近藤史人『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』
「アッツ島玉砕」(『藤田嗣治展』図録<2006、NHKなど刊>から)
近代日本の洋画というやつに心を動かされたことがない。高校時代にブリジストン美術館で初めて見た青木繁「海の幸」とか画集で知った岸田劉生「切通しの写生」とか記憶に残ってるものもあるし、その後熱心に日本人の洋画を見たわけでもないので他人に同意を求めるつもりはないけど、個人的経験としてはそうだ。
そのほとんど唯一の例外が藤田嗣治「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」。3年前の藤田嗣治展(国立近代美術館)で見て、その異様な迫力に、立ちどまったまましばらく足を動かすことができなかった。ともに2メートル×3メートル近い大作。悪名高い戦争絵画である。
それ以来、藤田の戦争絵画が気になっていたけど、だからといってなにか調べたわけでもない。4日ほど前、散歩の途中に寄った古書店で近藤史人『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』(講談社文庫)を見つけて買った。著者はNHKのディレクターで、「空白の自伝・藤田嗣治」などの番組をつくった人。この本で大宅壮一ノンフィクション賞を受けている。
戦後、「日本に捨てられ」(藤田の言葉)、フランス国籍を取って日本を捨てた藤田は、亡くなってからも日本で大規模な展覧会が開かれたり画集が出版されることはなかった。それらを拒みつづけた未亡人と、著者は15年ものあいだ接触して番組をつくり、それが僕が見た回顧展開催につながった。
この本は残された藤田の日記や未亡人の談話、未発表の自伝などをふんだんに使って、彼の生涯を追っている。
パリで名声を得た藤田が2度と帰らないと誓った日本に戻ったのは1933年、2.26事件の年だった。南京虐殺があった翌年の1938年、軍部は美術家の戦争協力を求め、戦意高揚を目的とした戦争絵画の制作がはじまる。藤田もこれに応じた。
藤田がノモンハン事件に取材して1941年の「聖戦美術展」に発表した「ハルハ河畔戦闘図」は、「日本に油絵が入って以来の最大なる作品」と絶賛され、藤田は「聖戦美術の巨匠」と呼ばれるようになる。生涯で初めて日本画壇に受け入れられた藤田は、戦争画に傾斜していく。
僕が見た「アッツ島玉砕」は、藤田の戦争画の代表作。近藤が「ただ『死』だけが画面を支配する地獄絵」と描写するように、日本兵とも米兵とも定かでない戦士が銃剣をかざして殺し合い、死体が重なりあっている。異様に暗い画面の背後には、雪を抱いた山々がそびえている。少なくとも、この画を見て「戦意高揚」する人間は誰一人いないだろう。
藤田は、青森の巡回展で見た光景について記している。年老いた男女がこの絵の前に「膝をついて祈り拝んでいる」、また「御賽銭を画前になげて画中の人に供養を捧げて瞑目していた」と。絵画愛好者でもなんでもない、でも家族や友人を戦場に送った普通の人々に訴えるものを、この絵はもっていた。しかもお賽銭をあげ、祈り拝むという宗教的な所作を引き起こすなにものかを。
戦後、藤田は戦争画を描いた代表として責任を負うよう、画壇のなかで追及される。GHQが画家の戦争責任を追及することはなかったが、再び裏切られた(というのは、パリで名声を得たとき、画壇の反応は異国趣味を売り物にした宣伝屋だと冷ややかだった)と感じた藤田は日本を捨て、カソリックに改宗してフランスに永住することになる。老年の藤田は、少女の絵とともに宗教画に熱中した。
そんな藤田の生き方や、絵を前にした人々の反応からして、「アッツ島玉砕」は戦争画というより宗教画、鎮魂の図だったんだろうな。いずれにしても、作者の行為の是非や正義不正義の20世紀的問題設定が無意味になるかもしれない遠い将来、この絵は近代日本の絵画を代表する作品になるような気がする。
とはいえ、藤田が戦争に協力した事実は残るし、藤田を含めた画家(だけでなく芸術家)の戦争責任の問題は、戦後半世紀以上たつのにまだきちんと議論されていない。
十数枚ある藤田の戦争画のうち藤田展に出品されたのは5点だけだし、米軍が集め、後に日本に「永久貸与」された藤田、藤島武二、中村研一、川端龍子、橋本関雪、宮本三郎、小磯良平、向井潤吉らの戦争画が国立近代美術館に大量に眠っている。
ぜひ「戦争美術展」をやってほしい。大部分は作品として見るに耐えないものかもしれないけど、戦争期にこういうものがあったときちんと公開するのは公的施設の義務のはずだ。関係者のほとんどが亡くなった今、感情的な、あるいはイデオロギー的な反応から離れて、絵そのものにきちんと向き合えるはずだから。
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