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May 25, 2009

『チェイサー』の坂と斜面

Cheiser

ソウルは丘と斜面の街、という印象がある。20年以上前のことになるけれど、仕事で1週間ほどソウルを歩きまわったことがある。風水思想でつくられた李氏朝鮮の王都(当時の表記は漢城)だけに、山と川に囲まれた都市だった。

市街地のど真ん中に南山があるし、景福宮の背後には北岳山が控えている。山とまでいかなくとも、市内を少し歩くといくつもの丘があって、びっしり家が立ち並んでいる。ソウル大学近くの丘には、低所得者層の粗末な家屋が密集していた(ソウル・オリンピック前のことで、今はどうなっているか)。夜、斜面にきらめく無数の灯りを眺めた記憶は今でも鮮明だ。

僕は韓流ファンのように韓国映画を見てないけど、これまで見た限り、『チェイサー(原題:追撃者)』ほどソウルの丘と斜面をうまく生かした映画はなかったんじゃないかな。

舞台はソウルの麻浦(マポ)区。市の中心部から少し南西に行ったあたり。南には漢江が流れ、梨花女子大や延世大学がある。僕が行ったときは町はずれの学生街といった感じだったけど、今ではクラブやライブハウス、ギャラリーも多い繁華街らしい。地図を見ると区の東部が丘陵地帯になっているから、そのあたりでロケしたのかもしれない。狭い上り坂の奥は、緑に囲まれた邸宅がつづく高級住宅街。坂を下ってくると庶民的な家や商店がある。

その狭い坂道や階段を、追う者と追われる者が駆けのぼり、駆けおりる。追うのは元刑事でデリヘルの店長ジュンホ(キム・ユンソク)。配下の女が何者かに呼ばれたまま、行方不明になったのだ。追われるのは、シリアル・キラーのヨンミン(ハ・ジョンウ)。警察に連行された彼は、しれっと殺人を自白するのだが証拠がなく、釈放される。

2004年に実際に起きた猟奇殺人事件をモデルにしている。脚本・監督のナ・ホンジンは、これが長編デビュー作。

巧みなストーリー・テリングで、観客の期待を裏切ってヨンミンにさっさと殺人を自供させたり、つかまった女がヨンミンから逃げ、見る者をほっとさせておいてもう一度、窮地に追い込んだり。時には韓国映画らしく思い入れたっぷりのスローモーションも交えながら、快調なテンポで映像を積み重ねる。新人らしからぬ職人芸で、鮮やかなクライム・サスペンスに仕上がっている

ソウルの夜を艶やかに切り取った映像も素敵だ。にぎやかな繁華街や、妖しい色の風俗街。斜面にきらめく家々の灯り。遠く、教会の赤いネオンサインの十字架も印象的だ(これが重要な伏線になっている)。

しかもキム・ギドク、パク・チャヌクといった異端の監督たちのフレイバーをそこここに取り込んでいる。密室になったバスで、頭にピックを打ち込んだり、縛り上げて吊るす。ハンマーを頭に打ち下ろし血しぶきが飛ぶのをスローモーションで捉える。そんなところはパク・チャヌクを連想させるし、殺人を犯すときも警察で取り調べを受けるときも無表情、平然と残虐を行うキャラクターはキム・ギドクの登場人物を思い起こさせる。そういえばシリアル・キラーを演ずるハ・ジョンウはキム・ギドクの映画に出ていた。

もっともキム・ギドクやパク・チャヌクが真正の変態(これは2人への誉め言葉)なのに比べると、『チェイサー』の主役はあくまで追う側のジュンホ。血糊ぎとぎと死体だらけの映画ではあるけれど、底には健康な精神が流れていて、残虐・変態はあくまでフレイバーにすぎない。それが、『チェイサー』が韓国で大ヒットした理由でもあるだろう。

追うジュンホは、行方不明になった女の幼い娘(この子がかわいい)を連れて犯人を追いかける。最初、やっかい者扱いしていた娘が、やがていとおしくなってくる。型通りだけれど、泣かせる。

ジュンホが原題の通り「追撃者」として、犯人を追って、あるいは警察から逃げて、走りまくる。何のために走るかという目的よりも、まず走るという行為そのものがもつ一生懸命な姿勢や疾走感が映画の基調をつくりあげている。それが善くも悪くもこの映画を健全にしているんだと思う。

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May 24, 2009

New York State of Mind

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ニューヨークで世話になったミュージシャンの友人が2人、同時に日本にやってきて、2日つづけてコンサートに出かける。

