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August 31, 2009

『キャデラック・レコード』 ビヨンセに聞き惚れる

Cadillac_records

ビヨンセの歌を聞けただけでも、『キャデラック・レコード(原題:Cadillac Records)』を見てよかった。

ブルース歌手マディ・ウォーターズに扮したジェフリー・ライトや、元祖ロックン・ローラーのチャック・ベリーに扮したモス・デフも聞かせるけど、なんといってもR&B歌手エタ・ジェームズを演じたビヨンセの情感のこもった歌が素晴らしいね。

僕はビヨンセ自身の今ふうなヒット曲に惹かれたことはないけど、ビヨンセが目にいっぱい涙をためて歌う60年代のソウルフルな曲、「I'd Rather Go Blind」に参った(YOUTUBEに「BEYONCE'AS:Ms.ETTA JAMES-I'D RATHER GO BLIND」として映画のシーンがアップされている)。それを聞きながら部屋を出ていくエイドリアン・ブロディの悲しげな顔もいい。ビヨンセは、こんなうまい歌手だったのか。

この映画で彼女はほかにエタ・ジェームズのヒット曲「At Last」や「All I Could Do Was Cry」を歌っている。「At Last」は、オバマ大統領就任祝賀パーティーでビヨンセが歌い大統領夫妻がダンスして世界中で有名になったバラード。

ビヨンセやヒップ・ホップのモフ・デフの歌がうまいのは本職だから当たり前だけど、役者としてもなかなかのもの。ビヨンセの、白人のボスに心を寄せるアフリカ系女性の切なさがいい。一方、マディ・ウォーターズになるジェフリー・ライトは役者だけど、ブルースを歌ってちゃんとサマになってる。アメリカの音楽映画はこういう才能に支えられているんだなあ。

南部アフリカ系の間で歌われていたブルースが北上して都市(シカゴ、カンザス・シティ、デトロイトなど)に流れ込み、シティ・ブルースやロックン・ロールが生まれる。その音楽に影響を受け、ローリング・ストーンズ、エリック・クラプトンら白人ロックが生まれる。そんなブラック・ミュージック史のさわりを、シカゴのチェス・レコードを生んだレナード・チェス(エイドリアン・ブロディ)を主人公に面白く見せてくれる。

ポーランド移民2世のレナード(本当は兄弟なんだけど、映画では1人になってる)が、自身が経営するアフリカ系向けナイトクラブでマディ・ウォーターズに出会い、黒人音楽専門のレーベル、チェス・レコードを立ち上げる。マディはじめ、ハウリング・ウルフ、チャック・ベリー、エタ・ジェームズらの曲がヒットチャートを駆けのぼる。

そのあたりが手際よくまとめられている。昔読んだチャールズ・カイル『都市の黒人ブルース』(1968、音楽之友社)を引っ張り出したら、チェス・レコードについてこんな記述があった。

「マディ・ウォーターズは、会社設立(1940年代後半)ごろから、一枚の契約書もなしにこの会社の仕事をしている。これは、競争の激しいブルース界でウォーターズとレナード・チェス間の相互信頼を示す貴重な証拠といえるかもしれない。しかし、契約の仕方の中には、いまだにプランテーションと温情主義の匂いがする。マディ・ウォーターズが、歯医者の治療代、または自動車の支払いに窮してチェス・レコードに行けば、その場で『レコード印税の前金』を受けとれるのではないか。その反面、マディが高飛車に出たら、いままでのブルース生活が瓦解することも考えられる」

筆者のチャールズ・カイルは当時のニュー・レフトだから「プランテーションと温情主義の匂い」を嗅ぎつけているけれど、ともかく金に関して(異性やクスリに関しても)善くも悪くもいいかげんだったんだろう。映画でも、レナードはマディたちに印税のかわりにキャデラックの新車をばんばん買い与える。後でミュージシャンが「あの印税は?」と聞くと、レナードは「キャデラックで払ったろう」と答える。

ブラック・パワーが台頭してアフリカ系アメリカ人の意識が先鋭化する以前の1950年代、アフリカ系に偏見を持たなかった白人とブルースマンのうたかたの共同体みたいな空気が映画から感じられるのが嬉しい。

