、堀越、増保といった面々(出場メンバーは未確認)で、歴代日本代表のなかでも悪いチームじゃないけど、なにかが切れてしまったんだろう。

それはともかく、ラグビーは世界的にもマイナー・スポーツだから、競技をテーマにした映画はごく少ない。記憶に残っているのは、1960年代の『孤独の報酬(This Sporting Life)』くらいか。当時のイギリス・ニューシネマの1本で、リチャード・ハリスが元炭鉱夫のプロ・ラグビー選手を演じた。といってもラグビーはあくまで背景にすぎず、労働者階級の孤独で寂しい恋愛映画だった。

その意味で、ラグビーそのものをこんなにきちんと描いた映画は初めてかもしれない。

悪名高いアパルトヘイト体制の間、南アフリカのラグビー代表チームは国際マッチから締め出されていた。それでも南ア・チームの強さは知れわたっていたから、南アは「影の最強国」と言われていた(ドラマ性を高めるためか、映画では最初、弱小チームみたいに描かれてるけど、そこだけは違う)。

アパルトヘイトが崩れ、ネルソン・マンデラが大統領に就任して南アは国際マッチに復帰し、首都ヨハネスブルクでラグビーW杯が開かれることになった。映画は、W杯での南ア代表チームの戦いを忠実に追ってゆく。

ラグビー・ジャーナリスト村上晃一のブログには、この映画を見た元日本代表のフランカー梶原宏之の、こんな感想が紹介されている。「試合の場面はよく再現されている。専門家がそうとう綿密に指導していますね。西サモア(現サモア)戦の南アフリカのサインプレーもそのままでしたよ」。

7トライでトライ王に輝いた最大のスター、オールブラックスのロムーを演じたのはトンガ出身のラグビー選手で、つい最近まで現役としてプレーしていたザック・フュナティ。顔も似てるし、体が大きいこともそっくりで、南ア代表のキャプテン、ピナールに扮したマット・デイモンがタックルにいくシーンなんか、おいおい大丈夫? と心配してしまう。

きちんと再現されているのは試合だけはでない。大統領になったネルソン・マンデラ(モーガン・フリーマン)が初めて大統領府に顔を出す朝、白人スタッフが荷物をまとめて出ていこうとしている。マンデラは彼らを集め、協力して国をつくっていこうと話しかける。さらに反政府時代からマンデラを守ってきた黒人の護衛官たちに加えて、新大統領は新たに白人の護衛官を任命する。彼らははじめ反目し、ぎくしゃくしながらも、共同して任務に当たる。

旧支配者だったアフリカーナー(オランダ系)ら白人と、新たに政権中枢についた黒人の間の不安や確執、民族意識がていねいに描かれている。南アに行ったことのある知り合いのジャーナリストは映画を見て、「白人黒人の融和を強調しすぎてるきらいはあるけど、状況はきちんと押さえられてる」と言っていた。

監督のクリント・イーストウッドは、そんなふうにアパルトヘイト崩壊後の社会状況を押さえたうえで、黒人のマンデラ、白人のピナールという2人のまっすぐな人物を配している。「インビクタス」という詩を媒介に2人の友情を描きながら、予選プール、準決勝、オールブラックスとの決勝と、W杯の興奮を盛り上げてゆく。

このあたり、職人監督としての腕の見せどころといった感じ。全体として爽やかで、社会的視点を持ちあわせ、劇的興奮もありの、良質なハリウッド映画に仕上がっている。さすがイーストウッド監督、たっぷり楽しませてもらった。

もっとも僕個人の好みでいえば、この作品や『チェンジリング』のような「正しい主人公」を配した作品より、『ミスティック・リバー』や『ミリオンダラー・ベイビー』『グラン・トリノ』のように内部に屈託を抱えた人物を主人公にした作品のほうが好きだ。もともと監督としてのイーストウッドは、監督第1作『恐怖のメロディ』以来、そういう人物像を好んで描いてきた。

といっても、イーストウッド監督はそればかりじゃなく、『スペース・カウボーイ』の痛快エンタテインメントもあれば、ハードボイルドの『ブラッド・ワーク』、純愛ものの『マディソン郡の橋』、そして『父親たちの星条旗』のような戦争映画の傑作もある。それもこれもイーストウッドなんだから、すごい。やっぱりハリウッドを代表し、王道を行く映画監督なんだなあ。

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February 14, 2010

粋な小村雪岱ワールド

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わが家から歩いて10分ほどのところに埼玉県立近代美術館がある。ときどき面白い企画展をやるので、ふらりと出かけることがある。いまやっているのは、「小村雪岱(せったい)とその時代」。

埼玉県川越出身の小村は、東京美術学校(現・東京芸術大学)に学んだ日本画家。大正から昭和前期にかけて、資生堂意匠部に勤め、挿絵画家、装丁家、舞台装置家として名をなした。日本画(浮世絵)の伝統とモダン・デザインが融けあったその世界は、粋という言葉がぴったり。