22日はジャズ・ボーカリスト、カンナ・ヒロコさんのライブ(六本木、ボストン・ドリームス)。アメリカへ行って20年以上、ブルックリンに住む彼女には、ブルックリンの町や日用品を買うショップ、マンハッタンのライブハウスをずいぶん案内してもらった。

持ち歌は古いジャズが多い彼女だけど、珍しく歌ったビリー・ジョエルの「ニューヨーク・ステイト・オブ・マインド」(ニューヨーク心模様、とでも訳すのかな)にニューヨークのいろんな情景を思い出し、ほろり。全編をスキャットで歌った「ブルー・モンク」も素敵でした。

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23日は、前の記事で紹介した「KAISEI PLAYBACK 2009」(やなか音楽ホール)。中学・高校の同級生、ヴァイオリニスト・池田菊衛君と作曲家・淡海悟郎君が四十数年ぶりに共演した。

池田君も30年以上、ニューヨークに住んでいる。世界中で年100回のコンサートをこなす彼だけど、忙しい合間をぬって、車を持たない小生を乗せて郊外の自宅やニュージャージーのあちこちに連れていってくれた。2人がいなかったら僕のニューヨーク体験はずいぶん貧しいものになったはずで、カンナさんにも池田君にも頭が上がらない。

小生、このコンサートは発起人の一人なので、スタッフとして動く。ベートーベンの「スプリング・ソナタ」や淡海君作曲の「夢のあと」など10曲を、力のこもった演奏で。わずかな音合わせで見事なアンサンブル。10代のころ一緒にやった体感が、40年以上の時をこえて瞬時に目覚めたらしい。すごいもんです。

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May 21, 2009

PLAYBACKコンサート

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中学・高校の同級生、池田菊衛君と淡海悟郎(松井拓)君のコンサートを友人たちと企画している。バイオリンの池田君はニューヨーク在住で、弦楽四重奏のトップグループ「東京クヮルテット」のメンバー(去年、ニューヨークに滞在していたとき世話になりました)。ピアノ(作曲)の淡海君は映画やTV、CMなどの作編曲、音楽プロデューサーとして活躍している。

きっかけは、同じクラスから生まれたもう一人の音楽家、T君が心臓・腎臓同時移植という大手術を受けることになり、カンパを募るために相談するなかから、コンサートを開いてエールを送ろうということになった。

上の写真は、音合わせする池田君と淡海君。コンサートにはまだ多少の席の余裕があるので、関心のある方は下記までどうぞ。

KAISEI PLAYBACK 2009
5月23日(土) 午後5時開演
西日暮里・やなか音楽ホール
曲目:モーツァルト ヴァイオリンソナタ第28番、ベートーヴェン ヴァイオリンソナタ第5番「春」ほか
料金:2000円
問合せ:booknavi@gmail.com

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May 14, 2009

『ウェディング・ベルを鳴らせ!』の祝祭空間

Photo

この映画、はじめから終わりまで何とも言いようのない祝祭気分にあふれてるなあ。

『ウェディング・ベルを鳴らせ!(原題:Promets Moi)』だけでなく、エミール・クストリッツァ監督の映画にはそういうのが多い。10年に1本出るか出ないかの傑作(と僕は思うけど)『黒猫・白猫』もそうだった。よくあるパターン、泣いて笑ってハッピーエンドという類型的なストーリーの「笑いと涙」映画じゃなく、映画のワンカットワンカット、セリフや音楽のひとつひとつが祝祭であるような映画、といったらいいか。

そういう感じを受ける映画は、いま、クストリッツァ監督の作品以外に思い浮かばない。それはなぜかを考えてみたい。

まず誰もが感ずるように、音楽の力が大きいよね。『黒猫・白猫』『ライフ・イズ・ミラクル』と同じジプシー・ブラス・ロック(とでも言うのかな)。浮き浮きするバルカン・ロマ(ジプシー)音楽のリズムとメロディ。泥臭いけどパワフルなブラスの音。昔ふうでいながら、現代的でもある。映画の冒頭からこの猥雑な音楽が流れはじめると、さあお祭りが始まるぞ、って気分。身体がすっと映画に入り込んでしまうんですね。

