『それでも恋するバルセロナ』の陽光
画面から受ける印象が、いつものウッディ・アレンとずいぶん違うなあ。そう思いながら見ていた。
ウッディの映画はずっと彼が住んでいたニューヨークや、最近ではロンドンを舞台にすることが多かった。冬の寒さや陰鬱な空が特徴的な北の大都会で、そこで繰り広げられるコメディや皮肉っぽいサスペンスは、どこかそうした場所の空気に反応して内閉的な色合いを帯びていたと思う。
ところが『それでも恋するバルセロナ(原題:Vicky Christina Barcelona)』はスペインで撮ったというだけで、こんなにも開放的で伸びやかになるんだろうか。ペネロペ・クルス演ずる本能のままに行動する画家なんか、ニューヨークが舞台なら、見るのもやりきれない女性になってしまうだろうけど、ペネロペのキャラクターがあるにしても、スペインの光に免じて許せてしまう。これってスペイン=南国=開放的という、見るほうの偏見(逆偏見?)かな。
必ずしもそれだけじゃないと思うのは、撮影がスペインのハビエル・アギーレサロベだから。ハビエル・アギーレサロベといえば、アルモドバルの『トーク・トゥー・ハー』はじめスペイン映画の名カメラマンだけど、僕のなかでは何よりビクトル・エリセ監督『マルメロの陽光』(1992)のカメラマンとして記憶されてる。
『マルメロの陽光』はスペインの画家が庭のマルメロの木を描くのを追ったセミ・ドキュメンタリーふうな映画だった。ストーリーらしいストーリーもなく、マルメロの木が夏、そして秋の強烈な日差しを浴びて成長し、実が黄金色に色づいてゆくのを、カメラがただ見つめている。夏から秋へと変わってゆく南国の太陽の光と、それに反応して輝くような黄金色になってゆくマルメロの実が主役ともいえる映画だった。
『みつばちのささやき』『エル・スール』そして『マルメロの陽光』と、エリセは長編を3本しか撮ってないけど、どれも珠玉のような作品で、もう20年近く新作を見ていないのに現役最高の映画監督のひとりと、僕は勝手に決めこんでいる。
ウッディがアギーレサロペを起用したのも、ひょっとしたら『マルメロの陽光』を見ていたからだろうか。この映画はカタロニア州政府やバルセロナ市も出資していて、サグラダ・ファミリアやグエル公園などガウディの有名建築が登場する観光映画にもなっているんだけど、そのパブリシティ臭も気にならないほどバルセロナの街路やオビエドの田舎家の風景が素晴らしい。空気を撮ってる、とでもいうのかな。
仲のいいクリスティナ(スカーレット・ヨハンソン)とヴィッキー(レベッカ・ホール)、2人のアメリカ女性がバルセロナに旅行して画家フアン(ハビエル・バルデム)とそれぞれにややこしくなり、そこに才能あふれるが激情的なフアンの元妻(ペネロペ・クルス)も絡んでくる。
いかにもウッディらしい四角関係のコメディなんだけど、スペインの開放的な光のなかで男と女のお話が展開されると、ペネロペの元妻なんか関わりあう者を破滅に巻き込む強烈なキャラクターにもかかわらず、いつものウッディの映画の、内側に閉じてゆく神経症的な感じがない(アルモドバルになれば、これはまた別の悲喜劇になるけれど)。
どこからスペインを舞台にすることを発想したのか知らないけど(カタロニアとバルセロナ市の提案?)、結果としてこれは成功だった。興行的にも世界的に好調らしい。ウッディの個性を薄め、スターを集めた観光映画だからヒットしたと言える側面もあるかもしれないけど、アギーレサロベのカメラがいつものウッディ映画と違うおおらかな気分をつくっていることが底にある、と思いたい。
ウッディの映画でよくあるように、この映画もナレーションが入る。「説明的なシーンをはぶくため」と彼が説明しているように96分と短めなのも、ナレーションの効果も、古い映画を見てる気分になれるのがいい。
ハビエル・バルデムは『ノー・カントリー』から一転して魅力的な男だし、ウッディの撮るスカーレット・ヨハンソンは惚れてるせいか相変わらず色っぽいし(時に下品なのがいい)、バルセロナは美しいし、それだけでも楽しめる映画だね。


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