僕は車に興味がないけど、何台ものキャデラックの最新モデルが動いてるのは、車好きには応えられないだろうな。もうひとつ。エンド・ロールを見ると、ニュージャージーのいくつもの町でロケされている。『レスラー』もここのロケだったけど、ニュージャージーは50~60年代の空気を残す場所として貴重なんだな。

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August 24, 2009

上海の旅(2) 古い街

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前日に行った外灘(バンド)から南へ行ったところに、山手線のようにぐるりと回る中華路・人民路という道路がある。この道には、かつて城壁が巡っていた。上海が城郭都市だったころの名残りというわけだ。

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(The walled city of Shanghai during the Ming Dynasty, from Wikipedia)

城壁は明代の1554年、倭寇から町を守るために建設された。城壁の高さ10メートル、周囲5キロ。だから円形の中華路・人民路の内側がいちばん古い上海ということになる。そこを歩いてみた。旧城内には観光スポットとして有名な豫園もある。

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地下鉄2号線の大世界駅から東に5分ほど歩くと中華路・人民路にぶつかり、そこに大境閣古城壁がある。大境閣古城壁は、明代の城壁が唯一ここだけ残っている場所だ。うーん、ずいぶん立派な城壁と門。明代の豊かさがうかがわれる。

古城壁脇の大境路を行くと塀に仕切られた空地があり、パンツ一丁のおじいさんが歩いている(最初の写真)。このあたりは庶民の町なんだ。先に商店街が見えてくる。

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大境路の商店街。こういう場所へくるとなぜか心が弾んでくる。

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八百屋、魚屋、食べ物屋、雑貨屋、日々の生活に必要な店が並んでいる。

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路上の靴修理。

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ロースト・ダックの店。正面には客が何人も並んでいた。

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路地の向こうに豫園が見えてきた。

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江南の古典庭園と言われる豫園は、観光客が必ず訪れるスポット。周囲は再開発され、豫園商城と呼ばれるショッピング・モールになっている。

28年前に来たときは、こんなに整備されていなかった。庭の周囲には雑然とした店が密集し、戦前、犯罪や阿片窟がはびこって魔窟と呼ばれたころの面影をとどめていた。今はすっかり東映映画村状態になっている。

清朝の覗き眼鏡を再現した見世物をやっていた。

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豫園の南に上海老街と呼ばれる通りが走っている。古い商店建築と、それを模した新しい建築でオールド上海を再現した商店街。土産物屋、お茶屋、茶館、骨董品店なんかが並んでいる。

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そのなかの1軒、老上海茶館で一休み。壁には古い地図やポスター、レコード盤がかけられている。

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茶館の窓から外の上海老街を見る。古い商家を改築中だ。

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観光スポットを離れ、再び古い街へ。くねくねとくねる細い道、金家坊を迷いながら老西門を目指して歩く。

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戦後、いやひょっとしたら戦前の建築だろうか。長屋ふうな小さな家屋が密集している。昔ながらの街。といってもエアコンの室外機がついている家も多い。

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頭髪を洗っていたおばさん。

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デッキチェアでお菓子を食べていた子。

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足場は昔ながらの竹で組まれていた。

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よく見ると凝った装飾。

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路地の向こうに再開発されたビルが見えてきた。旧城内でも、こういう密集した地域が取り壊され、高層アパートに建て替えられているところも多い。ここも同じ運命にあるんだろうか。

 


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August 23, 2009

浅草寺夕暮れ

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友人の祥月命日で浅草の東京本願寺へ。帰りがけに浅草寺に寄ると、夕暮れに宝蔵門と五重塔のシルエットが美しい。おとといまでいた高温多湿の上海とちがって風は心地よく、もう夏も終わりだな。

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August 22, 2009

上海の旅(1) 新しい街

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ほんの4日ほどの旅で、上海に行ってきた。

以前に上海に行ったのは1981年だから、28年ぶりのことになる。まだ鄧小平の改革開放はおろか、文化大革命の余波が残っている時代だった。仕事で行ったんだけど、通訳は黒竜江省に下放され、運よく上海に戻って大学で日本語を学んだ文革世代の青年。彼の通訳で、文革で痛めつけられた老詩人に会って話を聞いた。

