『レスラー』の哀しみ
カメラがランディ(ミッキー・ローク)の背中を見つめている。彼を後ろから追いかける手持ちカメラはまるで背後霊のように執拗で、ランディとともに暗く長い通路を抜け、ライトがまばゆいアリーナへ出た瞬間に、あるいは客が往き来するスーパーの売り場に出た瞬間に、見る者は魅入られたようにランディと一体になってしまうのだ。
映画の楽しみのひとつは、束の間、他人の人生を生きられることにある。『レスラー(原題:The Wrestler)』を見て、そんな感想をもった。
もちろん、その人生はつくりものにすぎないにしても、よくできた映画は2時間とか3時間というごく短い時間で、他人の人生のいちばん深いところを、身も心もその人間になりきって生きる擬似体験をさせてくれる。それがどう転んでも自分では体験できない類の人生であれば、それだけ映画を見た後で自分が大きく揺さぶられる。
そういう体験は小説でもできる。でも小説と違うところは、2、3時間という極めて短い時間であるために、映画を見ている自分、小説を読んでいる自分、といった素の自分に戻る間もなく「他人」になりきれること。
喫茶店で小説を読みふけり、ふっと目を上げると窓の外で小説世界と違う現実が何事もなかったように進行しているのに気づく瞬間も面白いけど、映画館の暗闇に身をおくことで異次元に連れていかれ、自分をゼロに近づけて他人の人生に没入できるのは映画ならではの体験だ(だからこそDVDでなく映画館で見たい)。
もうひとつは、小説のように言葉から喚起される純粋な想像力の世界でなく、ある時、ある場所、ある人間をカメラで記録した、固有名をもった映像や音という現実につなぎとめられていること。具体的なイメージと音があるからこそ、それがうまく嵌まった場合にはヴァーチャルでありながらリアルな「他人の人生」を濃密に生きることができる。
映画が終わってスクリーンが暗転し、ブルース・スプリングスティーンの歌が流れてエンド・クレジットが始まるまで、僕はミッキー・ローク演ずるレスラー、ランディ“ザ・ラム”ロビンソンになりきっていた。そんな体験をさせてくれる映画はそんなに多くない。僕はプロレスを見ないし、ランディみたいに強くないし、社会をはみ出した人生を送っているわけでもないけれど、いやそれだけにというべきか、ランディの最後の跳躍に涙した。
2008年、ニューヨーク近郊のニュージャージー。1980年代に人気レスラーだったランディは、50代になった今も衰えた肉体でドサ回り興業のトリを取っている。借りているトレーラー・ハウスの家賃は払えず、妻も娘も去った。試合のない平日は、近くのスーパー・マーケットで顔を見られないよう気をつけながら働いている。
ランディに、かつてマジソン・スクエア・ガーデンで闘い、今は車のディーラーとして成功している男と再戦する話が舞い込む。そんなとき、ランディは心臓発作で倒れ、レスリングはできないと宣告される……。
社会的ルーザーがかつての栄光を夢見て、覚悟の死に場所を求める。よくある話ではある。でも類型化した「よくある話」じゃなく、ディテールがやけにリアル。その感触は、スポーツを題材にした映画でいえば『ロッキー』のスポ根ふう「感動」ではなく、ピーター・フォークが女子プロレスのマネジャーをやった『カリフォルニア・ドールズ』の哀しみに近い。
そう感ずるのも、ランディの復活に、役者としてのミッキー・ロークの復活を重ねてセンチメンタルになってしまうからだろうなあ。ミッキーは80年代に『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』『ナイン・ハーフ』『エンゼル・ハート』と記憶に残る映画に出てたけど、その後は『バッファロー66』や『シン・シティ』に顔を見せた程度で、本格的な主役は久しぶりだ。かつてのセクシーな男が、顎はたるみ、頬に傷。役者としてうまくいかず、90年代にプロ・ボクサーとして試合をし、顔を傷つけてしまったという過去がそのままこの作品に生きている。
ランディがスーパーの店員として働き、客に軽口をたたきながら応対するシーンは即興で撮られたらしい。かつてのミッキー・ロークに演技が上手いという印象はないけど、生活費を稼ぐためにアルバイトしているやるせなさが滲み出る。そういうところがこの映画のリアルさであり、ダーレン・アレノフスキー監督の狙ったところなんだろう。
