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June 29, 2009

『愛を読むひと』の抑制

Reader

『愛を読むひと(原題:The Reader)』の原作がベルンハルト・シュリンクの『朗読者』だと教えてくれたのは、映画友達のMittyさんだった。小生、映画のタイトルに「愛」とついているとそれだけで敬遠してしまう偏見と悪癖をもっているから、あやうく見逃すところだった。

(最初からネタバレです)『朗読者』なら10年ほど前、新潮クレスト・ブックスの1冊として出版されたときに読んでいる。ディテールはほとんど覚えてないけれど、半世紀以上たってもナチスの犯罪にこだわりつづけるドイツ文学(や映画)のまっとうさと、識字率が極めて高い日本ではうまく想像できないけれど、文盲というものが個人にもたらす恥の感覚の大きさ激しさ(代わりに戦争犯罪を背負ってしまうほどの)が記憶に残っている。

『愛を読むひと』は役者(ケイト・ウィンスレット、レイフ・ファインズ)もスタッフ(監督=スティーヴン・ダルドリー、脚本=デヴィッド・ヘア、製作=アンソニー・ミンゲラ、撮影=クリス・メンゲス、ロジャー・ディーキンス)も主要どころは皆イギリス人。クレジットはアメリカ・ドイツの合作ということになっているけど、中身はイギリス映画といっていいんだろうな。イギリスの文芸映画は昔からケレンのない地味なリアリズムの作品が多いけど、この映画もそんな1本だった(ただ、セリフが全編英語なのと、名前が英語ふうになっているのには最後までなじめなかった)。

1958年(恋愛)、1966年(裁判)、1979年(現在)と3つの時制が入れ子になってるけど、トリッキーなものではなくストーリーを追っていけば自然に納得できる。描写も抑制が効いていて好感がもてる。

少年マイケル(デヴィッド・クロス、成人後はレイフ・ファインズ)が恋する年上の女性ハンナ(ケイト・ウィンスレット)の抱える「秘密」が明かされる法廷シーン。僕は小説を読んでいるから分かったけれど、それらしいセリフもなく、画面にも白いメモ用紙と筆記具がクローズアップにされるくらいで、予備知識なしに映画を見たらこれで伝わるんだろうかと思うほど抑制されている。そのさりげなさが、画面に静かな緊張をもたらしている。

法廷で明らかになるハンナの過去。そこでも抑制は効いている。スペクタクルなハリウッド映画なら、あるいは説明過剰な日本映画なら収容所や教会の「虐殺」シーンを挿入するに違いないけど、この映画はそういうことをしない。大学生になったマイケルがアウシュビッツの跡地を訪れるショットで、戦争が被害者にも加害者にももたらした残酷さを無言のうちに語らせている。昔読んだきりだから断言できないけど、原作が持っていた抑えのきいた雰囲気はよく再現されていると思う。

ただ個人的に不満だったのは、ケイト・ウィンスレットに年上の女の魅力が感じられなかったこと。彼女が演ずるハンナは貧しい生まれ育ちで、(「秘密」を抱えていることもあって)職を転々としてきた。ナチス親衛隊に加わったのも、貧しさから抜け出るためだったんだろう。戦後も市電の車掌をしていて、狭いアパートで暮らす生活は質素そのものだ。

そういうアプローチからの役づくりはなるほどと思うし、老女メイクにも挑戦して、だからこそアカデミー賞(主演女優賞)をもらったんだろうけど、にもかかわらず身体から滲み出る30代半ばの女性の魅力がない、と僕には思えた。貧しく、明かせない過去をもちつつも、ホメーロスやチェホフが好きで、知的好奇心にあふれ、少年を虜にしてしまう魅力をもった年上の女。それがこの映画の核なんだから。これではマイケルが可愛いガールフレンドをほったらかしてアパートに通いつめるほどの女じゃないよ、と思えてしまう。個人的意見ですが。

関係ないけど、小生が高校のころスクリーンで憧れた年上の女は、日本映画なら若尾文子、外国映画ならジャンヌ・モローだった。そういう匂うような色気を期待してしまうのは、いくつになっても反省の足りない男だからだろうか。