その後、テレビなどで見るにつけ、上海の変貌はすさまじい。どんなふうに変わったのか、一度行ってみたいと思っていた。

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ホテルを出て、地下鉄の静安寺駅に向かって歩く。南京西路と華山路が交わるこのあたりは高層ビルが建設中で、繁華街に近い。金ぴかの静安寺の屋根が見える。

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静安寺は朝からすごい人出。西暦247年創建と伝えられる真宗の古刹だ。もっとも建物は新しく、なかには巨大な釈迦と観音が坐している。革命後、仏教は保護されていたとはいえ、あまり大っぴらに人が集まる場所ではなかった。少なくとも1981年に来たとき、訪れた寺はひっそりしていたし、道教の道観は荒れ果てていた。当時と違って、まるで台北の寺や道観を思わせるにぎやかさ。人々が線香を手に、四方を拝んでいる。

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上海の第一印象は、「工事中の街」。上海万博を来年に控え、建物、高速道路、地下鉄、すべてが工事中だ。まるで東京オリンピック前の東京状態、って言っても分かる人は少ないか。写真は繁華街の南京東路を一本裏に入った通りだけど、両側が建物がずらっと改築中。昔は足場が竹で組まれていたけど、さすがに鉄骨になっている。できあがれば洒落たショップになるんだろうか。

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植民地時代の上海の象徴する外灘(バンド)へ。28年前に泊まったホテル、和平飯店は閉鎖され改築中だった。万博までに新しいホテルとしてオープンするらしい。バンドの植民地時代の建物は、和平飯店と同じように多くが改築中。

向かいの黄浦公園も工事中で入れなかった。黄浦公園からバンドの歴史的建造物と、黄浦江の向こう岸にそびえる高層ビル群を同時に眺めたらどんな気持になるだろうと思ってたんだけど、残念。

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いくつかの建物は改装が終わっている。そのひとつ、外灘18号は元インド・オーストラリア・チャータード銀行。外観は新古典主義、内部はアール・デコ調の優美な建物だ。

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カルティエなどのブランド・ショップやバー、レストランが入った複合施設。2006年のアジア太平洋文化遺産保護賞を受けている。

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黄浦公園に入れなかったので、その上流にかかる外白渡橋まで行くと、対岸の浦東に建てられた高層ビル群が見えた。28年前、黄浦江の向こうに広がるこの地は一面の草原だった。外灘沿いの中山東路に車は少なく、朝晩は自転車でいっぱいだった。

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僕の記憶では草原の地、浦東の地下鉄駅を出ると、中国各地や外国から来た観光客でいっぱいだ。いかにも中国的な建物、東方明珠塔なんかを写真に撮っている。

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ここも、いたるところ工事中。埃っぽく、おまけに34度の暑さと肌にべとつく湿気がたまらない。東方明珠塔の展望台や、森ビルが建てた上海環球金融中心といった観光名所に行く気も起らず、早々に引き上げることにする。ここの風景は映画の『ダーク・ナイト』で堪能したから、まあいいか。

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地下鉄は8ラインが営業し、さらに4ラインが工事中。乗客の服装は東京と変わらない。ニューヨークよりお洒落かも。と思ったら、一目で地方出身と分かる労働者が大きな袋をかかえて乗っていた。

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夕方、ホテルに戻ろうと静安寺駅を出ると空が真っ黒。部屋へ入って5分後、ものすごいスコールと雷が来て2時間つづいた。雨が上がった後も、外の空気はねっとりと熱く、湿っている。


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August 18, 2009

ゴーヤ異変?

