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October 29, 2009

『ユリイカ臨時増刊 ペ・ドゥナ』

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長いこと雑誌編集者をしていたのに、最近、雑誌に魅力を感じることが少なくなった。多いときは4冊ほど定期購読していたのに今ではゼロになったし、本屋へ行っても、雑誌売り場であれこれ覗いて面白そうなのを予算オーバーなのについ買ってしまう、そんなことが少なくなった。近頃の雑誌に魅力がなくなったのか、こちらのアンテナが錆びついたのかは分からないけど、中身が薄い、買って損した、とがっかりする経験が続いたことは確かだ。

久しぶりに、わくわくしながらレジへ雑誌を持っていったのが『ユリイカ臨時増刊 ペ・ドゥナ』。「『空気人形』を生きて」というサブタイトルがついて、1冊206ページがまるごとペ・ドゥナ特集に当てられている。

彼女が主演する『空気人形』公開に合わせての発売。24ページをカラーにして定価1300円ということは、1万5千から2万部くらい刷ったんだろうか。ペ・ドゥナはいわゆる韓流スターの人気者でははないけれど、コアなファンはそれなりにいる。僕も映画を見にいったし、そもそもペ・ドゥナのファンだから、まさしく『ユリイカ』の狙う読者ターゲットだったわけだ。それにしても現代詩の雑誌が女優をテーマにまるごと1冊特集するとは、それだけでもえらい。

ペ・ドゥナへのインタビュー、『空気人形』スチールと撮影現場でドゥナ自身が撮ったスナップ、『空気人形』の是枝裕和監督と『リンダ・リンダ・リンダ』でドゥナを使った山下敦弘監督の対談、そして野崎歓、宇野常寛ら12人の論者によるペ・ドゥナ論、フィルモグラフィーと、この手の別冊としてはまず王道をいく構成。

いちばん面白いのは是枝・山下両監督の対談だったな。2人はそもそも彼女の熱烈なファンなんだね。そこから出演の話が始まった。現場では2人とも「すげえなあ」「可愛いなあ」「キッとにらまれて、すごく怖かった(笑)」「もう完敗」と、めろめろ。そんなふうにヒロインを立てながら、「身体のコントロールが完全にできてる」「プロフェッショナル」とペ・ドゥナの凄さをきちんと見つめてる。

あとは野崎歓の、「なまめかしすぎるペ・ドゥナに、共感ではなく欲望を、友情ではなく恋情を覚えかねない自分を発見」するドゥナ論、彼女が出演した映画ばかりでなく韓国のテレビドラマまで丁寧に追った木村立哉、韓流ドラマのなかのドゥナの立ち位置と韓国の社会状況との関係を考えた田中秀臣のエッセイが読ませる。

不満もある。肝心のドゥナ・インタビューが短すぎることだ。公開前のプロモーションで来日したときのインタビューで、小生も経験があるけど、プロモーションは取材がびっしりつまっていて1時間くらいしか時間をもらえない。写真撮影もあるから、話をできるのはどんなに頑張っても40~50分。通訳が入ると、実質はもっと短くなる。新聞の短い記事や雑誌の1ページ程度ならなんとかなるけど、増刊の目玉としてはつらい。

ここは2~3時間、あるいはもっと長時間のロング・インタビューで、『空気人形』だけでなく他の作品や、女優としての道筋、バックグラウンドをじっくり語らせてほしいところだ。今は北海道や沖縄へ行くよりソウルへ行くほうがカネも時間もかからないんだから、段取りさえきちんとすれば可能だったと思うけど。『ユリイカ』なら、そのくらいの期待をしてしまう。

あと、『ユリイカ』らしく現代思想ぽい言葉遣いのエッセイが並んでいるけど、どれも同じような感触で、読んでいて飽きがきた。インタビュアーでもある宇野のエッセイ1本あればいい感じ。その代りに、例えば韓国の書き手を探してほしかったな。もうひとつ。映画のなかの重要なシーンで吉野弘の詩が引用される。詩の雑誌なんだから、そっちの視点もほしい。

