『倫敦から来た男』 夢魔のような
夜。霧が流れる港。カメラが海面からゆっくり上昇しながら、光と影にくっきり分かれた船の船首をなめるように映し出す。カメラの前をアウトフォーカスになった窓枠らしきものの影が下方に横切るから、どうやらカメラは室内に、それもかなり高い位置に置かれているらしい。室内では男が後ろ姿を見せて窓の外を見ている。カメラは男の肩ごしにデッキに近づいて、船上でのある出来事を映しだす。上へと移動してきたカメラが今度は水平に移動すると、窓の外の桟橋に列車が横づけされ、発車を待っているのが見える。逆光で真っ黒になった男の歩き去る影が長く伸びている。
『倫敦から来た男(原題:The Man from London)』冒頭の十数分間、ゆっくり移動しながらの長回し。ここまで2カットだったか3カットだったか。音は不安げな弦楽の繰り返し。モノクロームの夢を見ているような感触に釘づけにされる。はて、これらの出来事を目撃している男が、そしてカメラが置かれている空間はどんなところだろう。
それが明らかにされるのは、男がその空間から出てゆき、また戻ってきたとき。そこは港に隣接した鉄道駅の管制室だった(上のポスター)。夜と霧。港と船。鈍く光る線路と列車。湾の向こうに遠く光る町の灯り。闇に輝く管制室。ざわざわと見る者の胸を騒がせる夢魔のようなイメージ。タル・ベーラ監督はこれを撮りたかったんだろうな。
この外界から閉ざされた「ガラスの檻」は、この映画の核となる出来事が、その男マロワン(ミロスラヴ・クロボット)の孤独な心のなかで生起することの比喩とも言えそうだ。映画は、男の心理描写を一切しないけれど。
初老の鉄道員マロワンが、ある夜、管制室から殺人を目撃する。彼は殺人の原因になった、大金の詰まったカバンを手に入れる。やがて、彼の周りにカネを探す殺人者や、殺人者を追う刑事が姿を現してマロワンを脅かす。
片隅で実直に生きてきた男が、ふとしたはずみで犯罪に巻き込まれる。メグレ警視シリーズで有名な、いかにもジョルジュ・シムノンらしい物語。北西フランスの寂しい港町を舞台に、暗く重苦しい空気をタル・ベーラ監督は余分なものを一切省いて再現している。
原作がどうなっているのか知らないけど、結末はすとんと腑に落ちるようにはつくられていない。いろいろ忖度はできるけど、疑問は残る。それもシムノンの世界ということかな。寂しい港のロケ地はコルシカ島、そこに管制室はじめセットをつくったらしい。
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