映画は過剰な説明をしないから、獄中のハンナに対するマイケルの態度(テープを送りつづける一方、なぜ手紙に返事を書かなかったのか。面会して差し出された手をほんの一瞬握って引っ込めてしまうのはなぜか)や、ハンナが最後に選んだ行動については色んな解釈が可能だろう。レイフ・ファインズの優しいとも優柔不断とも、男のずるさとも取れる瞳と表情が、そんなあいまいさを増幅させている。

原作がどうだったか覚えていないけれど、映画でつけくわえられたラスト(父と娘のシーン)は、そのあいまいさを残したまま無難にまとめてしまったように思う。

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June 21, 2009

『レスラー』の哀しみ

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カメラがランディ(ミッキー・ローク)の背中を見つめている。彼を後ろから追いかける手持ちカメラはまるで背後霊のように執拗で、ランディとともに暗く長い通路を抜け、ライトがまばゆいアリーナへ出た瞬間に、あるいは客が往き来するスーパーの売り場に出た瞬間に、見る者は魅入られたようにランディと一体になってしまうのだ。

映画の楽しみのひとつは、束の間、他人の人生を生きられることにある。『レスラー(原題:The Wrestler)』を見て、そんな感想をもった。

もちろん、その人生はつくりものにすぎないにしても、よくできた映画は2時間とか3時間というごく短い時間で、他人の人生のいちばん深いところを、身も心もその人間になりきって生きる擬似体験をさせてくれる。それがどう転んでも自分では体験できない類の人生であれば、それだけ映画を見た後で自分が大きく揺さぶられる。

そういう体験は小説でもできる。でも小説と違うところは、2、3時間という極めて短い時間であるために、映画を見ている自分、小説を読んでいる自分、といった素の自分に戻る間もなく「他人」になりきれること。

喫茶店で小説を読みふけり、ふっと目を上げると窓の外で小説世界と違う現実が何事もなかったように進行しているのに気づく瞬間も面白いけど、映画館の暗闇に身をおくことで異次元に連れていかれ、自分をゼロに近づけて他人の人生に没入できるのは映画ならではの体験だ(だからこそDVDでなく映画館で見たい)。

もうひとつは、小説のように言葉から喚起される純粋な想像力の世界でなく、ある時、ある場所、ある人間をカメラで記録した、固有名をもった映像や音という現実につなぎとめられていること。具体的なイメージと音があるからこそ、それがうまく嵌まった場合にはヴァーチャルでありながらリアルな「他人の人生」を濃密に生きることができる。

映画が終わってスクリーンが暗転し、ブルース・スプリングスティーンの歌が流れてエンド・クレジットが始まるまで、僕はミッキー・ローク演ずるレスラー、ランディ“ザ・ラム”ロビンソンになりきっていた。そんな体験をさせてくれる映画はそんなに多くない。僕はプロレスを見ないし、ランディみたいに強くないし、社会をはみ出した人生を送っているわけでもないけれど、いやそれだけにというべきか、ランディの最後の跳躍に涙した。

2008年、ニューヨーク近郊のニュージャージー。1980年代に人気レスラーだったランディは、50代になった今も衰えた肉体でドサ回り興業のトリを取っている。借りているトレーラー・ハウスの家賃は払えず、妻も娘も去った。試合のない平日は、近くのスーパー・マーケットで顔を見られないよう気をつけながら働いている。

ランディに、かつてマジソン・スクエア・ガーデンで闘い、今は車のディーラーとして成功している男と再戦する話が舞い込む。そんなとき、ランディは心臓発作で倒れ、レスリングはできないと宣告される……。

社会的ルーザーがかつての栄光を夢見て、覚悟の死に場所を求める。よくある話ではある。でも類型化した「よくある話」じゃなく、ディテールがやけにリアル。その感触は、スポーツを題材にした映画でいえば『ロッキー』のスポ根ふう「感動」ではなく、ピーター・フォークが女子プロレスのマネジャーをやった『カリフォルニア・ドールズ』の哀しみに近い。

そう感ずるのも、ランディの復活に、役者としてのミッキー・ロークの復活を重ねてセンチメンタルになってしまうからだろうなあ。ミッキーは80年代に『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』『ナイン・ハーフ』『エンゼル・ハート』と記憶に残る映画に出てたけど、その後は『バッファロー66』や『シン・シティ』に顔を見せた程度で、本格的な主役は久しぶりだ。かつてのセクシーな男が、顎はたるみ、頬に傷。役者としてうまくいかず、90年代にプロ・ボクサーとして試合をし、顔を傷つけてしまったという過去がそのままこの作品に生きている。

