『愛を読むひと』の抑制
『愛を読むひと(原題:The Reader)』の原作がベルンハルト・シュリンクの『朗読者』だと教えてくれたのは、映画友達のMittyさんだった。小生、映画のタイトルに「愛」とついているとそれだけで敬遠してしまう偏見と悪癖をもっているから、あやうく見逃すところだった。
(最初からネタバレです)『朗読者』なら10年ほど前、新潮クレスト・ブックスの1冊として出版されたときに読んでいる。ディテールはほとんど覚えてないけれど、半世紀以上たってもナチスの犯罪にこだわりつづけるドイツ文学(や映画)のまっとうさと、識字率が極めて高い日本ではうまく想像できないけれど、文盲というものが個人にもたらす恥の感覚の大きさ激しさ(代わりに戦争犯罪を背負ってしまうほどの)が記憶に残っている。
『愛を読むひと』は役者(ケイト・ウィンスレット、レイフ・ファインズ)もスタッフ(監督=スティーヴン・ダルドリー、脚本=デヴィッド・ヘア、製作=アンソニー・ミンゲラ、撮影=クリス・メンゲス、ロジャー・ディーキンス)も主要どころは皆イギリス人。クレジットはアメリカ・ドイツの合作ということになっているけど、中身はイギリス映画といっていいんだろうな。イギリスの文芸映画は昔からケレンのない地味なリアリズムの作品が多いけど、この映画もそんな1本だった(ただ、セリフが全編英語なのと、名前が英語ふうになっているのには最後までなじめなかった)。
1958年(恋愛)、1966年(裁判)、1979年(現在)と3つの時制が入れ子になってるけど、トリッキーなものではなくストーリーを追っていけば自然に納得できる。描写も抑制が効いていて好感がもてる。
少年マイケル(デヴィッド・クロス、成人後はレイフ・ファインズ)が恋する年上の女性ハンナ(ケイト・ウィンスレット)の抱える「秘密」が明かされる法廷シーン。僕は小説を読んでいるから分かったけれど、それらしいセリフもなく、画面にも白いメモ用紙と筆記具がクローズアップにされるくらいで、予備知識なしに映画を見たらこれで伝わるんだろうかと思うほど抑制されている。そのさりげなさが、画面に静かな緊張をもたらしている。
法廷で明らかになるハンナの過去。そこでも抑制は効いている。スペクタクルなハリウッド映画なら、あるいは説明過剰な日本映画なら収容所や教会の「虐殺」シーンを挿入するに違いないけど、この映画はそういうことをしない。大学生になったマイケルがアウシュビッツの跡地を訪れるショットで、戦争が被害者にも加害者にももたらした残酷さを無言のうちに語らせている。昔読んだきりだから断言できないけど、原作が持っていた抑えのきいた雰囲気はよく再現されていると思う。
ただ個人的に不満だったのは、ケイト・ウィンスレットに年上の女の魅力が感じられなかったこと。彼女が演ずるハンナは貧しい生まれ育ちで、(「秘密」を抱えていることもあって)職を転々としてきた。ナチス親衛隊に加わったのも、貧しさから抜け出るためだったんだろう。戦後も市電の車掌をしていて、狭いアパートで暮らす生活は質素そのものだ。
そういうアプローチからの役づくりはなるほどと思うし、老女メイクにも挑戦して、だからこそアカデミー賞(主演女優賞)をもらったんだろうけど、にもかかわらず身体から滲み出る30代半ばの女性の魅力がない、と僕には思えた。貧しく、明かせない過去をもちつつも、ホメーロスやチェホフが好きで、知的好奇心にあふれ、少年を虜にしてしまう魅力をもった年上の女。それがこの映画の核なんだから。これではマイケルが可愛いガールフレンドをほったらかしてアパートに通いつめるほどの女じゃないよ、と思えてしまう。個人的意見ですが。
関係ないけど、小生が高校のころスクリーンで憧れた年上の女は、日本映画なら若尾文子、外国映画ならジャンヌ・モローだった。そういう匂うような色気を期待してしまうのは、いくつになっても反省の足りない男だからだろうか。
映画は過剰な説明をしないから、獄中のハンナに対するマイケルの態度(テープを送りつづける一方、なぜ手紙に返事を書かなかったのか。面会して差し出された手をほんの一瞬握って引っ込めてしまうのはなぜか)や、ハンナが最後に選んだ行動については色んな解釈が可能だろう。レイフ・ファインズの優しいとも優柔不断とも、男のずるさとも取れる瞳と表情が、そんなあいまいさを増幅させている。
原作がどうだったか覚えていないけれど、映画でつけくわえられたラスト(父と娘のシーン)は、そのあいまいさを残したまま無難にまとめてしまったように思う。
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