舞台はセルビア共和国の山村。なだらかな丘陵に囲まれ、森と草原のなかに古い農家が点在する。のどかな、こういうところに暮らしてみたいなあ、と思わせる風景。

実はここ、前作『ライフ・イズ・ミラクル』の舞台と同じ場所で、クストリッツァ監督がこの土地を気に入り、買い取って映画学校や宿泊所、レストランを建ててしまったらしい。カメラが慈しむように風景をなめるのは、だからだったのか。黄緑の草原と、あふれる光が見る者に幸福感を与えてくれる。

そんな風景のなかで展開される話は、村に一軒だけの農家に住むおじいちゃんと孫、2人の「嫁取り」譚。村には、おじいちゃんを追ってやってきたグラマーな女先生がいる。おじいちゃんは性に目覚めた孫に、牛を連れ町へ行き、牛を売って嫁をさがしてくるよう言う。お伽噺みたいなストーリー。監督は日本の昔話をヒントにしたという。

リアルなお話でないことを強調するように、空には男が飛んでいる。サーカスの大砲から撃ちだされた男が、チープなスーパーマンふう衣装をつけて、孫が美少女(チャーミング!)を見染めたり悪漢に追われたりする町や、グラマーな先生を追って役人がやってくる村の空を飛んでいる。

ヴェンダース『天使の詩』の天使みたいな諦観と絶望の眼差しじゃなく、下界で繰り広げられる人間の愚行を眺め、寿いでいる感じ。そういえば、『アンダーグラウンド』でも男が空中を飛んでなかったっけ。

もっとも、すべてがお伽噺の世界というわけじゃない。町を再開発し、貿易センタービルを建設しようする成金とその手下が、ニューヨークのツインタワーみたいな模型を手に登場する。成金は売春宿をやっていて、美少女は母親の借金のカタに客を取らされそうになる。

セルビアはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争やコソボ紛争で欧米から敵視されてる国だけど、親欧米の資本家もいて、映画の成金は彼らを戯画化してるんだろうな。もっともこの成金、いかにもコメディ映画の悪漢風情で憎めない。

クストリッツァ監督の映画では、登場する動物が人間と同じ高さの目線で、家畜やペットというより人間の友達として描かれるのはいつものこと。それもまた中世の民話みたいな気分にさせる。おおらかなセックスも同じ。美少女が住むアパートの隣家のおばあちゃんは、美少女と彼女を口説きにくる男たちを覗くのを楽しみにしてる。結ばれた孫と美少女は、相棒が運転する車のトランクのなかで、車を激しく揺らしながらセックスしている。

お祭りに欠かせないのは旗、そして爆竹や花火だけど、ラストシーンでそれも登場する。孫と美少女が村へ帰ると、おじいちゃんとグラマー先生の結婚式の列と、村人の葬儀の列とが鉢合わせしている。村人が掲げているのは何本もの大きなセルビア国旗。スーザン・ソンタグがNATO軍のセルビア空爆を支持したように、反セルビア感情の高い欧米人インテリが見たら苦い顔をしそうだな。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のさなか、『アンダーグラウンド』がカンヌ映画祭でパルムドールを受けたとき、この映画は親セルビア的だと非難を受けた。『ウェディング・ベルを鳴らせ!』のセルビア国旗は、クストリッツァがそれに対して、おいらはセルビア人だ、それの何が悪いと、大見得を切っているようにも見える。

孫と美少女を追って、成金の悪党どもが装甲トラックに乗り、武装してやってくる。彼らは結婚式と葬儀の列に激しく機関銃を撃ちこむ。無数の銃弾が飛び交うけれど、人は一人も死なない。つまりこれ、爆竹みたいなもんなんだね。お祭りはこうして大団円を迎える。

誰も死なないラストはハッピーだけど、親欧米・資本主義の悪党一味が武装し、セルビア国旗を持った村人の列に銃撃を加えるのには、コソボ紛争でNATO軍がセルビアを空爆した事実がダブって見えてもくる。

クストリッツァは、そんな人間の善き行い悪しき行いをひっくるめ、すべてを寿いでいるように見える。だからこの祝祭、いとおしくもあり愚かでもある人間たちがドタバタを繰り広げ、お伽噺と現実が交錯し、ハッピーではあるけれど陰影が濃い。テンションを落とさず走りきったクストリッツァは、やっぱりすごい。


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May 08, 2009

虹の力

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4日間降りつづけた雨の後に虹が出た。歩いていたら向こうから来たおばあさんに、「こんなきれいな虹を見たのは何年ぶりでしょう」と話しかけられた。虹には、見知らぬ人にも話しかけたくなる力があるんだな。