ランディがスーパーの店員として働き、客に軽口をたたきながら応対するシーンは即興で撮られたらしい。かつてのミッキー・ロークに演技が上手いという印象はないけど、生活費を稼ぐためにアルバイトしているやるせなさが滲み出る。そういうところがこの映画のリアルさであり、ダーレン・アレノフスキー監督の狙ったところなんだろう。

ランディが心を寄せる子持ちストリッパー役のマリサ・トメイも絶品。若いころを彷彿させる可愛さと、中年になってなおストリッパーとして働く哀しさが全身から匂いたつ。アカデミー賞女優が露骨なシーンもたくさんあるこういう役をやる。アメリカの役者はいい根性してるね。

そしてなによりこの映画がリアルなのは、ニュージャージーにロケしてるからだろうな。もともと『レスラー』は低予算のインディペンデント映画で、撮影は2008年の1月に始まり、40日ほど。8月にはヴェネツィア映画祭に出品され、金獅子賞を取ってしまった。

ウィキペディア(英語)によれば、ロケはニュージャージーのエリザベス、バイヨンヌ、ローゼルといった、空港があるニューアークの南、スタッテン・アイランドの対岸あたりで行われている。都市近郊の、町と田舎が接するあたり。住宅と工場と、美しくもない草地。郊外といってもロング・アイランドみたいな白人中産階級ではなく、低所得者層の白人やアフリカ系はじめ雑多な人種が暮らす地域だ。

試合会場の淋しいアリーナやトレーラー・ハウスの群れ、垢抜けないスーパーや道路脇の公衆電話といったシーンから、町はずれのどんづまりの空気が漂ってくる。

だからこそ、テーマ音楽はブルース・スプリングスティーンだったんだろう。ブルースは生まれも育ちもニュージャージー。彼の歌を聞いているといつも、ニュージャージーの煤けた風景が目に浮かんでくる。「Darkness on the Edge of Town」なんてこの映画の景色そのものだし、「Hungry Heart」は主人公の心象そのものだ。

古臭いようで、どこか新しい。類型的人物しか出てこないのに、妙にリアル。そんな奇妙な味のある、でも好きな映画だな。

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June 13, 2009

黒部峡谷露天風呂巡り

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黒部峡谷へ露天風呂巡りの旅に出かけた。目指したのは黒薙温泉と鐘釣温泉。

JR魚津駅で富山地方鉄道に乗り換え、宇奈月温泉へ。そこから黒部峡谷鉄道、通称トロッコ電車に乗り込む。

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黒部といえば思いつくのはクロヨン・ダム。中島みゆきの「地上の星」じゃないけれど、右も左も無邪気に近代化を信じられた時代の最大の「プロジェクトX」だった。

黒部川はクロヨンはじめ10箇所もの発電所があることから分かるように、電源開発では日本有数の川。トロッコ電車は、もともとダムや発電所の工事用につくられた鉄道だった。宇奈月を出た電車は、さっそく宇奈月ダムの脇を走る。

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黒薙駅で降りると、本線から別れて普段は使われない支線のトンネルがある。数年前まではトンネルを歩いて黒薙温泉に行けたのだが、国交省から「鉄道トンネル内の歩行は罷りならぬ」と無粋なお触れが出て、今は通行できない。

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階段を上り、細い山道をたどること15分、黒部川の支流である黒薙川と、一軒宿の黒薙温泉が眼下に見えてきた。

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山道を下り、宿を見下ろすと高度成長以前、昭和30年代の記憶がふっと現れたような風景。黒薙温泉旅館は昔ながらの木造の宿で温泉巡りの先達、嵐山光三郎兄貴に言わせれば、「穴場中の穴場」の温泉だ。宿はカエデ、クリ、ナラ、ケヤキ、イヌシデ、クルミなど深い落葉樹林に囲まれている。

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黒薙川の河原に、大岩で囲まれた豪快な露天風呂がつくられている。湯は無色透明のアルカリ性単純泉。やや熱い。湯量は豊富で、宇奈月温泉街の湯はすべてここから6km余りを太いパイプで送られているそうだ。

