『アンナと過ごした4日間』 曇天の光
『アンナと過ごした4日間(原題:Cztery noce z Anna)』で、太陽の光が顔を出し、このポーランドの田舎町を照らしているシーンはわずかに1カットしかない。ポスターやチラシに使われている、教会の尖塔を中心に町並みを俯瞰した印象的なショットで、それも尖塔の向こうには黒々とした雲が流れている。
それ以外の昼間のシーンはすべて、厚い雲がかかって暗欝な光を町に投げかけている。焼却場から出てきたレオン(アルトゥル・ステランコ)が、淋しい路地を歩いて教会の辻でアンナ(キンガ・プレイス)に気づいて隠れるファースト・シーンの重く鈍い光を見て、やっぱりポーランド映画だなあ、と思った。
僕の記憶に残るかつてのポーランド映画、『夜行列車』も『水のなかのナイフ』も『大理石の男』も曇天の重苦しい光に満ちた映画だった。どの監督も決まって曇天の光を好むのは、それぞれの個性というより風土と、風土に影響された精神の姿勢に関係しているんじゃないか。
1960年代にデビューして注目されたスコリモフスキーはポランスキーと同世代だから(僕は『早春』を見てないけど、『水の中のナイフ』『夜の終わりに』の脚本家として知っていた。役者としても出演していたと記憶する)、ワイダ、カワレロウィッチからムンク、ポランスキーに至るポーランド黄金世代に共通した感性をもっているんだなあ。
そんな重苦しい光に満ちたこの映画は、それだけでなくかなりの部分が夜のシーンになっている。夜こそ、この映画の主題だから(原題は「アンナとの4つの夜」)。闇のなかをレオンが動きまわるとき、ほんのかすかな光で撮影されているらしく、人や物の輪郭すらはっきりしない。映画が真の暗闇を表現することはできないけど(何も写らないんだから)、こんなわずかな光が暗闇の存在を指し示すことができる。
画面は最初から不穏な空気を漂わせている。病院の雑役夫レオンが、ゴミ箱から手首を無造作に取り出して焼却炉に放り込む。犯罪の匂い。夜、暗くした自室にいるレオンは壊れかけた双眼鏡を手に、庭をへだてた看護師寮のアンナの部屋を覗いている。レンズ越しのショットが秘密めいてていい。回想シーン(と後で分かるのだが)のなかで、レオンが川で釣りをしていると、不気味な牛の死骸が流れてくる。激しい雨のなか、レオンは廃屋で男がアンナをレイプしているのを目撃する。
スコリモフスキーは曇天の鈍い光だけでなく、音を効果的に使って見る者を映画に引きずり込んでゆく。ギイーッと不意に鳴るアコーディオン。かすかな遠雷。ちょろちょろと流れる水音や鳥の鳴き声。激しい雨音。パトカーのサイレン。印象的な光と闇、そして音の使い方は1950年代の映画ふうで、とりわけヒッチコックを思い出させる。
レオンは遂にアンナの部屋に忍び込むのだけど、それまで犯罪映画のようなふりをしていた映画が、そこから別の顔をのぞかせはじめる。1つ目の夜。睡眠薬でぐっすり寝込んだアンナの裸の胸に触ろうとして、レオンは手を引っ込める。2つ目の夜。レオンはアンナの足の爪に真っ赤なペディキュアを塗る。3つ目の夜。アンナの誕生日にレオンは花束と指輪をおいてくる。そして4つめの夜……。
犯罪者の烙印(冤罪)を押された中年男の、強迫観念にとらわれた愛、と言葉にしてしまうと、いかにも類型的に思える。でもスコリモフスキーは、ほとんど説明しない。レオンの犯罪者と間違われるような(部屋に忍び込むのはまぎれもなく犯罪だけど)行動を、黙って見る者に差し出す。しかもスコリモフスキーは、最初のうちあたかもレオンを犯罪者のように描いて、見る者を騙しにかかる。一筋縄ではいかない。観客はレオンの胸の内を、その行動から推し量るしかない。
レオンの思いは映画の中で遂に誰にも共有されない。アンナですらレオンの冤罪は信ずるものの、彼の愛を理解しない。それを分かっているのは、暗闇でアンナを覗くレオンの行動を暗闇のなかで見ている者、つまり観客だけだ。暗闇のなかでレオンと僕だけ(観客はひとりひとりがそう思う)が秘密を共有している。そんな暗闇のなかの親密と、外界との孤絶が、この映画の芯なんだなと思った。
『アンナと過ごした4日間』はイェジー・スコリモフスキーが17年ぶりにポーランドへ帰って撮った作品だそうだ。ラストシーンは、その17年間の不在と重なってみえる。
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