などと、ないものねだりしたけど、久しぶりに雑誌の面白さを堪能しましたね。


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October 27, 2009

湯の小屋温泉へ

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2年ぶりに昔のオフィスにに通う仕事が一段落したので、群馬の湯の小屋温泉に行ってきた。湘南新宿ラインで高崎まで行き、上越線水上行きに乗り換える。前橋を過ぎると右の車窓に赤城山、左に榛名山が見えるはずだけど、この日は今にも降り出しそうな厚い雲で、風景は霞んでいる。写真は後閑あたり。

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湯の小屋温泉は、水上から利根川の上流へバスで1時間ほど遡った木の根沢川沿いにある。標高が上がると、木々が紅葉してくる。

このあたりには藤原ダム、矢木沢ダム、奈良俣ダムと、いま問題になっている利根川水系のダムがかたまってある。バスに乗っていると次々にダムが現れる。それを見ても、200年に1度の洪水のためにあと十数基のダムをつくるという計画がどんなに無理なものか想像がつく。

道は栃木、福島との県境近くを走り、峠を越えると尾瀬になる。湯の小屋には数軒の旅館があり、以前に2度ほど泊まったことがある。

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旅館(龍洞)には17の風呂がある。僕はこの、斜面の下にあるいちばん古くて大きな露天が好き。拙い写真ではスケール感が出ないけど、ぬるめの湯に体をひたすと山にすっぽり包まれた気分になるのがたまらない。前回来たとき、風呂の周りは数十センチの積雪で真白だった。今日は、ブナ、カエデなどの色づいた木々にかこまれる。湯につかりながら紅葉を見上げ、冷たい雨に顔を打たれるのもいいもんです。

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こちらは木の根沢川に面した風呂。

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ここから5キロほど遡ると照葉峡という紅葉の名所がある。バスは通ってなく、車でしか行けないので行ったことはないけど。

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この旅館、昔は湯治場だったんだろうけど、今は露天風呂をたくさんつくり、すべて貸切で入れるようにして若いカップルを狙っているようだ。

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近くの道路脇では農家の人がテントを張って、きのこの路上販売。きのこ汁がうまかった。


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October 22, 2009

『アンナと過ごした4日間』 曇天の光

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『アンナと過ごした4日間(原題:Cztery noce z Anna)』で、太陽の光が顔を出し、このポーランドの田舎町を照らしているシーンはわずかに1カットしかない。ポスターやチラシに使われている、教会の尖塔を中心に町並みを俯瞰した印象的なショットで、それも尖塔の向こうには黒々とした雲が流れている。

それ以外の昼間のシーンはすべて、厚い雲がかかって暗欝な光を町に投げかけている。焼却場から出てきたレオン(アルトゥル・ステランコ)が、淋しい路地を歩いて教会の辻でアンナ(キンガ・プレイス)に気づいて隠れるファースト・シーンの重く鈍い光を見て、やっぱりポーランド映画だなあ、と思った。

僕の記憶に残るかつてのポーランド映画、『夜行列車』も『水のなかのナイフ』も『大理石の男』も曇天の重苦しい光に満ちた映画だった。どの監督も決まって曇天の光を好むのは、それぞれの個性というより風土と、風土に影響された精神の姿勢に関係しているんじゃないか。

1960年代にデビューして注目されたスコリモフスキーはポランスキーと同世代だから(僕は『早春』を見てないけど、『水の中のナイフ』『夜の終わりに』の脚本家として知っていた。役者としても出演していたと記憶する)、ワイダ、カワレロウィッチからムンク、ポランスキーに至るポーランド黄金世代に共通した感性をもっているんだなあ。

そんな重苦しい光に満ちたこの映画は、それだけでなくかなりの部分が夜のシーンになっている。夜こそ、この映画の主題だから(原題は「アンナとの4つの夜」)。闇のなかをレオンが動きまわるとき、ほんのかすかな光で撮影されているらしく、人や物の輪郭すらはっきりしない。映画が真の暗闇を表現することはできないけど(何も写らないんだから)、こんなわずかな光が暗闇の存在を指し示すことができる。