深い谷に囲まれ、急流の音と鳥の声以外なにも聞こえない。他に泊り客もなく、この湯と風景を独占できたのは最高の贅沢だなあ。

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黒部峡谷を歩いていると、日本でそういう体験はほとんどないけれど、地球が生きていることを実感できる。ここは今、雨が激しく山を穿ち谷を刻んでいる最中なのだ。川は深い谷の底を激しく流れ、両岸の崖は実感としては垂直に近く切り立っている。沢のあちこちが崩落して、水が大岩や大量の土砂、樹木を押し流している。写真は宿の向かいの崩落。

そんな地球の営みに人間が巻き込まれると災害ということになるのだが、ここにいると、それも自然の営みにちょっかいを出した人間側の都合にすぎないと思えてくる。クロヨンも「大自然への挑戦」などでなく、その力をちょっと借りているんだと思わないと、思わぬしっぺ返しを食らうことになるかもしれない。

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翌日はトロッコ電車で黒部峡谷を更に奥へ。出し平ダムの脇を通る。

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黒部川が電源開発に利用されたのは、豪雪地帯にあるため水量が豊かで、平均河床勾配1/40(40m流れて高度が1m下がる)と勾配が激しいから。黒部の山と川は地球年齢からいえば若く、荒々しいのだ。

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この日は鐘釣温泉へ。ここも黒部川の河原から湯が沁み出し、岩で囲っただけの露天風呂がつくられている。流れの向こうに見えるのは万年雪。

増水すると川の流れに浸かって風呂が使えなくなり、その都度修理しなければならない。でも入浴は無料。管理しているのは一軒宿の老夫婦で、「もう辞めようと毎年のように話すけど、お客さんに喜んでもらうともう少し続けようって」。

トロッコ電車が終わる夕方には日帰り客も帰り、この日も他に泊り客はなかったから、あたりは人っ子ひとりいなくなる。ぬるめの湯に長時間浸かっていると、皮膚の穴という穴がぜんぶ開いて身体に湯が沁みこんでくる。それだけでなく、見る聞くかぐ味わう触れるの五感がすべて周りの自然に対して開いていき、自分という輪郭があいまいになってゆく気がする。それが快い。こういう経験は一軒宿のこういう温泉でしか味わえない。

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June 12, 2009

嶋津健一トリオのレコーディング

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ジャズ・ピアニスト、嶋津健一のレコーディングに招待されて出かけた。

2006年に出た『This Could Be a Start of Something Big』もそうだったけれど、嶋津健一トリオの録音にはスタジオに20人ほどの友人・知人が招かれる。もっとも発売されるCDでは拍手などはカットされるから、聴いているぶんにはスタジオ録音と変わりない。でもジャズの場合、スタジオ録音とライブ録音では天と地ほどの差があることは(どちらがいいということでなく)、ジャズ・ファンなら先刻周知のことだ。

場の空気に反応するライブの生き生き感とスタジオの音の良さをともに取り込もうとするこのやり方は、嶋津健一の希望であるとともに、発売元ローヴィング・スピリッツのプロデューサー、冨谷正博さんの方針でもあるらしい。

「音が鳴っているときに思わず拍手してしまっても、それはそれで結構です。でも、できれば音が完全に消えてから拍手してくださいね」と、開始前に冨谷さんから注意がある。

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録音はまずピアノ・ソロで嶋津のオリジナル「Tender Road to Heaven」から。1週間前に亡くなった、嶋津のジャズ・ピアノの生徒であり、一緒に仕事もしていた中島梓(栗本薫)に捧げた、穏やかで美しい曲。梓先生(と僕らは呼んでいた)の魂がこの場に降りてきて、以後の演奏を見守っているように思えた。

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演奏は嶋津のオリジナルが半分、残りは「シェルブールの雨傘」などミシェル・ルグランの曲と、「The Shadow of Your Smile」などジョニー・マンデルの曲を半分ずつ。

結成して4年になる嶋津健一(p)、加藤真一(b)、岡田佳大(ds)のトリオのアンサンブルは抜群にいい。CD2枚分をほとんど1テイクで、休憩をはさみ6時間ほどで録り終えてしまった。発売は秋になるらしい。

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June 05, 2009

『新宿インシデント』 東映ヤクザの匂い

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うーむ、ジャッキー・チェンも歳とったなあ。というのが第一印象。ジャッキー・チェンをよく見たのは、子供たちが小さかったころ一緒に行ったんだから、20年以上前のことになる。それを考えれば当然といえば当然なんだけど。

