July 27, 2009
July 26, 2009
『湖のほとりで』 穏やかな目線
ゆっくり移動するカメラが、緑濃い谷に白壁の家が点在する小さな村を見下ろしている。すぐにカメラは村のなかに入っていき、石畳の道を同じようにゆっくり移動しながら、住民の姿と声を捉える。小学生らしい女の子が歩いている、その後ろ姿を追いかける。
村にはいつものように、静かな時間が流れている。と、女の子を追いかけるカメラがいきなり犯罪者の目になったように、カメラの背後から車が忍び寄り、運転手と女の子が言葉を交わしたかと思うと女の子は車に乗り込んでしまう。事件が起こる。
見事なプロローグ。最初の数分で、『湖のほとりで(原題:La Ragazza del Lago)』の底を流れる静かな目線を印象づける。穏やかな村と、そこに起こる犯罪。もっとも行方不明になった女の子はすぐに見つかり、その代わり、もうひとつの殺人事件が明らかになる。
湖のほとりで、女子高生アンナの死体が発見される。裸の上にジャケットをかけられ発見された彼女を殺したのは誰か。サンツィオ刑事(トニ・セルヴィッロ)が村の人々に話を聞いてまわる。彼女の死に絡んでいるかもしれない、何人もの人々がいる。
山間の静かな村。水辺で発見される若い女性の裸の死体。一見平和な町の人々が、内にかかえているさまざまな秘密。……とくれば、どうしてもデヴィッド・リンチの『ツイン・ピークス』を思いだしてしまう。ツイン・ピークスに似た、岩肌のごつごつした山も映し出される。でもこの映画は、人間の闇の部分に好奇心たっぷりに入り込んでゆく『ツイン・ピークス』とはまったく逆のほうを向いている。
女の子を連れて行った、知的障害をもつ男と、そのことに悩む父親。仕事をさぼりがちな、アンナのボーイフレンド。アンナがベビーシッターをしていたアンジェロが事故死し、それが元で別居したアンジェロの両親。
疑わしい村人が次々に登場するけれど、カメラは彼らから一定の距離をおき、節度をもって眺めている。デヴィッド・リンチみたいに、ぐいぐいと彼らの内側に入り込んでいくことをしない。その程のよさ、品のよさは、この映画の底を流れる、暖かで穏やかなカメラ目線からくるものだろう。
その距離感は主人公サンツィオ刑事に対しても変わらない。サンツィオもまた若年性アルツハイマーの妻をもち、病院に入れた妻を娘に会わせる決心がつかないでいる。それが明らかにされることで、事件を追う刑事と、疑われる村人という構図が崩れ、この時点で『湖のほとりで』は刑事もの映画ではなくなってしまう。刑事も村人も、それぞれが色んな問題を抱えながら生きている、ごく当たり前の人間にすぎない。そんな彼らにそっと寄り添うカメラの距離感が、この映画の見事なスタイルになってる。
事件はあっけなく解決される。リアルというよりメルヘンふうな結末で、事件映画ではないから、それもまあいいか。この終わり方を見れば、カメラが人々の内面に無遠慮に踏み込まなかったのもなるほどと思えてくる。
原作はノルウェーのフィヨルドを舞台にしたミステリーで、それを北イタリアに置きかえている。ベネツィアの北東、アルプスに近い山の空気が、北ヨーロッパとも通ずるんだろうか。その風景を見ているだけでも楽しい。
アンドレア・モライヨーリ監督は、これが長編第1作。オメロ・アントヌッティ(『アレクサンダー大王』『エル・スール』)はじめ、すごい役者がちょこっと出てくるのも嬉しい。ヨーロッパ映画には、ときどきこういう印象的な小品があるのが素敵だね。
July 23, 2009
浦和ご近所探索 氷川神社
(旧中山道、さいたま新都心駅近くから氷川神社の参道が別れている。参道は約2キロ。並木に囲まれた道の片側が一方通行の車専用、片側が遊歩道になっている)
氷川神社はご近所とはいえ、旧浦和市ではなく旧大宮市にある。