画面は最初から不穏な空気を漂わせている。病院の雑役夫レオンが、ゴミ箱から手首を無造作に取り出して焼却炉に放り込む。犯罪の匂い。夜、暗くした自室にいるレオンは壊れかけた双眼鏡を手に、庭をへだてた看護師寮のアンナの部屋を覗いている。レンズ越しのショットが秘密めいてていい。回想シーン(と後で分かるのだが)のなかで、レオンが川で釣りをしていると、不気味な牛の死骸が流れてくる。激しい雨のなか、レオンは廃屋で男がアンナをレイプしているのを目撃する。

スコリモフスキーは曇天の鈍い光だけでなく、音を効果的に使って見る者を映画に引きずり込んでゆく。ギイーッと不意に鳴るアコーディオン。かすかな遠雷。ちょろちょろと流れる水音や鳥の鳴き声。激しい雨音。パトカーのサイレン。印象的な光と闇、そして音の使い方は1950年代の映画ふうで、とりわけヒッチコックを思い出させる。

レオンは遂にアンナの部屋に忍び込むのだけど、それまで犯罪映画のようなふりをしていた映画が、そこから別の顔をのぞかせはじめる。1つ目の夜。睡眠薬でぐっすり寝込んだアンナの裸の胸に触ろうとして、レオンは手を引っ込める。2つ目の夜。レオンはアンナの足の爪に真っ赤なペディキュアを塗る。3つ目の夜。アンナの誕生日にレオンは花束と指輪をおいてくる。そして4つめの夜……。

犯罪者の烙印(冤罪)を押された中年男の、強迫観念にとらわれた愛、と言葉にしてしまうと、いかにも類型的に思える。でもスコリモフスキーは、ほとんど説明しない。レオンの犯罪者と間違われるような(部屋に忍び込むのはまぎれもなく犯罪だけど)行動を、黙って見る者に差し出す。しかもスコリモフスキーは、最初のうちあたかもレオンを犯罪者のように描いて、見る者を騙しにかかる。一筋縄ではいかない。観客はレオンの胸の内を、その行動から推し量るしかない。

レオンの思いは映画の中で遂に誰にも共有されない。アンナですらレオンの冤罪は信ずるものの、彼の愛を理解しない。それを分かっているのは、暗闇でアンナを覗くレオンの行動を暗闇のなかで見ている者、つまり観客だけだ。暗闇のなかでレオンと僕だけ(観客はひとりひとりがそう思う)が秘密を共有している。そんな暗闇のなかの親密と、外界との孤絶が、この映画の芯なんだなと思った。

『アンナと過ごした4日間』はイェジー・スコリモフスキーが17年ぶりにポーランドへ帰って撮った作品だそうだ。ラストシーンは、その17年間の不在と重なってみえる。


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October 20, 2009

帰り道

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古巣から声がかかり、ムック本を編集するために50日ほど、ほぼ毎日かつての仕事場に通った。2年ぶりに定期も買った(リアイア組の誰もが感ずることだけど、交通費の高いこと)。

この日は珍しく空が明るいうちに仕事場を出ることができた。

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昔、毎日歩いていた通勤路。金曜日の夜で、人が出ている。

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最後の数日は終電で帰る日がつづいた。ようやく、今日でおしまい。


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October 17, 2009

『空気人形』 言葉なんか覚えるんじゃなかった

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空気人形のペ・ドゥナがふわふわと不思議な抑揚で「わたしは心をもってしまいました」とつぶやいたとき、ひとつの詩が頭をかすめた。田村隆一の「帰途」。最後の一節を書き写そうと思ったけど、書いているうちに全文をうつしてみたくなった。そんなに長い詩じゃない。

言葉なんか覚えるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

若いころ愛唱した詩だけど、いま読んでも胸がつまる。映画のなかでは吉野弘の「生命は」という詩が、やはりペ・ドゥナによってひとりごとのようにつぶやかれる。吉野弘の柔らかな言葉は、この映画の空気にふさわしい。それでも僕は、田村隆一の突き刺すような言葉をこの映画に重ねてみたくなる。

ペ・ドゥナの人形が「こころを持ってしまいました」とつぶやくとき、それは「言葉をもってしまいました」と言うのに等しい。人のこころを持ってしまったとは、言葉を持ってしまったということなのだから。

