『板尾創路の脱獄王』 逆さ富士の刺青
最近、テレビのバラエティやお笑いをほとんど見ない。だから板尾創路(いつじ)は顔に覚えがある程度で、名前も知らなかった。本屋で『板尾日記』をぱらぱら見たことはあったけど、買うほどの意欲は湧かなかった。
僕が板尾創路を初めて認識したのは映画『空気人形』。ファンからすれば、遅い、なにをいまさら、って言われそうだな。主演のペ・ドゥナが圧倒的な存在感で演じたダッチワイフの人形に、外見はおとなしい独身男の板尾がねっとりした愛をそそぐ。その変態ぶりがなかなかよかった。
『板尾創路の脱獄王』は板尾の主演・脚本・監督作品。時代設定は昭和初期とくれば、いやでも「日本の脱獄王」白鳥由栄を思い出す。つい数カ月前、亡くなった草森紳一の『「穴」を探る』で彼のことを読んだばかりだった。白鳥は、昭和10年に逮捕され昭和36年に仮出獄するまでの26年間に4回の脱獄を成功させた。
草森は書いている。「脱獄にくらべれば、いかに官憲の目が鋭かろうと、逃亡したまま一生を終えるほうが、はるかに楽である。ひょっとすると『脱獄』そのものにとりつかれ、わざと逮捕されるからではないのか。だとすれば、箱抜けの奇術師の情熱に近い」。
映画の「脱獄王」鈴木(板尾創路)も、脱獄すると必ず線路際を逃げて「わざと逮捕される」。とすれば、その「情熱」はどこから来るのか?
映画は、脱獄王・鈴木がどんな手口で脱獄し、どう「逮捕されるのか」、何回もの脱獄シーンを短編を連ねるように繰り返しながら、その「情熱」のありかを少しずつ明らかにしていく。もっともこの映画、タイトルからして『キートンの××』とか『チャップリンの××』とか無声映画時代の喜劇を思い出させるように、リアリズムに徹してるわけじゃない。
冒頭、脱獄した鈴木が刑務所の屋根に仁王立ちになり、稲妻に照らされた顔にタイトルが重なるあたり、ガキのころたくさん見た活劇映画のテイスト。カンフー・アクションでひらりひらりと刑務所内を逃げ回ったりもする。一言も言葉を発しない板尾創路はキートンみたいだし、かと思うと、懲罰に鎖で吊るされながらいきなり中村雅俊の「ふれあい」を歌いだし、ミュージカル仕立てになったのには笑ってしまった。
ラスト近く、脱獄を繰り返した鈴木が、絶海の孤島「監獄島」に島送りになるあたり、白い波の彼方に不気味な島影が揺れる映像も、ガキのころ似たようなショットを見た記憶がある。
その一方で、鈴木が獄中で受ける虐待はリアル。もっとも、そのリアルも度が過ぎて、手錠の擦過傷にウジが湧き、羽化するグロテスクなショットもあったりする。そんなふうに基本はリアリズムの顔をしながら、突然シュールになったり冒険活劇になったり、その落差がおかしい。その落差のおかしみを、板尾は無言のままわずかな表情の変化で演じてみせる。そのあたりが、この作品のキモになってるね。
(以下、ネタバレです)脱獄の「情熱」がどこから来たか? 逆さ富士の刺青(なぜ逆さ富士なのか、これも笑える)を伏線にして、ラストで「父恋い」が明らかになるけど、そこをもうひとつはずしてオチにするあたり、いかにも板尾らしい。けど、そこまではずすか?
予告編には、本編に出てこない獄衣を着た女優とのラブシーンがある。しかも女優の背中には、映画のキーである富士の刺青が入っている。これって板尾の遊びなのか? それとも公開直前に編集しなおして削ったのか? 色んな思いを誘発する、おかしな映画ではあります。
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