かつて浦和は急行の停まらない、どころか電車(京浜東北)しか停まらない県庁所在地として「有名」だった。20年ほど前まで、大宮駅を出た東北線や高崎線の列車は浦和駅を素通りして東京都内に入った。なぜそういうことになったのか。そこには氷川神社の存在が大きくかかわっている。そこに面白い角度から光をあてた本を読んで、久しぶりに氷川神社へ出かける気になった。
原武史『<出雲>という思想 近代日本の抹殺された神々』(講談社学術文庫)。著者の原武史は近代日本政治思想史を専門とする研究者で、『大正天皇』(朝日選書)、『昭和天皇』(岩波新書)とユニークな天皇論で立て続けに賞を得た。
『<出雲>という思想』は二部に分かれている。第一部が長くて「復古神道における<出雲>」、第二部は短く「埼玉の謎 ある歴史ストーリー」。
(一の鳥居からしばらくは人通りも少ない。周囲は閑静な住宅地で、ケヤキの古木を主とした見事な並木が続く)
氷川神社というのはほとんどが荒川流域、つまり埼玉県と東京都に集中している。埼玉に162社、東京に59社、それ以外の県には7社しかない。その中心が大宮の氷川神社で、昔から武蔵一の宮とされてきた。
祭神はスサノオ、オオクニヌシ、クシイナダヒメの三神。いわゆる出雲系の神だ。『国造本紀』によれば、景行天皇(実在しない)の代に出雲族がスサノオを奉じてこの地に移住してきたと言い伝えられている。
スサノオはアマテラスの弟。オオクニヌシはスサノオの子孫にあたる。『日本書紀』によると、葦原中国(日本)を治めていたオオクニヌシに対し、高天原を治めるアマテラスの子孫タケミカズチらが国を譲れと要求した。オオクニヌシはいったん拒否するが、やがて国を譲って退き、死者の国を治めることになった。
いわゆる「国譲り」というやつで、神話の背後に、スサノオを奉ずる出雲族がアマテラスを奉ずる大和朝廷勢力と争い、敗北したのではないかという仮説を考えることができる。
(10分ほど歩くと、参道は大宮駅前からまっすぐ延びる道と交差する。その交差点を超えると人通りが多くなり、すぐに二の鳥居がある。僕も昔何度か氷川神社へ行ったときは、大宮駅からこのコースをたどった。参道の両側にはちらほら商店もある)
1968(明治1)年10月、京都から江戸城に入った明治天皇は、わずか4日後に大宮氷川神社を「武蔵国総鎮守」とする勅書を出し、10日後には大宮氷川神社を訪れて親祭を行った。新首都に入った明治天皇の最初の行幸が氷川神社だったのはなぜか。
原はこう書いている。「スサノオを武蔵国、もっと端的にいえば『帝都』を守護する神として公式に認めたことのもつ思想的意義は、決して小さくない。それは結局、<伊勢>ではなく大宮、つまり<出雲>こそが、新しい首都にとっての祭祀的、宗教的中心であることを、天皇自らが認めたということにもなる」。
新政府が氷川神社の重要さを認めたのを証明するように、翌1869(明治2)年1月、廃藩置県に先立って大宮県(現在の埼玉県東部一帯)が置かれ、大宮に県庁が置かれた。ところが8カ月後の9月、突然に大宮県は廃止され、浦和県とされて県庁も浦和に移ってしまう。
当時、浦和は中山道の小さな宿場町で、人口も経済規模も大宮とは比べようもなく小さかった。その後、1871(明治4)年の廃藩置県で埼玉県となり、その5年後には西隣の熊谷県(県庁は熊谷)を吸収して、ほぼ現在の埼玉県ができあがる。
もう一度、引用。「この奇妙な県庁移転の背景に、<伊勢>と<出雲>の対立をめぐる問題があったのか、そのことを含めて、廃止の理由はよくわかっていない」。
原は研究者らしい慎重さで「よくわかっていない」と書きながら、県庁が大宮から浦和へ移ったことに伊勢系神道と出雲系神道の対立が絡んでいたのではないかと匂わせている。
(三の鳥居。やけにJ1のユニフォームを着た人が多いと思ったら、この日は大宮アルディージャ対FC東京のゲームがあるんだった。神社の周囲に広がるかつての神域が大宮公園になっていて、スタジアムがある)
