『チェイサー』の坂と斜面
ソウルは丘と斜面の街、という印象がある。20年以上前のことになるけれど、仕事で1週間ほどソウルを歩きまわったことがある。風水思想でつくられた李氏朝鮮の王都(当時の表記は漢城)だけに、山と川に囲まれた都市だった。
市街地のど真ん中に南山があるし、景福宮の背後には北岳山が控えている。山とまでいかなくとも、市内を少し歩くといくつもの丘があって、びっしり家が立ち並んでいる。ソウル大学近くの丘には、低所得者層の粗末な家屋が密集していた(ソウル・オリンピック前のことで、今はどうなっているか)。夜、斜面にきらめく無数の灯りを眺めた記憶は今でも鮮明だ。
僕は韓流ファンのように韓国映画を見てないけど、これまで見た限り、『チェイサー(原題:追撃者)』ほどソウルの丘と斜面をうまく生かした映画はなかったんじゃないかな。
舞台はソウルの麻浦(マポ)区。市の中心部から少し南西に行ったあたり。南には漢江が流れ、梨花女子大や延世大学がある。僕が行ったときは町はずれの学生街といった感じだったけど、今ではクラブやライブハウス、ギャラリーも多い繁華街らしい。地図を見ると区の東部が丘陵地帯になっているから、そのあたりでロケしたのかもしれない。狭い上り坂の奥は、緑に囲まれた邸宅がつづく高級住宅街。坂を下ってくると庶民的な家や商店がある。
その狭い坂道や階段を、追う者と追われる者が駆けのぼり、駆けおりる。追うのは元刑事でデリヘルの店長ジュンホ(キム・ユンソク)。配下の女が何者かに呼ばれたまま、行方不明になったのだ。追われるのは、シリアル・キラーのヨンミン(ハ・ジョンウ)。警察に連行された彼は、しれっと殺人を自白するのだが証拠がなく、釈放される。
2004年に実際に起きた猟奇殺人事件をモデルにしている。脚本・監督のナ・ホンジンは、これが長編デビュー作。
巧みなストーリー・テリングで、観客の期待を裏切ってヨンミンにさっさと殺人を自供させたり、つかまった女がヨンミンから逃げ、見る者をほっとさせておいてもう一度、窮地に追い込んだり。時には韓国映画らしく思い入れたっぷりのスローモーションも交えながら、快調なテンポで映像を積み重ねる。新人らしからぬ職人芸で、鮮やかなクライム・サスペンスに仕上がっている
ソウルの夜を艶やかに切り取った映像も素敵だ。にぎやかな繁華街や、妖しい色の風俗街。斜面にきらめく家々の灯り。遠く、教会の赤いネオンサインの十字架も印象的だ(これが重要な伏線になっている)。
しかもキム・ギドク、パク・チャヌクといった異端の監督たちのフレイバーをそこここに取り込んでいる。密室になったバスで、頭にピックを打ち込んだり、縛り上げて吊るす。ハンマーを頭に打ち下ろし血しぶきが飛ぶのをスローモーションで捉える。そんなところはパク・チャヌクを連想させるし、殺人を犯すときも警察で取り調べを受けるときも無表情、平然と残虐を行うキャラクターはキム・ギドクの登場人物を思い起こさせる。そういえばシリアル・キラーを演ずるハ・ジョンウはキム・ギドクの映画に出ていた。
もっともキム・ギドクやパク・チャヌクが真正の変態(これは2人への誉め言葉)なのに比べると、『チェイサー』の主役はあくまで追う側のジュンホ。血糊ぎとぎと死体だらけの映画ではあるけれど、底には健康な精神が流れていて、残虐・変態はあくまでフレイバーにすぎない。それが、『チェイサー』が韓国で大ヒットした理由でもあるだろう。
追うジュンホは、行方不明になった女の幼い娘(この子がかわいい)を連れて犯人を追いかける。最初、やっかい者扱いしていた娘が、やがていとおしくなってくる。型通りだけれど、泣かせる。
ジュンホが原題の通り「追撃者」として、犯人を追って、あるいは警察から逃げて、走りまくる。何のために走るかという目的よりも、まず走るという行為そのものがもつ一生懸命な姿勢や疾走感が映画の基調をつくりあげている。それが善くも悪くもこの映画を健全にしているんだと思う。
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