『ちゃんと伝える』 微かなやりすぎ
すべてが過剰でやりすぎだった『愛のむきだし』の園子温(その・しおん)監督の新作『ちゃんと伝える』は、前作が信じられないくらい普通の映画だったなあ。
素材からして、今はやりの「余命もの」と園監督が名づけたジャンル。難病で「余命あと○カ月」と宣告されることでドラマが始まるやつだ。
もっとも『愛のむきだし』も素材それ自体はボーイ・ミーツ・ガールの青春ものだったけど、男の子と女の子が出会うまでのそれぞれの過去を映画1本分ずつの時間を使って描くという「非常識」な映画だった。『むきだし』は上映時間237分と普通の映画2本分だったけど、『ちゃんと』は常識の範囲内に収まってる。
主人公と彼を取り巻く人物も、『むきだし』は特異なキャラクターが多かったけど、『ちゃんと』は誰もが普通の人々だ。
史郎(AKIRA)は地方都市のタウンマガジン誌で働いている。父(奥田瑛二)がガンで入院し、それまで父とろくに話もしなかった史郎は病院にかけつけるが、ついでに受けた検診で自身もガン、それも父親より悪いと宣告される。史郎には結婚を約束した恋人の陽子(伊藤歩)がいる。史郎は、父にも陽子にもちゃんと向き合い、ちゃんと伝えることを決心する……。
ストーリーだけでなく、映像もクローズ・アップがやたら多かった『むきだし』に比べて、ごく普通。『おくりびと』と同じように地方の風景を取り込んだ引きの画面をたくさん使ってる。『むきだし』にあった観念的なイメージ・カットもない。
メジャーな資本から「余命」ものをと声がかかったわけではなさそうだから、こういう「普通」の映画を園子温監督は意識的につくってる。エンドロールで「父に捧ぐ」と出るから、父親の死を悼む個人的動機がこういうスタイルを取らせたんだろうか。
その結果は、ちょっと面白みのある、よくできた映画。
最後に史郎が父との約束を果たすシーンまで、画面は抑制がきいている。見る者の感情をわざと揺さぶったり、涙を強要しない姿勢はいいなあ。
でも、「よくできた映画」と言ってしまえば、それ以上つけくわえることもない。僕が面白いと思ったのはそこではなく、ごく当たり前の映画のなかにも微かに感じられる「やりすぎ」の部分だった。
史郎が家を出て職場までジョギングで通勤する。母親(高橋恵子)が夫が入院する病院に通うため、決まった時間にバスに乗り、いつも同じ運転手と挨拶をかわす。史郎と陽子は商店街を歩き、昭和ふうに懐かしい金鳥の看板がかかった四つ辻で分かれる。
そんなシーンが繰り返される。常識的な編集なら、こうしたショットは1度か、せいぜい2度で処理される。それで観客には説明できるからだ。ところが園監督は、同じショットを3度、4度と繰り返す。
その繰り返しは『むきだし』のようにあからさまな過剰でなく、映画全体の「よくできた」感を壊すことはないけれど、微妙ななにものかをにじみ出させる。それは、日常の繰り返しのなかに密かにしのびこんでくる死の影、とでも言ったらいいか。
もっとも、そのにじみ出てくるものも微かで、「よくできた」感を突き抜けて映画を別次元に持っていってしまうほどのものではないように思えた。園子温監督は、やっぱりやりすぎが似合うなあ。
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