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ゴーヤの実が、やっとひとつだけ大きくなった。花は咲くのに、実がならない。去年は食べきれないほど収穫があったのに。

そういえば今年の春、毎年数十はできる梅の実がひとつもつかなかった。世界的にミツバチの大量失踪が問題になっているけれど、それだけでなく昆虫が全体に少なくなっているんだろう。

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僕の住む旧浦和市は、かつては京浜東北線沿いの市街地から20分も歩けば周囲に田園が広がっていたが、武蔵野線、埼京線ができて都市化し、人口が急増した。古い市街地でも、かつては庭をもつ一軒家が多かったけど、この20年、それがマンションになり、緑はどんどん少なくなっている。

実感としては、今年とくに昆虫が少なくなったという印象はない。でも5年、10年単位で考えると、蝶も蛾もハチも明らかに減っている。来年は人工授粉でもしないといけないか。

美しい花をつけ、そこに引きよせられる昆虫などを介して受粉する仕組みは、植物が何千万年、あるいは何億年もかけてつくってきた生存戦略だ。わが家の例だけで即断はできないけど、ともかく世界的におかしなことが起きている現実は、背後に途方もない変化があるかもしれないことを予想させる。

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August 17, 2009

浦和ご近所探索 二七市場跡

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旧中山道の沿道に慈恵稲荷神社がある。無住で、賽銭箱も置いてない。わが家から5分ほどのところで、浦和駅方面への通り道だけど、お参りしている人を見たことがない。隣に蕎麦屋があり、鳥居の前は、いつもその店のバイクの駐車場になっている。

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境内には「御免毎月二七市場定杭」の石碑がある。「天正十八年(1590)」とあるから、近世以前にもうここに2と7のつく日に市が立っていたんだな。かつてはここいらが浦和宿の中心地だったらしい。本陣の跡も近くにある。昭和のはじめまでは、ここで市が開かれていたようだ。

明治に入って鉄道ができた後、繁華街は東の浦和駅近くに移り、浦和駅と北浦和駅の中間に当たるこのあたりは、やや人通りが少ない。

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ここがにぎわうのはお祭りのときくらい。


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August 13, 2009

菊地成孔DUBセクステット

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先日、日比谷野音で聴いた山下洋輔トリオ復活祭での演奏が素晴らしかった菊地成孔のライブへ(代官山・unit)。

今日のユニットはDUBセクステット。サックスとトランペット2管のクインテットに加え、デジタル・イフェクトが入ったセクステット。だからライブ演奏なのにDJ効果音が加わって、クラブのライブにふさわしい。

いきなり類家心平のミュート・トランペットから入って、おや、マイルスじゃないか。全員が細身のダーク・スーツ姿で、どうも60年代マイルス・クインテット(ウェイン・ショーター、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムス)をイメージしてるらしい。この黄金期マイルス・クインテットをフリー・ジャズ化し、さらにクラブ・ジャズのフレーバーをふりかけたみたいな音。

菊地の音は相変わらず美しい。もっともフリーだから、さすがにこれでは踊れない。隣のカップルは、かなりうまく身体を動かしてたけど。

興奮した。だけど、ジジイには立ちっぱなしの4時間はしんどかった。

菊地成孔(ts)、坪口昌恭(p)、類家心平(tp)、鈴木正人(b)、本田珠也(ds)、パードン木村(de)


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August 08, 2009

『虹色のトロツキー』再読

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田中克彦『ノモンハン戦争 モンゴルと満州国』(岩波新書)を読んだ。

詳しくは書評「ブック・ナビ」(LINKS参照)の9月分で書くつもりだけど、日ソだけでなく、ノモンハン戦争(「事件」ではなく「戦争」と田中は書く)のもう一方の当事者だったモンゴル人の視点からこの歴史的出来事を追った刺激的な本。読了後、安彦良和の『虹色のトロツキー』をもう一度読みたくなって本棚から引っぱり出した。

『ノモンハン戦争』を読んだ後で『虹色のトロツキー』を読むと、日本とモンゴルの混血青年ウムボルトを主人公にしたこの傑作マンガの背景が実によくわかる。20年近く前に書かれたこの作品がどれだけ綿密な調査に基づいていたか、そしてソ連崩壊、中国でのチベット、ウイグルの反乱という事件を経た後でも、その基本的な立ち位置がまったく色あせていないことに驚く。

『ノモンハン戦争』が明らかにしているのは、満州国のモンゴル人はブリヤート系で、その多くは革命ロシアから逃れてきた白系モンゴル人であることだった。彼らは古くからロシア文明に触れ、近代的な民族思想をもっているインテリも多かった。