この本の第一部「復古神道における<出雲>」は、幕末から明治にかけての復古神道をたどり、それがアマテラス中心の国家神道に取ってかわられるまでを追っている。一地域の動きに中央新政府の動向を重ねてみると、県庁移動の背後にどんな事情があったのか、おぼろげながらわかってくる。
復古神道を確立したのは幕末の平田篤胤で、その神学の特徴はアマテラスではなくオオクニヌシを中心に据えたことだった。尊王攘夷を思想的に支えたのは水戸学と神道だったが、神道内部では、篤胤門下でオオクニヌシを重視する平田派と、アマテラスを重視する津和野派が主導権を争っていた。
1867年、大政奉還直後に出された政治綱領「献芹譫語」には、王政復古を助けたのはアマテラスとオオクニヌシであることが記されている。翌1868(明治1)年には祭政一致を実現するため神祇事務局が置かれ、平田派の神官が判事に任命された。ところが、この平田派の判事は任命わずか1カ月で職を解かれてしまう。
1869(明治2)年に設置された神祇官では、アマテラスを中心とする神学の津和野派が主要ポストを独占した。「結局彼ら(平田派)の神学は、実際には一度も日の目を見ることなく維新の表舞台から姿を消しているのである」と原は書いている。
こうした新政府の動きと、大宮から浦和への県庁の移動を重ねてみると、明治天皇が氷川神社を訪れ、大宮に県庁が置かれた1968年から翌69年にかけて、ほんの一瞬だけ、スサノオを重視する平田派の神道が明治政府の中枢を占めていたことが分かる。
しかし平田派はすぐに新政府から排除された。ここからアマテラスを中心とする伊勢神道が主流を占めることになり、それがやがて国家神道となる。スサノオを中心とする出雲神道は、その後、大本教など民間宗教に受け継がれるが、これも昭和に入って弾圧された。出雲の神々は記紀の時代に抹殺されただけでなく、近代国家建設の時代にもう一度抹殺されたわけだ。
(社殿。スタジアムに向かうサポーターが立ち寄ってチームの勝利を(?)祈ってゆく)
その後、大宮氷川神社は全国に数十ある官幣大社のひとつになり、昭和天皇や皇太子時代の現天皇も訪れているから、それなりに遇されてはいる。でも明治初年に、伊勢神宮に代わる国家の守護神とされた一瞬の光芒を今の氷川神社から想像することはむずかしい。
埼玉県の県庁が浦和に置かれたいきさつについては、もうひとつの政治的事情もありそうだ。
江戸時代、いま埼玉県になっている地域で、氷川神社の門前町・大宮と並ぶ大きな都市は川越だった。川越藩の城下町で、藩主は松平氏。徳川の親藩だったから、維新直後の新政府にとって川越は警戒を要する土地だった。大宮が束の間、大宮県となったように、川越もごく短期間、川越県となったが、すぐに入間県、次いで熊谷県(県庁は熊谷)となり、明治9年には浦和を県庁とする埼玉県に編入されてしまう。
大宮、川越という大きな都市をさしおいて、小さな宿場町だった浦和に県庁がおかれたのには、そんな政治的いきさつがあったらしい。その後、高崎線と東北線が大宮で分岐することになったことも含め、さまざまな歴史の紆余曲折の結果として、浦和は列車の停まらない県庁所在地になったのだった。
July 21, 2009
日比谷公園で山下トリオとバジェナト
日曜の午後、日比谷公園に行ったらラテンのリズミカルな音楽が風に流れてきた。小音楽堂に人が集まっている。屋台からおいしそうな匂いも漂ってくる。近づくと、ヒスパニックらしい人々が踊ったり談笑したり。
チラシをもらったら、コロンビア共和国の独立記念日を祝うフェスティバルなのだった。舞台ではコロンビアの伝統音楽バジェナトのグループが本国からやってきて演奏している。日本にこんなにたくさんコロンビアの人たちがいるなんて知らなかった。
陽気に踊りまくるコロンビア人に囲まれ、いい気持になって緑の向こうの高層ビルを眺めていると、日比谷公園がセントラル・パークみたいに思えてきた。
