『虹色のトロツキー』再読
田中克彦『ノモンハン戦争 モンゴルと満州国』(岩波新書)を読んだ。
詳しくは書評「ブック・ナビ」(LINKS参照)の9月分で書くつもりだけど、日ソだけでなく、ノモンハン戦争(「事件」ではなく「戦争」と田中は書く)のもう一方の当事者だったモンゴル人の視点からこの歴史的出来事を追った刺激的な本。読了後、安彦良和の『虹色のトロツキー』をもう一度読みたくなって本棚から引っぱり出した。
『ノモンハン戦争』を読んだ後で『虹色のトロツキー』を読むと、日本とモンゴルの混血青年ウムボルトを主人公にしたこの傑作マンガの背景が実によくわかる。20年近く前に書かれたこの作品がどれだけ綿密な調査に基づいていたか、そしてソ連崩壊、中国でのチベット、ウイグルの反乱という事件を経た後でも、その基本的な立ち位置がまったく色あせていないことに驚く。
『ノモンハン戦争』が明らかにしているのは、満州国のモンゴル人はブリヤート系で、その多くは革命ロシアから逃れてきた白系モンゴル人であることだった。彼らは古くからロシア文明に触れ、近代的な民族思想をもっているインテリも多かった。
ノモンハン戦争は表向きは満州国とモンゴル人民共和国の国境紛争だった。当時、満州国は日本の傀儡、モンゴル人民共和国はソ連の傀儡だったから、実質は日本軍(関東軍)とソ連軍の戦いになった。そのなかで満州国のモンゴル人は、戦争相手であるモンゴル人民共和国のモンゴル人とも連絡を取り、日本やソ連を利用もしながら反漢汎モンゴル独立運動を進めていた。
主人公ウムボルトは、関東軍将校で謀略活動に従事する日本人の父とモンゴル人の母の間に生まれたという設定になっている。「五族(日中朝満蒙)共和」を実現するために創設された建国大学に石原莞爾の手で送り込まれたウムボルトは、日本とモンゴルに引き裂かれたアイデンティティに苦しみ、ことあるごとに自分を「日本」から引きはがしモンゴルに同一化しようとする。
そんなウムボルト像の背後に田中克彦描くブリヤート知識人を置いてみれば、日本支配に反発しながらも満州国に反漢反ソ独立の夢を託そうとしたモンゴル系青年の濃密なリアリティに裏打ちされていることが分かる。満州国高官という地位を利用して独立を企てた実在のウルジン将軍も重要人物として登場する。
国家と民族が複雑に絡んだ当時の東アジア情勢や、「敵の敵は味方」という政治の論理からすれば、このマンガの壮大な設定──スターリンに粛清されたトロツキーを建国大学に招聘し、満州国の亡命ユダヤ人、シベリアのユダヤ人と結んで反乱を起こし、ソ連との戦争にもちこもうとする石原莞爾の陰謀──も、どれほどの現実性があったかはともかく、まったくの荒唐無稽とはいえない。
ウムボルトはその陰謀の駒として使われ、歴史の渦に翻弄されるわけだが、彼の恋人・麗花のバックグラウンドも複雑だ。中国名を名乗っているが、彼女は満州ツングース系シボ族の父とウイグル族の母から生まれた混血のコミュニスト(中国共産党でなくコミンテルン系)として設定されている。
ウイグル族の母という設定は、当時、トロツキーが新彊ウイグルと国境を接したアルマアタに流刑になっていた事実をストーリーに利用するためだろう。ウムボルトは、新彊ウイグルに行ってトロツキーに連絡するよう命令を受けたりもする。実際に物語はそうは運ばないが、もしウムボルトと麗花が新彊ウイグルに行ったらどんな展開になっていたのか、ものすごく興味があるところだ。
『虹色のトロツキー』はノモンハンの戦場でウムボルトが傷つき、突然のように終わってしまう。作中のトロツキー計画にも麗花との愛の行方もまだ決着がついていないように思えたから、読者の誰もが驚いた。作者もここで終わらせていいのか、迷いに迷ったようだ。
もしウムボルトがノモンハンの戦場で死なず、まだ物語がつづくとしたら、どういう展開が考えられるのか。楽しみつつ考えてみた。
(1)ウムボルトは最終巻で、たった一人戦場を離脱するようにして死んでいった。これは、モンゴル独立を夢見ながら関東軍の駒として働かざるをえず、日本とモンゴルに引き裂かれたままだった人格の死を意味する。生きかえったウムボルトは、麗花とともに満州国の反漢反日武装ゲリラのリーダーとして転生し、関東軍に復讐戦を挑む。
(2)満州国にいられなくなったウムボルトは、麗花とともに彼女の故郷、新彊ウイグルへ脱出する。麗花はそこでウイグル族独立運動のリーダーとなり、ウムボルトは麗花の影の参謀として生きる。
(3)ノモンハンを生き延びたウムボルトは満州国軍のモンゴル族部隊の長となる。1945年8月、ソ連軍が満州国に侵攻するさなか、高校時代の友人で麗花の元恋人でもあったコミンテルン系コミュニストのジャムツと、戦場で敵同士として再会する。ウムボルトとジャムツは互いに銃を向けあい……。
(4)満州国崩壊を生き延びたウムボルトと麗花は中華人民共和国の人民として、内モンゴル自治共和国で過去を隠しひっそり生きる。胸にモンゴル独立の火を抱えたまま、ラスト・エンペラーのように文革をも生き延びて往生する。ウムボルトと麗花の息子は、内モンゴル独立を志す反政府運動の闘士に成長する。
どのシナリオがいいだろうなあ。
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