ノモンハン戦争は表向きは満州国とモンゴル人民共和国の国境紛争だった。当時、満州国は日本の傀儡、モンゴル人民共和国はソ連の傀儡だったから、実質は日本軍(関東軍)とソ連軍の戦いになった。そのなかで満州国のモンゴル人は、戦争相手であるモンゴル人民共和国のモンゴル人とも連絡を取り、日本やソ連を利用もしながら反漢汎モンゴル独立運動を進めていた。

主人公ウムボルトは、関東軍将校で謀略活動に従事する日本人の父とモンゴル人の母の間に生まれたという設定になっている。「五族(日中朝満蒙)共和」を実現するために創設された建国大学に石原莞爾の手で送り込まれたウムボルトは、日本とモンゴルに引き裂かれたアイデンティティに苦しみ、ことあるごとに自分を「日本」から引きはがしモンゴルに同一化しようとする。

そんなウムボルト像の背後に田中克彦描くブリヤート知識人を置いてみれば、日本支配に反発しながらも満州国に反漢反ソ独立の夢を託そうとしたモンゴル系青年の濃密なリアリティに裏打ちされていることが分かる。満州国高官という地位を利用して独立を企てた実在のウルジン将軍も重要人物として登場する。

国家と民族が複雑に絡んだ当時の東アジア情勢や、「敵の敵は味方」という政治の論理からすれば、このマンガの壮大な設定──スターリンに粛清されたトロツキーを建国大学に招聘し、満州国の亡命ユダヤ人、シベリアのユダヤ人と結んで反乱を起こし、ソ連との戦争にもちこもうとする石原莞爾の陰謀──も、どれほどの現実性があったかはともかく、まったくの荒唐無稽とはいえない。

ウムボルトはその陰謀の駒として使われ、歴史の渦に翻弄されるわけだが、彼の恋人・麗花のバックグラウンドも複雑だ。中国名を名乗っているが、彼女は満州ツングース系シボ族の父とウイグル族の母から生まれた混血のコミュニスト(中国共産党でなくコミンテルン系)として設定されている。

ウイグル族の母という設定は、当時、トロツキーが新彊ウイグルと国境を接したアルマアタに流刑になっていた事実をストーリーに利用するためだろう。ウムボルトは、新彊ウイグルに行ってトロツキーに連絡するよう命令を受けたりもする。実際に物語はそうは運ばないが、もしウムボルトと麗花が新彊ウイグルに行ったらどんな展開になっていたのか、ものすごく興味があるところだ。

『虹色のトロツキー』はノモンハンの戦場でウムボルトが傷つき、突然のように終わってしまう。作中のトロツキー計画にも麗花との愛の行方もまだ決着がついていないように思えたから、読者の誰もが驚いた。作者もここで終わらせていいのか、迷いに迷ったようだ。

もしウムボルトがノモンハンの戦場で死なず、まだ物語がつづくとしたら、どういう展開が考えられるのか。楽しみつつ考えてみた。

(1)ウムボルトは最終巻で、たった一人戦場を離脱するようにして死んでいった。これは、モンゴル独立を夢見ながら関東軍の駒として働かざるをえず、日本とモンゴルに引き裂かれたままだった人格の死を意味する。生きかえったウムボルトは、麗花とともに満州国の反漢反日武装ゲリラのリーダーとして転生し、関東軍に復讐戦を挑む。

(2)満州国にいられなくなったウムボルトは、麗花とともに彼女の故郷、新彊ウイグルへ脱出する。麗花はそこでウイグル族独立運動のリーダーとなり、ウムボルトは麗花の影の参謀として生きる。

(3)ノモンハンを生き延びたウムボルトは満州国軍のモンゴル族部隊の長となる。1945年8月、ソ連軍が満州国に侵攻するさなか、高校時代の友人で麗花の元恋人でもあったコミンテルン系コミュニストのジャムツと、戦場で敵同士として再会する。ウムボルトとジャムツは互いに銃を向けあい……。

(4)満州国崩壊を生き延びたウムボルトと麗花は中華人民共和国の人民として、内モンゴル自治共和国で過去を隠しひっそり生きる。胸にモンゴル独立の火を抱えたまま、ラスト・エンペラーのように文革をも生き延びて往生する。ウムボルトと麗花の息子は、内モンゴル独立を志す反政府運動の闘士に成長する。