ところで今日は、野外音楽堂の「山下洋輔トリオ復活祭」に来たんだった。結成から40年、歴代のメンバーが集まって、一夜だけのリユニオン・セッションを繰り広げる。拙ブログを読んでいただき、ニューヨークで出会ったoboさん夫妻もいらっしゃるということで、松本楼で待ち合わせ軽く再会を祝して会場へ。
満員で、立ち見も数百人! 満杯の日比谷野音なんて、40年前の色とりどりのヘルメットと旗が揺れていた風景を思い出してしまうなあ。
演奏は1980年代の最後のトリオ(+1)から、初代トリオへと時間をさかのぼってゆく。まずは洋輔、小山彰太、林栄一で軽くジャブを繰り出してから、故武田和命の代役として菊地成孔が加わる。中学時代に山下トリオを聴いてたという菊地のアグレッシブな音に興奮。とくに武田の曲「Gentle November」で、フリーなタッチを交えながらのバラードが絶品だったな。
東の空に虹がかかる。天上の武田和命が山下トリオの演奏を聞きつけて寿いでいるように感じたのは僕だけじゃないだろう。
続いて洋輔、小山に國仲勝男のトリオ。そこから國仲が抜けて坂田明が加わる。僕が聴いた山下トリオはこの時期までだった。坂田は相変わらずのテンションで吹きまくる。
小山が抜けて森山威男が加わり、あの挑むような笑みを浮かべてスティックを振り下ろすと、会場がひときわ盛り上がる。もっと豪快だと記憶してたけど、意外に繊細でシャープなドラミングなんだな。
そして最後に坂田がステージから退いて中村誠一が加わり、初代山下トリオ。僕はこのトリオをいちばんよく聴いたから、ひときわ思い出がある。「木喰」など中村の曲を演奏。トリオを抜けた中村はオーソドックスなジャズをやってたから、長いことフリーでやってないはずだけど、昔のまんまでした。坂田のすっこ抜けたような音に比べて、乾いた情感がある。
いま聞くと、このトリオがいちばんフリージャズらしいフリージャズだったんだな。坂田明が入って、童謡の旋律を取り入れたりして日本的というか、個性的というか、オリジナリティが増して、外国で評価されたのはそういうところだったんだろう。
アンコールは歴代メンバー全員が揃って一曲。真夏の夜の夢みたいなひとときだった。
フリージャズは聴くものでなく、参加するもの。それは人を興奮させる。銀座へ出てobo夫妻ともう一度盛り上がり、再会を約して別れる。
July 20, 2009
『風の馬』 チベットの山と街
チベットのラサに住むチベット人兄妹を主人公に、彼らがヒマラヤを越えて亡命するまでを描いた『風の馬(原題:Windhorse)』は、1998年、舞台になるラサと亡命チベット人コミュニティがある隣国ネパールのカトマンズで撮影された。まず、そのことに驚く。
生きる目的を失って酒びたりの兄と、ナイトクラブの歌手で中国人の恋人をもつ妹が、やがて過酷な現実に向き合わされ中国政府に追われる身となるストーリーを持ったアメリカ資本の映画が、現地での撮影を許可されるはずもない。
監督はアメリカのインディペンデント系ドキュメンタリストのポール・ワグナーと、フリー・チベット運動にかかわる亡命チベット人2世のテュプテン・ツェリン。2人はラサへビデオカメラを持ち込んで密かに街の風景を撮影し、小道具となる警官の衣装や中国製ビールなどを集めてネパールに持ち込んだという。
ネパール政府も中国に気兼ねして亡命チベット人の動向に敏感だから、ここでもドキュメンタリーとミュージック・ビデオをつくるという名目で撮影許可を得た。
亡命チベット人コミュニティには政府への密告者もいるから、主人公の従妹である尼僧が雑踏を歩きながら「チベットに自由を!」と叫ぶシーンを撮影すれば、映画の内容はすぐ政府に知られてしまう。そこでこの大がかりなシーンの撮影は最後に行われ、撮影されたテープはその日のうちに国外に持ち出された。翌日にはネパール情報省と警察がクルーの宿舎にやってきてテープ引き渡しを求めたという。