ランディが心を寄せる子持ちストリッパー役のマリサ・トメイも絶品。若いころを彷彿させる可愛さと、中年になってなおストリッパーとして働く哀しさが全身から匂いたつ。アカデミー賞女優が露骨なシーンもたくさんあるこういう役をやる。アメリカの役者はいい根性してるね。
そしてなによりこの映画がリアルなのは、ニュージャージーにロケしてるからだろうな。もともと『レスラー』は低予算のインディペンデント映画で、撮影は2008年の1月に始まり、40日ほど。8月にはヴェネツィア映画祭に出品され、金獅子賞を取ってしまった。
ウィキペディア(英語)によれば、ロケはニュージャージーのエリザベス、バイヨンヌ、ローゼルといった、空港があるニューアークの南、スタッテン・アイランドの対岸あたりで行われている。都市近郊の、町と田舎が接するあたり。住宅と工場と、美しくもない草地。郊外といってもロング・アイランドみたいな白人中産階級ではなく、低所得者層の白人やアフリカ系はじめ雑多な人種が暮らす地域だ。
試合会場の淋しいアリーナやトレーラー・ハウスの群れ、垢抜けないスーパーや道路脇の公衆電話といったシーンから、町はずれのどんづまりの空気が漂ってくる。
だからこそ、テーマ音楽はブルース・スプリングスティーンだったんだろう。ブルースは生まれも育ちもニュージャージー。彼の歌を聞いているといつも、ニュージャージーの煤けた風景が目に浮かんでくる。「Darkness on the Edge of Town」なんてこの映画の景色そのものだし、「Hungry Heart」は主人公の心象そのものだ。
古臭いようで、どこか新しい。類型的人物しか出てこないのに、妙にリアル。そんな奇妙な味のある、でも好きな映画だな。
Comments
こんばんは。
あのスーパーのシーン、
即興で撮ったんですか?
頭にかぶった透明のキャップが
妙にリアルで切なかったです。
Posted by: えい | June 21, 2009 09:47 PM
こんばんは。
スーパーのシーンが即興というのは、ウィキペディアに書いてありました。どこまでが即興なのか、詳しいことがないのが残念ですが。英語版ウィキペディアはオフィシャルHPにもないデータがあって、けっこう役立ちます。
えいさんは、よく映画を見ていらっしゃいますね。いつも感心してます。
Posted by: 雄 | June 22, 2009 10:46 PM
やっと見たんですね。
気に行ってくれて、よかった。
どうもありがとう。
Posted by: T君 | June 23, 2009 11:46 PM
作品によって日本公開がアメリカとほぼ同時だったり、『レスラー』みたいにタイムラグが大きかったり。配給会社の都合なんだろうけど、なんとかしてもらいたいもんです。
T君が出てくる映画を早くみたいな。
Posted by: 雄 | June 24, 2009 10:31 PM
はじめまして
友達とDVDでみました。レスラー人生もピークを過ぎ、娘とは絶縁状態、ステロイドの影響で心臓は弱っているありさまの中年レスラー ランディー。娘との約束すっぽかすのは さすがにマズイよ~(´Ц`)
自分には「この場所しかない」不器用な生き方しかできないランディーは やはり 悲しい男です。
>90年代にプロ・ボクサーとして試合をし、顔を傷つけてしまったという過去がそのままこの作品に生きている。
セクシー俳優として80年代は全盛期だったのに ボクシングのために自分から全盛期を捨てちゃって・・・半ばバカだと思いましたよ。
ロークは'88年に「ホームボーイ」というアメリカを渡り歩く流れ者のボクサーのジョニーを演じています。ランディとはまた違った不器用さをジョニーには あります。
ボクシングはスクリーンの中だけにしておけばよかったんだと思いますがいかがでしょうか
ただ、「レスラー」と「ホーム・ボーイ」 ふたつの作品を比べて見るのも悪くないですよ。
Posted by: zebra | September 27, 2011 02:24 AM
そうですね。映画の中でボクサーを演じるのと本当にプロのボクサーとしてリングに立つのとは天と地の差がありますから。でも、ロークは確か若いころボクシングをやっていたから、どうしてもやりたかったんでしょう。そういう破滅的(?)な生き方がまた、いかにもロークらしい。
「ホーム・ボーイ」、未見なので探して見てみたいと思います。貴重な情報をありがとうございます。
Posted by: 雄 | September 27, 2011 08:25 PM