どのシナリオがいいだろうなあ。

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August 04, 2009

『扉をたたく人』のニューヨーク

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『扉をたたく人(原題:The Visitor)』のラストシーン。大学教授のウォルター(リチャード・ジェンキンス)が地下鉄駅のベンチに座り、内心の怒りをたたきつけるようにジャンベ(アフリカン・ドラム)を激しく叩く。そのとき、画面には「ブロードウェイ・ラファイエット」という駅名が映っている。そうか、やっぱりこのあたりが舞台だったんだ。

ブロードウェイ・ラファイエット駅は、マンハッタンのダウンタウン、SOHOの北東の角にある。マンハッタンを南北に走るブロードウェイと東西に走るハウストン通りの交差点。SOHOはブランドショップが並ぶ繁華街だけど、そこから少し東に歩き、裏通りに入ると、ウォルターのアパートのような建物をいくつも見ることができる。

ミッドタウンの瀟洒なコンドミニアムではないし、ウェスト・ビレッジの落ち着いた住宅街でもない。ブルックリン・ハイツのようなブラウン・ストーンの歴史的建造物でもない。かといって、もう少し東へ歩いたロウアー・イーストサイドの、多様なエスニックや下層階級が暮らす雑多な町とも違う。

ニューヨークのどこにでもあるような、特徴のない町。建物も、どこにでもある茶色のレンガを積み重ねた50~60年代の典型的なアパートだ。近くには、北へ北へと広がるチャイナタウンの最前線ともいえそうな、中国語の看板を掲げた店も画面に映っている。

ブロードウェイ・ラファイエット駅近くには単館系の映画館が2つあり、オーガニック・スーパーのホール・フーズもあったから、僕も時々この駅を利用した。地上に出ると、ビルの壁面に巨大なカルヴァン・クラインの広告があり、けっこう洒落た(時にはセミ・ヌードの)看板を見上げるのが癖になっていた。

ウォルターが学会で発表するのは、駅から数ブロック北のニューヨーク大学。ウォルターと同居していたシリア人タレク(ハーズ・スレイマン)が逮捕され、収容される入国管理局拘置所はクイーンズのロングアイランド・シティにある。殺伐とした工場地帯で、拘置所も外からは倉庫か工場みたいに見える。

タレクのセネガル人の恋人ゼイナブ(ダナイ・グリラ)は、ウォルターのアパートを出てブロンクスに移る(画面には出てこない)。彼女がアクセサリーを売っているフリーマーケットはイースト・ビレッジあたりだろうか。ウォルターがタレクの母モーナ(ヒアム・アッバス)を連れて「観光」するのは無料のスタッテン・アイランド・フェリー。船上からはダウンタウンの摩天楼と自由の女神が見える。タダだし、僕も滞在中に2度ほど乗ったことがある。

セントラル・パークやタイムズ・スクエアも出てくるけれど、それ以外はニューヨークを舞台にしたハリウッド映画ではあまりお目にかかることのない場所が映し出される。主人公たちの行動範囲はマンハッタンならダウンタウン、それにクイーンズとブロンクス。一目でこことわかる特徴があったり、美しかったりするわけではない。そんな、ニューヨークのどこでもありうるような場所を舞台にしていること自体が、ある種のメッセージになっていると感じられる。

コネチカットのカレッジで教えるウォルターは、妻の死後、無気力な日々を送っている。彼は学会発表のため、普段は無人のニューヨークのアパートに戻ってくる。誰もいないはずのアパートに、不法滞在のタリクとゼイナブが騙されて金を払い、住んでいる。はじめウォルターは2人に、それだけでなく世間に心を閉ざしているのだが、タリクからジャンベを教わることで少しずつ変わってゆく。

ウォルターが初めてジャンベに触れるとき、あまりに強く叩いてタリクから「もっと優しく」と注意される。それは楽器に接する仕方だけのことでなく、ウォルターの外界に向かう心と身体のありようを、さらに言えば9・11以降のアメリカ人の心と身体のありようを暗示しているようだ。