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May 07, 2009

『バーン・アフター・リーディング』とジャンル映画

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『バーン・アフター・リーディング(原題:Burn After Reading)』、読んだら燃やせ、とはタイトルからして懐かしいスパイ映画の匂いがする。僕らの世代なら「なおこのテープは自動的に消滅する」のTV映画『スパイ大作戦』か、似たタイトルの007シリーズ『For Your Eyes Only』を思い出すな。

1枚の、実は役にも立たないCD-ROMをめぐってCIAやロシア大使館まで巻き込んだドタバタ劇を、脚本を書く段階から役者を想定してアテ書きされたというジョージ・クルーニー、ジョン・マルコビッチ、ブラッド・ピット、フランシス・マクドーマンドらが実に楽しげに演じてる。コーエン兄弟を中心にワイワイやりながら撮影している現場が目に浮かぶ。

CIAが登場するブラック・コメディといっても、政治的風刺を目的にしたものじゃなく、スパイ映画らしい小道具と設定のために借りた、お遊びみたいなもの。

アル中でクビになった元CIA職員(ジョン・マルコビッチ)が書いた回想録のCD-ROMは国家機密が暴露されているわけでもないのだが、紛失したROMを拾ったフランシス・マクドーマンドやブラッド・ピットらが美容整形するカネ欲しさにロシア大使館に売り込む。

マルコビッチの妻(ティルダ・スウィントン)と連邦保安官(ジョージ・クルーニー)は不倫の最中で、女狂いのクルーニーは出会い系サイトでマクドーマンドとも親しくなる。彼らが絡み合うドタバタが、CIAには訳の分からない陰謀に見えてしまう。

カネと不倫と離婚と美容整形といえば、アメリカ人が(あるいは先進国の人間が)日々いちばん頭を悩ませている問題だから、身に覚えのある観客はいささか自虐的に彼らのドタバタぶりを笑うことになる。時にスパイ映画らしいサスペンスを織り交ぜながらのブラックな笑いが快調。コーエン兄弟の語りのうまさに身を委ねていれば、それ以上なにを言うこともない。

僕はコーエン兄弟の映画では『ノー・カントリー』みたいなハードボイルド系が好きだけど、コメディ系はいかにも映画少年が楽しんでる気配なのがいい。

『ビッグ・リボウスキ』はハードボイルド映画のコメディだったし、『オー・ブラザー』が冒険映画のコメディだったように、コーエン兄弟のコメディ系には少年時代に浸ったにちがいないジャンル映画をコメディにしたのが多い。スパイ映画のコメディであるこの映画もそうで、『スパイ大作戦』や『007シリーズ』が大好きだったにちがいない空気が漂っている。

僕はジェフ・ブリッジスが同世代としての共感があって好きなんだけど、『ビッグ・リボウスキ』で超肥満体で出てきたのにはびっくりした。ハードボイルド・コメディとして、ジェフが主演した『800万の死にざま』の私立探偵のイメージを引っくり返す起用かなと感じた。その伝でいくと、『スパイ・ゲーム』での若いCIA要員ブラッド・ピットを頭に入れての、このおバカな役だったのかもしれないな。プラピのファンはどうなんだろう。


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May 02, 2009

西部劇としての『グラン・トリノ』

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『グラン・トリノ(原題:Gran Torino)』を見終わって思った。クリント・イーストウッドはやっぱり西部劇の人だな。この映画、まるで現代の西部劇みたいだ。

西部劇といっても、思い浮かべたのは正統派のものでなく異色の作、『真昼の決闘』と、演出家としてのイーストウッドの師であるドン・シーゲルの傑作『ラスト・シューティスト』。どちらも、ひとり死地に赴く、あるいはひとり死にゆくガンマンの話だった。

『真昼の決闘』のゲイリー・クーパーは、助力を頼んだ者すべてに断られ、たった一人、死を覚悟して敵に立ち向かってゆく。1950年代の映画だからクーパーは死なずに敵を倒すけれど、当時の西部劇には珍しくエンディングの苦い映画だった。

『ラスト・シューティスト』のジョン・ウェインは、ガンに犯され死期を悟って自ら最後の決闘に応ずる。そういう、たったひとり死にゆく孤独なガンマンの姿は、まっすぐこの映画の主人公、フォードの自動車組立工だったウォルト(クリント・イーストウッド)につながっている。

