『チャイルド44』 旧ソ連の掟
このところミステリーにご無沙汰していたら、なんだか無性に読みたくなってきた。以前はハードボイルドや警察ものをけっこう読んだんだけど、本家のアメリカでもハードボイルドが下火になって面白い小説が少なくなった。今も新作が出るとすぐ読むのはマイクル・コナリーくらい。
新幹線で大阪へ往復する仕事もあったので、車中で読もうと選んだのがトム・ロブ・スミス『チャイルド44』(上下、新潮文庫)。作者のデビュー作だけど、去年の「このミス」で1位になっている。ローレンス・ブロックの訳者・田口俊樹の訳だから、はずれないだろうとの読みもあった。
いちばん惹かれたのは、スターリン時代のソ連を舞台にしていることだ。旧ソ連を素材にしたミステリーといえば『ゴーリキー・パーク』や『レッド・フォックス』が記憶に残るけど、秘密警察と密告者の網が隅々まで張られた社会は、それだけでミステリーの要素をたっぷりはらんでる。作者がイギリス人というのも納得がいく。ナチス時代を舞台にしたフィリップ・カーの「ベルリン三部作」のように、近過去に材を取った歴史ミステリーの流れがある。
こういう小説は「入り」が勝負だね。プロローグで、どう読者を小説の空気に引っ張り込むか。1933年のウクライナ。飢餓で全滅しそうな真冬の村。近所の飼い猫を捕らえて食べようと森に入った兄弟が、逆に「獲物」として狙われ、離れ離れになってしまう。寒くて、飢えて、全員が全員の敵である世界。
物語は一転して20年後のモスクワになる。主人公レオは国家保安省の捜査官。スパイ摘発に失敗して田舎の民警に左遷され、少女惨殺事件に遭遇する。捜査するうち、広範囲で同じ手口の事件が数十件起きていることを知り、レオはそれが同一犯の犯行であることを確信する。
本文の合間に、ソ連社会に生きる掟や登場人物の独白が書体を変えて挿入されるのが効いている。
「この社会には犯罪は存在しない」(犯罪は存在してはならない。理想社会なのだから)
「自分たちが信用する者たちこそ調べるべきだ」(スターリンの言葉)
「職員は鍛錬し、自らの心を無慈悲にしなければならない」(秘密警察の祖、ジェルジンスキーの言葉)
「きみの名前を覚えていれば、いずれきみを糾弾することができる」
「それが夜眠れるようにするためのあなたのやり方なの? その日起きたことを記憶から消し去るというのが」(レオの妻でスパイ容疑をかけられたライーサが、妻を調査している夫の寝姿につぶやく言葉)
友人や家族ですら、いつ告発しあうことになるか分からない社会の恐怖と緊張が小説を貫いている。ミステリーの探偵役はいつも単独行動だけど、この社会ではそれもご法度だ。「それ(単独行動)は国家が定めたシステムが機能しなかったことを意味し、場合によっては、国家にできなかったことを個人が成し遂げてしまうかもしれないからだ」。後半、逃亡して単独行動するレオを助ける村人たちが登場して、この暗い社会のなかにも一筋の灯りが灯っていたことを暗示するのも気持ちいい。
少年少女の大量惨殺事件は、1970~80年代に実際に旧ソ連であった事件を過去に移しかえている。そこに「カインとアベル」的な兄弟物語を重ね、身内の敵対者を倒すことでスパイ容疑と国家への忠誠が紙一重で逆転するどんでん返しが繰り返されて、これは面白いぞ。
続編も翻訳されてるみたいだけど、この結末は初めからそのつもりで書かれたんだろうか。妻をスパイと疑ったレオと、夫の権力を恐れて結婚したと告白したライーサの夫婦は、続編ではどういうコンビになっているんだろう。最初悪役として登場した田舎の民警署長ネステロフは、レオの相棒になりそうだ。
この小説、リドリー・スコット監督で映画化されるらしい。楽しみだな。
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