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August 04, 2009

『扉をたたく人』のニューヨーク

Thevisitor

『扉をたたく人(原題:The Visitor)』のラストシーン。大学教授のウォルター(リチャード・ジェンキンス)が地下鉄駅のベンチに座り、内心の怒りをたたきつけるようにジャンベ(アフリカン・ドラム)を激しく叩く。そのとき、画面には「ブロードウェイ・ラファイエット」という駅名が映っている。そうか、やっぱりこのあたりが舞台だったんだ。

ブロードウェイ・ラファイエット駅は、マンハッタンのダウンタウン、SOHOの北東の角にある。マンハッタンを南北に走るブロードウェイと東西に走るハウストン通りの交差点。SOHOはブランドショップが並ぶ繁華街だけど、そこから少し東に歩き、裏通りに入ると、ウォルターのアパートのような建物をいくつも見ることができる。

ミッドタウンの瀟洒なコンドミニアムではないし、ウェスト・ビレッジの落ち着いた住宅街でもない。ブルックリン・ハイツのようなブラウン・ストーンの歴史的建造物でもない。かといって、もう少し東へ歩いたロウアー・イーストサイドの、多様なエスニックや下層階級が暮らす雑多な町とも違う。

ニューヨークのどこにでもあるような、特徴のない町。建物も、どこにでもある茶色のレンガを積み重ねた50~60年代の典型的なアパートだ。近くには、北へ北へと広がるチャイナタウンの最前線ともいえそうな、中国語の看板を掲げた店も画面に映っている。

ブロードウェイ・ラファイエット駅近くには単館系の映画館が2つあり、オーガニック・スーパーのホール・フーズもあったから、僕も時々この駅を利用した。地上に出ると、ビルの壁面に巨大なカルヴァン・クラインの広告があり、けっこう洒落た(時にはセミ・ヌードの)看板を見上げるのが癖になっていた。

ウォルターが学会で発表するのは、駅から数ブロック北のニューヨーク大学。ウォルターと同居していたシリア人タレク(ハーズ・スレイマン)が逮捕され、収容される入国管理局拘置所はクイーンズのロングアイランド・シティにある。殺伐とした工場地帯で、拘置所も外からは倉庫か工場みたいに見える。

タレクのセネガル人の恋人ゼイナブ(ダナイ・グリラ)は、ウォルターのアパートを出てブロンクスに移る(画面には出てこない)。彼女がアクセサリーを売っているフリーマーケットはイースト・ビレッジあたりだろうか。ウォルターがタレクの母モーナ(ヒアム・アッバス)を連れて「観光」するのは無料のスタッテン・アイランド・フェリー。船上からはダウンタウンの摩天楼と自由の女神が見える。タダだし、僕も滞在中に2度ほど乗ったことがある。

セントラル・パークやタイムズ・スクエアも出てくるけれど、それ以外はニューヨークを舞台にしたハリウッド映画ではあまりお目にかかることのない場所が映し出される。主人公たちの行動範囲はマンハッタンならダウンタウン、それにクイーンズとブロンクス。一目でこことわかる特徴があったり、美しかったりするわけではない。そんな、ニューヨークのどこでもありうるような場所を舞台にしていること自体が、ある種のメッセージになっていると感じられる。

コネチカットのカレッジで教えるウォルターは、妻の死後、無気力な日々を送っている。彼は学会発表のため、普段は無人のニューヨークのアパートに戻ってくる。誰もいないはずのアパートに、不法滞在のタリクとゼイナブが騙されて金を払い、住んでいる。はじめウォルターは2人に、それだけでなく世間に心を閉ざしているのだが、タリクからジャンベを教わることで少しずつ変わってゆく。

ウォルターが初めてジャンベに触れるとき、あまりに強く叩いてタリクから「もっと優しく」と注意される。それは楽器に接する仕方だけのことでなく、ウォルターの外界に向かう心と身体のありようを、さらに言えば9・11以降のアメリカ人の心と身体のありようを暗示しているようだ。

ウォルターはおずおずとジャンベを叩きはじめる。はじめ遠慮がちに、やがて少しずつ慣れてくるに従って音楽らしくなってくる。基本の3拍子が取れるようになり、そこにウォルターのジャンベがアドリブで絡んでくる。それまでぎこちなかった2人がシンクロした瞬間。アフリカン・ドラムは楽器である以前に、遠く離れた者同士のコミュニケーションの手段でもあったことを思い出させる。

セントラル・パークのドラム・セッションでウォルターとタリクが心を通わせた帰り道、タリクは地下鉄駅で警官に無賃乗車と間違われ逮捕されてしまう。彼が不法滞在であることが明らかになる……。

9・11以降のアメリカ社会の非寛容をテーマにしたこの映画で、非寛容から寛容にいたる道をジャンベという楽器と音によって語らせたアイディアが素晴らしい。

監督のトム・マッカーシーは、この映画でインディペンデント・スピリット・アワードの監督賞を受賞した。長編は2作目。アメリカ社会への批判を柔らかな語り口でくるんで、若いのに成熟を感じさせる。きっとハリウッドから声がかかるだろうけど、優しさの芯にあるごりっとした核を失ってほしくない。

それにしても、拘置所窓口にいたアフリカ系係官の慇懃無礼で強圧的な口調。「Sir」と敬語を使いながら、規則一点張りの官僚的な態度。ああ、こういう場面には滞在中いろんなところで出会ったなあ。

そうそう。主演のリチャード・ジェンキンスは50本以上の映画に出ている名脇役。顔はよく知ってたけど、名前をはじめて覚えた。


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