『脳内ニューヨーク』の生と死
『脳内ニューヨーク』の原題は「Synecdoche, New York」って、見たこともない単語だなあ。synecdoche(シネキドク)を辞書で引くと「提喩」とある。「部分で全体を、全体で部分を表わす修辞法」なんだって。例として、breadでfoodを表わし、sailでshipを表わす、というのが挙げられてる。
莫大な賞金を手にした劇作家ケイデン(フィリップ・シーモア・ホフマン)が、ニューヨークの巨大倉庫のなかにニューヨークの町並みの巨大セットをつくりあげ、この町に生きる自らの生をそのまま芝居にしようとしている。一方、ケイデンと別れた元妻の画家アデル(キャスリーン・キーナー)は、高倍率の拡大鏡を使わなければ見えない小さなミニチュア画のなかに自分やケイデンの肖像を描いている。
ニューヨークに生きる彼らの現実と、現実の「部分」を切り取った芝居やミニチュア画。芝居のセットやミニチュア画のキャンバスに閉じこめられた「部分」が、ニューヨークという都市とそこに生きる人々の「全体」を表わす。
セットのビル群の背後には、吹き抜け天井の骨組が見えている(ポスター)。ミニチュア画の肖像で顔の部分には、何も描かれていない欠落がある。そんな極大あるいは極小のフレームに閉じこめられた「部分」のほうが、実は「全体」の隠された姿を露わにしているのかもしれない。原題には、そんな意味合いが込められているような気がする。
『脳内ニューヨーク』って邦題は悪くないし、よく考えたと思うけど、ちょっとニュアンスが異なるようだ。日本の公式サイトやポスターに使われているイメージ──シーモア・ホフマンの頭蓋にニューヨークの町と人が詰まっている──も邦題に合わせてつくられたみたい。
「脳内」って言葉は、この映画の監督チャーリー・カウフマンが脚本を書いた『エターナル・サンシャイン』や脳科学ブームからの発想だろうけど、映画はカウフマン流のユーモアはあるものの全体に沈鬱で、青空にシーモア・ホフマンの頭蓋が浮かぶ宣伝や「驚嘆と感動のライフ・エンタテインメント」というキャッチとは差がある(製作費2000万ドルに対し現在までの興行収入313万ドルと、興行的には失敗作みたいだから、配給会社が明るいイメージで売りたいのは分かるけど)。
アメリカの公式サイト入口のイメージは、死体らしきものが累々と重なる彼方にニューヨークの巨大セットが見えるというもので、いやでも9・11を連想させる。この映画に描かれた生と死、絶望と希望は、アメリカ人、なかでもニューヨーカーには9・11を下敷きにしていると感じられんじゃないだろうか。
そう考えると、ケイデンの恋人ヘイゼル(太めのサマンサ・モートン)が買おうとするのが燃えている家という現実にはありえない設定で、ケイデンはそれが気に入り、炎のなかに住んでいるというのも、意味深に思えてくる。
そんなふうに現実と虚構を行き来し、主人公たちは、彼らの役を演ずる劇中の主人公たちとドッペルゲンガーみたいに重なりあい、劇作家の日常を主題とした芝居は17年たっても始まらず、始まらないんだから永遠に終わらず、ケイデンの死で断ち切られるしかない。
なんとも不思議な映画だった『マルコヴィッチの穴』の脚本家チャーリー・カウフマンの初監督作品(無論、脚本も)。『マルコヴィッチ』『エターナル』の脚本家らしく現実と非現実が入り混じり、ひねりの効いた構成だけど、そんな仕掛けを別にすれば、作品の感触はロバート・アルトマンの群像劇のテイストとウッディ・アレンの心情告白をミックスした感じ。アルトマン亡く、アレンがアメリカを去ったいま、こんなふうに笑いや悲しみ織り交ぜてニューヨークを語ってくれる作り手が出現したのが嬉しい。
ニューヨークの巨大セットの1シーンで、僕が住んでいたアパートの近く、ブルックリンのDUMBO(ダンボ)がロケに使われていた(と思う)。元は港だった地域の、古い建物が立ち並ぶ倉庫街。石畳の道路に、かつての路面電車の線路が残る。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』でロケに使われた場所といえば、分かってもらえるか。ニューヨーカーが「ありうべき(あるいはかつてあった)ニューヨーク」を想像するとき、レンガ積みと鉄骨と石畳のこういう風景になるんだな。
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