ウォルターはおずおずとジャンベを叩きはじめる。はじめ遠慮がちに、やがて少しずつ慣れてくるに従って音楽らしくなってくる。基本の3拍子が取れるようになり、そこにウォルターのジャンベがアドリブで絡んでくる。それまでぎこちなかった2人がシンクロした瞬間。アフリカン・ドラムは楽器である以前に、遠く離れた者同士のコミュニケーションの手段でもあったことを思い出させる。

セントラル・パークのドラム・セッションでウォルターとタリクが心を通わせた帰り道、タリクは地下鉄駅で警官に無賃乗車と間違われ逮捕されてしまう。彼が不法滞在であることが明らかになる……。

9・11以降のアメリカ社会の非寛容をテーマにしたこの映画で、非寛容から寛容にいたる道をジャンベという楽器と音によって語らせたアイディアが素晴らしい。

監督のトム・マッカーシーは、この映画でインディペンデント・スピリット・アワードの監督賞を受賞した。長編は2作目。アメリカ社会への批判を柔らかな語り口でくるんで、若いのに成熟を感じさせる。きっとハリウッドから声がかかるだろうけど、優しさの芯にあるごりっとした核を失ってほしくない。

それにしても、拘置所窓口にいたアフリカ系係官の慇懃無礼で強圧的な口調。「Sir」と敬語を使いながら、規則一点張りの官僚的な態度。ああ、こういう場面には滞在中いろんなところで出会ったなあ。

そうそう。主演のリチャード・ジェンキンスは50本以上の映画に出ている名脇役。顔はよく知ってたけど、名前をはじめて覚えた。


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August 03, 2009

浦和ご近所探索 調(つき)神社

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(旧中山道に面した神社の入口。昔から鳥居がなく、狛犬の代わりにウサギの石像がある)

調(つき)神社というのは正式な名前で、旧浦和市民はみな「つきのみや」と呼ぶ。漢字を当てれば「調宮」か「月の宮」だろう。市民にいちばん親しまれている神社で、わが家の神棚にも調神社の神璽がある。

前回の「ご近所探索」で大宮の氷川神社に行ったのは数十年ぶりだったけど、ここには月に1、2度は行く。家から歩いて25分ほど。ちょうどいい散歩コースなのだ。

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(社殿)

「書評 book navi」(LINKS参照)のために原武史『松本清張の「遺言」』と松本清張『神々の乱心』を読んでいたら、大宮の氷川神社だけでなく、この調神社も出てきた。

『神々の乱心』では、ツクヨミを祀る月辰会という新興宗教団体の本部が埼玉県にあると設定されている。その理由を原はこう推察している。

「中山道の浦和宿に近い岸村には、もともと『月読社』『月の宮』といわれた調神社がありました。……どうやら清張は、秩父のほかに、調神社が埼玉にあることから、月辰会の本部を埼玉に設定したようですね。……『月読社』『月の宮』といわれたことからもわかるように、月と関係のある神社であるのは間違いありません」

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(今の社殿の裏手にある江戸時代の社殿)

原武史が書いているように調神社は中世や江戸時代には「月読社」とか「月の宮」と表記されていた。中世以来、この地域で盛んだった月待信仰の中心地だったんだろう。近くには「二十三夜」など、月待信仰にちなんだ地名もある。月にウサギはつきもだから、境内にはウサギの石像、彫刻がたくさんある。

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(旧社殿に彫られたウサギ)

祭神はアマテラス、トヨウケビメ、スサノオの三神。氷川神社とはスサノオを祀ることで共通するけれど、こちらにはアマテラスが入っている。スサノオを祀る出雲系である氷川神社と調神社の関係はよくわからない。でも共に延喜式に記載された「式内社」だから、古くからの由緒ある神社であることは確かだ。

「調」というのは租庸調(そようちょう)と呼ばれた律令時代の物納税のひとつで、ここが調の集積所だったために調神社と呼ばれるようになった。入口に鳥居がないのは、調を運びいれるときに邪魔になったからだと言われる。

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「調(つき)」は「月」であるとともに「槻=ヒノキ」でもある。境内には樹齢数百年のヒノキの並木がある。この下を歩くのが好きだ。

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