そんなふうにして撮影されたリアルさが、この映画に命を吹き込んでいる。フィクションなんだけれど、チベットの風景と街と人々の表情は、どちらかといえばドキュメンタリーに近い。
同時期にハリウッドで『セブン・イヤーズ・イン・チベット』や『クンドゥン』といったチベットを舞台にした作品がつくられた。実際にはアンデス山脈やモロッコで撮影されたそれらハリウッド映画は、風景も人もカネにまかせてフィクションとしてつくられている(劇映画だから、フィクションはフィクションで構わない。ただ、その「質」は問われる)。だからこの映画は善くも悪くも同じ次元では考えられない。
『風の馬』は、役者にもすべて亡命チベット人が起用されている。主役の歌手を演ずるダドゥンは、アメリカに住む亡命チベット人シンガー。彼女はラサのディスコで人気の歌手だったが、友人が中国政府に抗議して逮捕され、自身の立場も危なくなって亡命したという、映画の役とよく似た経歴をもつ。兄役のジャンバ・ケルサンはネパールのチベット難民コミュニティで育ったロック・ミュージシャンだそうだ。
逮捕され拷問を受ける尼僧役の女優はアメリカに住む亡命チベット人だが、チベットに残る家族の安全を考えてだろう、名前を出していない。本名を出せないなら芸名をつけてもよさそうなものだが、そうしないところがドキュメンタリストであるポール・ワグナー監督のセンスであり、この映画の精神でもあるんだろう。
中国語を解さず、中国人に反感を隠さない祖母。中国語を話し、中国人と妥協しながら生きている両親。友人から抗議運動に誘われても加わらず、ビリヤード場やナイトクラブに入り浸る兄。実力を共産党幹部に認められ、友好的なチベット人歌手として中国全土にテレビ中継されることになった妹。従妹の尼僧はダライ・ラマを崇拝している。
監督たちが亡命チベット人に取材して構成したというこの物語、いわばラサに住むチベット人家族の「典型」なんだろう。近所に住む僧侶は密告者だし、従妹を拷問する警官もチベット人だ。これもまたチベットの現実に違いない。それらが「お話」でなく、映画がつくられて10年後の今も続いていることは、去年の大規模な抗議行動と鎮圧が物語っている。
僕はその目的がどんな正当なものであれ、プロパガンダの匂いのする映画が好きになれない。共同監督のひとりがフリー・チベットの関係者であることからも明らかなように、『風の馬』はその運動に沿ってつくられている。とはいえ、この映画にプロパガンダ映画の空虚と大げさな身振りはない。フィクションとしての出来は、いくつもの悪条件を考えれば、よくここまでつくった、といったところだが。
例えば『カサブランカ』や『戦艦ポチョムキン』のようにプロパガンダ映画でありながらプロパガンダの彼方まで行ってしまった映画にはひれ伏すしかない。『風の馬』は、プロパガンダ以前で、ラサの街や人々やヒマラヤの高山に掲げられたチベット仏教の旗が風にはためいている風景に思わず引き込まれてしまう。そのドキュメンタリーの感触に好感を持てた映画だった。
July 16, 2009
『ウルトラ・ミラクル・ラブストーリー』のおかしみ
松山ケンイチが飛び跳ねてる。フレームから飛び出しそうになりながら動き回る、重力を感じさせない軽々とした肉体が不思議な魅力を発散させている。それを見ているだけで、気がついたら映画は終わっていた。
いや、もちろんこの映画の面白さはもっといろんな角度から言うことができる。そもそもが、松山ケンイチ演ずる陽人が、農薬漬けになることで「進化」し、心臓が止まっても生きている男になってしまう荒唐無稽なお話だ。陽人が恋する町子(麻生久美子)の死んだ恋人が、首なし男として現実のなかにいきなり登場するシュールな画面もおかしい。
「進化」した陽人が心臓が止まっても死なずに普段の生活をしていても、町子も祖母(渡辺美佐子)も医者(原田芳雄)もちょっと驚くだけで受け入れてしまう、そのじんわりとしたおかしさ。松山ケンイチが本能のおもむくままみたいな演技とも言えない演技をしているのを受ける渡辺美佐子や原田芳雄が、正統派のまっとうな演技で相対しているのはもちろん計算の上だろうけど、その違和感がおかしみを一層増す。