「言葉のない世界」に生きていたころのペ・ドゥナは、人形の持主でファミレス店員・秀雄(板尾創路)を「ただそれを眺めて」いるだけだった。秀雄が人形のペ・ドゥナに倒錯した愛を寄せても、セックスの代用品にしても、空虚な目で秀夫を眺め、機械的に事後の処理をしているだけだった。「そいつは 無関係」なのだから。

でも、こころを持ってしまったペ・ドゥナは、死にかけている元教師(高橋昌也)の「沈黙の舌から落ちてくる痛苦」に寄り添う。あるいは、事件が起こるたびに「自分が犯人」と交番に名乗り出る老夫人(冨司純子)の「涙のなかに立ちどまる」。孤独なレンタル・ビデオ店の店員・順一(ARATA)の「きみの血のなかにたったひとりで帰ってくる」。

順一の血にまみれたペ・ドゥナは、こうつぶやいているように思える。「きみの一滴の血に この世界の夕暮れの ふるえるような夕焼けのひびきがあるか」。

それにしてもペ・ドゥナは美しい。眼をぱっちり見開いた人形メーク。大胆なヌード。是枝裕和監督は女優を美しく撮る監督だけど、『空気人形』のペ・ドゥナは際だってる。秀雄のベッドに横たわるペ・ドゥナを正面から捉えたカット。ペ・ドゥナがバスでシャワーを使うのを舐めるように捉えるカット。リー・ピンビンのカメラにためいきが出る。

なかでも、空気が抜けたペ・ドゥナに順一が息を吹き込んで生き返らせるシーンは、どんなセックス・シーンより官能的だ。順一がペ・ドゥナの人形の空気穴から息を吹き込むたびに、しおれていた空気人形のペ・ドゥナが蘇り、エクスタシーの表情を浮かべる。これが順一と人形のペ・ドゥナが結ばれる愛のかたちなのだ。

設定や物語はそんなふうに倒錯的だけれど、例えば乱歩もの(『陰獣』とか『屋根裏の散歩者』とか)や谷崎潤一郎映画(『刺青』とか『卍』とか)のような妖しさには行かない。官能的だけど変態的ではない。それは、これまでの作品を見ればわかる是枝監督(脚本も)のまっとうな人柄と、暖かみのある画面のせいだろう。東京のリアルな風景のなかで繰り広げられるファンタジーみたいな味わいを持っている。

中央区湊あたりでロケされてるみたいだ。隅田川に沿って古い日本家屋と空地と高層アパートが混在する今の東京の風景を、リー・ピンビン(ホウ・シャオシェンやウォン・カーウァイのお気に入り)のカメラが横移動で、あるいは俯瞰で捉える。とくにファースト・シーン、かすかにカメラを移動させたり、ズーミングしたり、微妙に視覚を揺らせながら物語のなかに見る者を引きこんでいくあたりは、ホウ・シャオシェンの『フラワーズ・オブ・シャンハイ』の冒頭と同じで見事だ。

でもこの映画は、リー・ピンビンのでもなく、是枝監督のですらもなく、ペ・ドゥナの映画だね。彼女を好きになったのは『子猫をお願い』からだけど、この映画のペ・ドゥナは最高に美しい。欲をいえば、30歳になって成熟したペ・ドゥナでなく、まだ少女の面影を残した『子猫をお願い』のペ・ドゥナで見たかったけど。

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October 10, 2009

金木犀の香りにつつまれる

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庭の金木犀が満開になった。夜、自宅に帰って門を開けると、ほのかな香りが漂ってくる。金木犀の匂い自体はきついものでなく、そこはかとなく上品なものなのに、驚くほど遠くまでその香りが届く。

自宅から駅までの道に、わが家を含めて4本の金木犀がある。それが揃って満開になって、10分弱の道のりを歩いている間、ずっと金木犀の香りに包まれているようないい気持ちになる。一年中でいちばん好きな季節なのだ。


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October 08, 2009

浦和ご近所探索 壁

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近所の食堂の壁。いつもな何気なく通りすぎていたけど、雨上がりにふっと見たらざらりとした色と形が目に飛び込んできた。

この1カ月やたら忙しく、本からも映画からも音楽からも遠ざかってDays of books, films & jazzとは程遠い日々を送っている。ブログの更新もままならない。来週にはどっとアップしたい。

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