彼は朝鮮戦争で使ったM1ライフルを身から放さない。ギャングを威嚇するときは、手で銃の形をつくり撃つ真似をしてみせる。家の外のポーチに置かれた椅子に座り、酒を飲みながら道行く人々を眺めるのは、西部劇の登場人物が好む定番のポーズだ。車庫に格納された愛車グラン・トリノは、さしずめガンマンが友とした愛馬だろうか。

妻の葬儀で臍ピアスの孫娘に切れそうになる。町を出て中産階級化した息子たちの家族とは付きあわない。教会に行かず、妻が信頼した若い牧師に「27歳のインテリ童貞」と悪罵を浴びせる。マイノリティへの差別発言の連発。自分が好むテイストとスタイルを守り、孤立を恐れない。自分のテリトリーに踏み込む者には容赦ない。でも少数の友がいて、行きつけの床屋のおやじとは悪口を言いあう「男のつきあい」。

こういうウォルトの姿は、最後には自分一人しか頼る者のない西部劇のヒーロー像そのものだ。あるいは年老いたダーティ・ハリーと言ってもいいか。19世紀西部開拓時代のガンマンが、20世紀の都市で私立探偵などハードボイルド・ヒーローとして蘇ったというのは、ハードボイルド史の定説だ。

(以下、ネタバレです)ただ、これは西部劇(時代劇)ではなく、あくまで今のお話。ラストでウォルトが銃をもたず丸腰で「決闘」におもむき自らの死を代償にギャングを罰し、隣家に住むモン族の青年タオを救うところが現代的だし、イーストウッドがこの映画に込めた思いでもあろう。

『グラン・トリノ』でもうひとつ印象的だったのは、徹底してマイノリティにこだわっていること。

モン族(中国ではミャオ族)がこんなふうに主役級で、しかもモン・コミュニティという形でハリウッド映画に登場したのは初めてじゃないかな。ハリウッドではいまだに文化的に中国と日本の区別すらつかない映画もあるのを考えると、これは驚くべきことだね。

モン族は中国、ベトナム、ラオス国境地帯に暮らす少数民族。ベトナム戦争でアメリカに協力し、そのせいで南ベトナム政権崩壊後にアメリカに難民として大量に亡命した歴史が映画のなかで語られる。

いまアメリカには4万人以上のモン族が暮らしているという。ウォルトが住んでいるのはデトロイト郊外のベッドタウン、自動車産業の衰退で白人は次々に出てゆき隣はモン族一家という設定。ニューヨークなどの大都市でモン族のコミュニティがあると聞いたことはないから、中西部の小都市に散らばっているのかもしれない。

モン族を登場させたのは新人の脚本家ニック・シェンクで、モン族の若者と働いた体験にもとづいているという。出演者もすべてモン族からオーディションで選ぶという徹底ぶり。モン族のラップも音楽として使われている。

この映画のマイノリティへのこだわりはモン族だけではない。主人公のウォルトがそもそもポーランド系で白人のなかの少数派だし、赤毛の牧師も(多分)アイルランド系のカソリック。モン族の不良グループと対立するのはメキシコ系で、風貌はアフリカ系に近いから、インディオにアフリカ系の血が混じった役者たちだろうか。

だからここには白人の多数派WASPはほとんど登場しない。マイノリティ集団のなかで対立と暴力と差別のドラマが進行するあたりが、映画の苦味になっている。

イーストウッド映画の常連カメラマン、バート・スターンの撮影も相変わらず素晴らしい。デトロイト郊外の小都市。明るい光の下で白々と荒廃した街の風景と、ウォルトの家の地下室にたちこめる闇が対照的だ。

地下室にはウォルトが朝鮮戦争で使った武器や勲章が収められた棺のようなボックスがある。そのボックスが置かれた地下室とその闇が、戦争で東洋人を自ら進んで殺した記憶を封印したウォルトの生き方の暗喩になっている。そのことを強調するように、地下室のシーンでバート・スターンは補助光を使わず、片側からのライトだけで光と影のコントラストの強い画面をつくりあげている。

孤独なウォルトとタオが心を通わせ、ウォルトが自らの命を差し出すことによってタオを守り、グラン・トリノと愛犬だけでなく「男」としての(というところがイーストウッド的だね)生き方を遺す。タオが愛犬を助手席に乗せ、グラン・トリノを駆ってエリー湖(?)のほとりを走る、さりげなく短いラスト・ショット。静かだけれど、素晴らしい。

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