この映画のおかしさというのは、げらげら笑ってしまうというより、じんわり沁みてくる。そもそも、お伽話と民話(熊送り)と奇跡物語が合体したみたいな世界が、津軽という田舎町のリアルな風景のなかで繰り広げられるのがおかしい。
しかも田舎といっても、現実そのままの田舎町なのがいい。田舎を舞台にすると、例えば『天然コケッコー』はとてもいい映画だったけど、高度成長以前の「日本の原風景」みたいに美しい田園風景がことさらに選ばれる。この映画はそんなことはない。
田圃の傍らには幹線道路が走り、トラックや乗用車ががんがん走っている。コンクリートの電柱と電線が風景を台無しにしている。畑にはカラス避けのテープが無粋に光っている。陽人と祖母が住む家も古びてはいるけれど、懐かしさを感じさせるというより、日々の生活用具やテレビで雑然としている。陽人の部屋には、事務室にあるような予定表ボードや、いくつもの目覚まし時計がある。
この映画はすべて青森ロケされたものだけど、不要なものをカメラのフレームの外に追いやり、画面を美しくつくろうとしていない。それが素敵だ。
全編、津軽弁で通しているのも横浜聡子監督の決断だろう。最初のうち、松山ケンイチ(青森生まれ)が何をしゃべっているのか、セリフがわからないことが多い。祖母役の渡辺美佐子が年齢と逆に標準語を交えたセリフ回しをしているので、どんな会話をしているかの見当がつくけれど。
でもそのうち、言葉の意味はどうも重要ではないんだなと分かってくる。昔、『ウンタマギルー』って素晴らしい映画が全編、沖縄口(沖縄弁)で日本語の字幕が入り、これは日本映画じゃなく沖縄映画だなと思ったけど、それに近い。セリフは音とリズムとして聞いていればいいんだ。松山が画面のなかを飛び跳ねているのを見ていれば、それだけで映画は理解できる。なにしろ辻褄の合った説明なんて、できっこない映画なんだから。
『ベンジャミン・バトン』のようなハリウッドの奇跡物語を僕はほとんど見てないけど、多分、カネをかけ、CGを駆使して、いかにもありそうなリアルさ(つくりもののリアルさ)を出しているんだろうと思う。
この映画は、まったく逆を向いてる。もちろん、ハリウッドみたいに資金が潤沢にあるわけじゃない。だから、カネをかけずに非現実的な奇跡物語をつくろうとしたらこうするしかなかった、とも言える。でもそれが苦しまぎれじゃなく、リアルと非リアルが奇妙に接着して、逆に今までどんな映画にもなかったような魅力をつくりだしてる。
横浜聡子監督は、これがメジャー・デビュー第1作。楽しみだね。
July 10, 2009
久しぶりのにんにくスパゲティ
久しぶりににんにくスパゲティをつくった。ニューヨークでは時々つくってたんだけど、日本に帰ってからは初めて。
これは味つけが塩とにんにくという簡単レシピだけに、逆にむずかしい。今日はパスタの茹でに塩が足らず、オリーブオイルで炒めるにんにくに塩を効かせすぎた。パスタに小麦粉の味が残り、にんにくが塩辛すぎる。自己採点としては50点。
うまくできたときは、家族から「お金がとれる」と言われるんだけど。カンがにぶってるので、何回か塩加減を試行錯誤しないといけないな。パセリは庭のものを使ってる。皿は松山の砥部焼。
(後記)自分では唐辛子を入れるペペロンチーノのバリエーションのつもりだったせいか、間違えてこれもペペロンチーノと呼んでた。TAKAMI君からコメントをいただいて、タイトルと本文直しました。
July 07, 2009
『それでも恋するバルセロナ』の陽光
画面から受ける印象が、いつものウッディ・アレンとずいぶん違うなあ。そう思いながら見ていた。