目の下の隈や顎まわりの皺は隠しようがないし、前髪を額にたらした若づくりの髪型がまたそぐわない。演ずる役が30歳前後(?)という設定だから若づくりしたんだろうけど、かえって歳相応の中年顔を強調することになってしまった。少しだけあるアクション・シーンでも、他の役者に比べて身体のキレがいいとは思えない。ちょっと悲しかったな。

『新宿インシデント(原題:新宿事件)』は、ジャッキーがアクションも陽気な笑顔も封印した社会派ノワール。しかも監督が『ワンナイト・イン・モンコック』のイー・トンシンとくれば期待は高まる。結果、それなりに楽しめたけれど、もっと面白い映画になったはずなのにという思いも残った。

1990年代。中国・東北地方から東京へ働きに出て音信不通になった恋人シュシュ(シュー・ジンレイ)を追って鉄頭(ジャッキー・チェン)が密航してくる。新宿には同郷の仲間、阿傑(ダニエル・ウー)たちがグループを組んでいる。鉄頭は、歌舞伎町を縄張りにする台湾系マフィアや日本のヤクザ組織と争ううち、リーダーとしてグループを統率するようになる。

不法就労していて追われた刑事・北野(竹中直人)の命を助けたことから、鉄頭は彼と友情を結ぶ。鉄頭は、シュシュが日本人ヤクザ江口(加藤雅也)と結婚していることを知る一方、新しい恋人リリー(ファン・ビンビン)ができる。……と、盛りだくさんな人間関係。彼らが絡み合い、それぞれの組織や警察が入り乱れてクライマックスになだれ込んでゆく。

日本人スタッフがかんでいるからだろうか、こういう映画にありがちな違和感は善くも悪くもない。「悪くも」というのは、外国人が見る日本が、例えば昔の『ブラック・レイン』みたいに、ある種の誤解の上に成り立っているがゆえに逆に新鮮だったりするからだ。

撮影は日本の北信康。香港ノワールながらどこか東映ヤクザ映画の匂いがあるのは、日本人俳優がたくさん出ているだけじゃなく、そのせいもあるのか。新宿を異邦人の目で見られる中国人カメラマンだったら、もっと違った肌合いになったかもしれない。それを見たかったような気もする。でも新宿や大久保周辺(?)のロケはリアル。地下下水道のシーンは、まるで『第3の男』だね。

イー・トンシンは職人肌の監督で、ツボにはまると『ワンナイト・イン・モンコック』みたいなすごい映画をつくる。この映画がそうならなかったのは、よくできたエンタテインメント映画に必須の対立軸がくっきりしなかったことにあると思う。

映画の芯はジャッキー・チェンとダニエル・ウーの友情と対立なんだけど、そこにもうひとつ、ジャッキーと竹中直人の友情と対立という軸が重なる。日中で主役級の役者を配した結果だろうけど、どちらも友情と対立のエモーションが薄まってしまったような気がする。

昔の恋人、シュー・ジンレイと新しい恋人、ファン・ビンビンとジャッキーの関係も同じ。昔の恋人を助けるために、新しい恋人との生活を捨てる、そのディテールが描きこまれてないので、ジャッキーのいくつもの友情と愛に挟まれての苦渋の決断が迫ってこない。

もっと人間関係を切り詰めて対立軸を単純・鮮明にするか、あるいはこのままディテールをもっと膨らませて多国籍の新宿を叙事的に語る大作にするか。つまり『人斬り与太』にするか『仁義なき戦い』にするか。って言っても、通じる世代は少ないか。

でも、いろんな役者が出ていて、それを見ているだけでも飽きない。ジョニー・トー映画の常連、ラム・シューは相変わらずいい味出してる。ホウ・シャオシェンの『悲情城市』に出ていた台湾のジャック・カオも懐かしい。

かつての東映ヤクザにも香港ノワールにも、もっと面白くなるはずなのにと思えるこういう映画がたくさんあった。そういう映画の1本として、でも楽しめたな。

これで今年のGW公開で気になった映画は一応見たことになる。感想を書く気にもならなかった『レイン・フォール』を除いて、『スラムドッグ$ミリオネア』『グラン・トリノ』『四川のうた』『バーン・アフター・リーディング』『ウェディング・ベルを鳴らせ!』『チェイサー』、そしてこの『新宿インシデント』と、今年は粒よりでしたね。見たい日本映画がなかったのは残念だけど。


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