小村は香水の瓶のデザインや、単行本・雑誌の挿画・装丁、舞台装置といった境界領域での仕事が多かった。「昭和の春信」と呼ばれるきっかけになった「おせん」挿画、色気が匂いたつ「刺青のお伝」挿画、静謐な空気を湛えた「青柳」「落葉」「雪の朝」の連作。どれも見ていて、いい気分になってくる。

なかでも小生には仕事柄、小村が描き、造本した装丁家としての仕事が興味深かった。口絵に和紙の木版画をはさみこんだり、見返し全面にモダン浮世絵ふうな木版風景画を刷ったり、本が大量印刷でなく手仕事の工芸品に近かった時代の、モノとしての存在感が素晴らしい。

本がデジタルなデータになりつつある時代に、モノとしての本の魅力をどうつくっていくのか。考えさせられるな。


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February 07, 2010

ミニスカ・フィギュア

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散歩道にあるフォードの販売店。カウンターにフィギュアが飾ってあった。いかにもアメリカ車の店だなと思って近づくと、あれ、これに似たものを見た覚えがある。

数年前、リモージュの輸入販売をしている友人のI君が、アメリカのフィギュアを買い付けたことがあった。ところがちっとも売れなかったらしく、在庫の置き場に困ったI君は友人たちに強制的に配布するという挙に出た。いずれもミニスカートやホットパンツ美女の色っぽい姿。上場企業の社長をしているU君など、奥さんや孫に見つかったら大変と、隠すのに大変な苦労をしたらしい。

小生に割り当てられたのは、ミニスカートのナースがトレイに浣腸器を載せてほほ笑んでいるフィギュア。家に飾るわけにもいかないから、知り合いの整体師K君に、これもらってくれない? と尋ねたら、K君にやりとして、いただきますと答えた。でもって、そのナースは今もK君の整体院の受付にちゃんといる。まあ、注意しなければ大きめの注射器を持ってるとしか見えないから、客寄せに役立ってるんでしょう(と信じたい)。

これ、同じ種類のフィギュアに違いないぞ。


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February 05, 2010

『フローズン・リバー』とインディアン保留地

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一昨年、ニューヨークに住んでいたとき、週に2日はマンハッタンのチャイナタウンに足が向いた。いつもごったがえしているチャイナタウンの雑踏を歩き、果物や野菜を売っている屋台のおばちゃんの声を聞いていると、なぜかほっとした。

中国から来た友人と話をしていて、チャイナタウンの人口はどのくらいだろうという話になったとき、彼はこう言った。「9万とか10万とか言われてるけど(端から端まで歩いて20分ほどの狭い地域に)、正確な数は誰にも分からない。不法入国した中国人は、たいていチャイナタウンに隠れ住んで、ウェイターや売り子といった単純労働をやってる。それがどのくらいいるかは、誰も知らないから」(ちなみに映画に出てくるモホーク・インディアンもニューヨークに多数住んでいる)。

南からリオ・グランデ川を越えてアメリカに不法入国するヒスパニックのことは、映画や本で見たり読んだりしたことがあるけど、中国系の不法入国者がどんなふうにこの国に入ってくるのかは、まったく知らなかった。その答えのひとつが、『フローズン・リバー(原題:Frozen River)』を見て分かった。

舞台はニューヨーク州北部のカナダ国境。セント・ローレンス川をはさんでカナダ側にもアメリカ側にもインディアン、モホーク族のアクウェサスネ保留地(リザベーション)が広がっている。

主人公のひとりは、モホーク族の夫が蒸発した白人女性レイ(メリッサ・レオ)。もうひとりは、モホークの夫を失った、同じモホークのライラ(ミスティ・アップハム)。2人の子供をかかえるレイと、義母に子供を奪われたライラ。明日の生活費にも困る2人が、ふとしたことで知り合い、互いに反目しながらも密入国犯罪にかかわっていく。

2人の「仕事」は、冬に国境のセント・ローレンス川が凍結し、車で川面を走れるのを利用して、密入国者をトランクに隠しカナダ側の保留地からアメリカ側保留地に連れてくる運び屋。川を行き来するモホークのライラは、こう言う。「向こうとこちらの間に、国境はない」。

インディアン保留地は一定の自治権が認められており、警察もなかなか手を出せない。密入国者は中国人、パキスタン人など東洋系。監督のコートニー・ハント(これが長編第1作)は、夫の実家がカナダ国境にあり、密入国が多いのに興味を持って取材したと語っているから、現実も映画に近いんだろう。カナダには中国移民が多いから、それなりのルートもあるんだろうな。