ウッディの映画はずっと彼が住んでいたニューヨークや、最近ではロンドンを舞台にすることが多かった。冬の寒さや陰鬱な空が特徴的な北の大都会で、そこで繰り広げられるコメディや皮肉っぽいサスペンスは、どこかそうした場所の空気に反応して内閉的な色合いを帯びていたと思う。
ところが『それでも恋するバルセロナ(原題:Vicky Christina Barcelona)』はスペインで撮ったというだけで、こんなにも開放的で伸びやかになるんだろうか。ペネロペ・クルス演ずる本能のままに行動する画家なんか、ニューヨークが舞台なら、見るのもやりきれない女性になってしまうだろうけど、ペネロペのキャラクターがあるにしても、スペインの光に免じて許せてしまう。これってスペイン=南国=開放的という、見るほうの偏見(逆偏見?)かな。
必ずしもそれだけじゃないと思うのは、撮影がスペインのハビエル・アギーレサロベだから。ハビエル・アギーレサロベといえば、アルモドバルの『トーク・トゥー・ハー』はじめスペイン映画の名カメラマンだけど、僕のなかでは何よりビクトル・エリセ監督『マルメロの陽光』(1992)のカメラマンとして記憶されてる。
『マルメロの陽光』はスペインの画家が庭のマルメロの木を描くのを追ったセミ・ドキュメンタリーふうな映画だった。ストーリーらしいストーリーもなく、マルメロの木が夏、そして秋の強烈な日差しを浴びて成長し、実が黄金色に色づいてゆくのを、カメラがただ見つめている。夏から秋へと変わってゆく南国の太陽の光と、それに反応して輝くような黄金色になってゆくマルメロの実が主役ともいえる映画だった。
『みつばちのささやき』『エル・スール』そして『マルメロの陽光』と、エリセは長編を3本しか撮ってないけど、どれも珠玉のような作品で、もう20年近く新作を見ていないのに現役最高の映画監督のひとりと、僕は勝手に決めこんでいる。
ウッディがアギーレサロペを起用したのも、ひょっとしたら『マルメロの陽光』を見ていたからだろうか。この映画はカタロニア州政府やバルセロナ市も出資していて、サグラダ・ファミリアやグエル公園などガウディの有名建築が登場する観光映画にもなっているんだけど、そのパブリシティ臭も気にならないほどバルセロナの街路やオビエドの田舎家の風景が素晴らしい。空気を撮ってる、とでもいうのかな。
仲のいいクリスティナ(スカーレット・ヨハンソン)とヴィッキー(レベッカ・ホール)、2人のアメリカ女性がバルセロナに旅行して画家フアン(ハビエル・バルデム)とそれぞれにややこしくなり、そこに才能あふれるが激情的なフアンの元妻(ペネロペ・クルス)も絡んでくる。
いかにもウッディらしい四角関係のコメディなんだけど、スペインの開放的な光のなかで男と女のお話が展開されると、ペネロペの元妻なんか関わりあう者を破滅に巻き込む強烈なキャラクターにもかかわらず、いつものウッディの映画の、内側に閉じてゆく神経症的な感じがない(アルモドバルになれば、これはまた別の悲喜劇になるけれど)。
どこからスペインを舞台にすることを発想したのか知らないけど(カタロニアとバルセロナ市の提案?)、結果としてこれは成功だった。興行的にも世界的に好調らしい。ウッディの個性を薄め、スターを集めた観光映画だからヒットしたと言える側面もあるかもしれないけど、アギーレサロベのカメラがいつものウッディ映画と違うおおらかな気分をつくっていることが底にある、と思いたい。
ウッディの映画でよくあるように、この映画もナレーションが入る。「説明的なシーンをはぶくため」と彼が説明しているように96分と短めなのも、ナレーションの効果も、古い映画を見てる気分になれるのがいい。
ハビエル・バルデムは『ノー・カントリー』から一転して魅力的な男だし、ウッディの撮るスカーレット・ヨハンソンは惚れてるせいか相変わらず色っぽいし(時に下品なのがいい)、バルセロナは美しいし、それだけでも楽しめる映画だね。
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