ライラは保留地のギャンブル場、ビンゴ・パーラーで働いている。レイのモホーク族の夫はギャンブル中毒になって失踪した。これもまた、現実を反映しているにちがいない。

インディアン保留地はアメリカ史の暗部に深く根ざしている。先住民のアメリカ・インディアンを殺戮して広大な土地を開拓した白人は、生き残ったインディアンを保留地に閉じ込めた。東部の豊かな土地を保留地にした部族は、白人の投機家に土地を奪われ、数千キロ離れた西部の貧しい保留地へ強制移住させられたりもしている。

保留地では多分に名目だけとはいえ自治が認められ、わずかな年金も支給される。「自立」のためギャンブル場経営も認められている。僕もニュー・メキシコ州サンタ・フェ近くの保留地を走っていて、延々つづく沙漠のなかに突如出現したカジノにびっくりしたことがある。

でも土地は貧しく、産業も育たないから、多くのインディアンが貧困にあえいでいる。アルコール中毒や、この映画のようなギャンブル中毒になる者も多い。ひとことで言えば、「飼い殺し」にされている。

映画はそういう背景をさらりと描きながら、2人の女性の犯罪と家族のドラマに焦点をしぼってゆく。その家族のドラマの舞台となる場が、2人が住んでいるトレーラー・ハウス(モバイル・ホーム)だ。本来はキャンピング・カーだけど、アメリカでは貧困層の住居として使われている。

ひとり暮らしのライラは、ドアに穴が空いた、ごく狭いトレーラー・ハウスに住んでいる。子供が2人いるレイは、あと4400ドル払えばダブル・ワイドという広く「豪華」なトレーラー・ハウスが買えるのに、その金がないことから犯罪に手を染める。レイが持っているトレーラー・ハウスのパンフレットにある「Live the Dream」という文句が悲しい。

母と子の物語であり、家族の物語なんだけど、過剰にセンチメンタルにならないのがいいな。ライラが寂しげなダイナーで、奪われた幼児と同じくらいの子供を連れた親子をじっと見ている。窓の外からレイが、そのライラをじっと見ている。映画はそれ以上なにも言わないけれど、2人の間にかすかな共感が生まれたことを見る者は感じとる。

2人が爆弾と誤解して赤ん坊を隠したバッグを凍りついた川に置き去りにしたり、トラブルに巻き込まれ警察に追われるシーンも、ことさらサスペンスを盛り上げることをせず、ドキュメンタリーでも撮っているように淡々と描写しているのが好ましい。それだけに、おだやかなラストシーンがかすかに希望と明日を感じさせて暖かい。

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February 02, 2010

梅に初雪

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初雪に合わせるように、梅が一輪咲いた。

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朝はまだ白かった庭も、午後にはほぼ融けていつもの景色に。

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February 01, 2010

京都ぶらぶら歩き

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仕事で大阪に行ったので、翌日の日曜、京都へ。1日、ぶらぶら歩きを楽しんだ。

朝は太秦の広隆寺へ。冷たい雨が降りはじめ、境内に人影は少ない。弥勒菩薩のアルカイック・スマイルに対面するのは20年ぶりくらいかな。

最近、十一面観音に興味があり、機会があれば見るようにしている。湖北の渡岸寺や山城の観音寺のように、表情や立ち姿が女性的な十一面観音が多いなかで、広隆寺の観音(藤原期)はすっくと立って、やや男性的。

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路面電車の嵐電から阪急に乗り継ぎ、河原町から五条坂まで歩いて河井寛次郎記念館へ。京都にいて、時間が空いたときにときどき来る。ここはいつ来ても、町なかにあるとは信じられない静けさがいい。

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河井寛次郎が自ら設計し、すみずみまで自分の好みを貫いた民家。彼が日常使っていたテーブルや机に触れ、座ることができるのが素敵だ。

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陶房。使っていた蹴ろくろが見える。右奥に円空仏。

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作品がたくさん展示されているのも嬉しい。展示されているだけでなく、寛次郎がつくったらしい大壷が、庭の片隅に無造作にころがされている。

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登り窯。最初にここへ来たとき、こんな町なかに登り窯があるのに驚いた。

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登り窯の壁。

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床の間には自筆の軸。「非草非人非木」とある。「草冠」と「人」と「木」を合わせると「茶」。「茶に非ず」。寛次郎は型にとらわれた茶の湯を好まなかった。

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30年来の知人、京の町屋に住むIさん宅を訪れる。玄関を開けると、いきなり三味線の音。若い舞子さんがIさんに稽古をつけてもらっていた。自主映画製作などにかかわってきたIさんは表立って師匠の看板を掲げているわけではなさそうだけど、小さいころから三味線に親しんでいる腕前。こういう光景に不意打ちのように出会えるのも京都だなあ。

稽古が終わり、3人でお茶を飲みながら歓談。舞子さんは宮川町のふく恵さん。17歳。来月には18歳になるので、この可愛い髪型は今日限りなんだって。明日には、ぐっと大人っぽくなるんだろうな。

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