『おくりびと』の「成熟」
なにが苦手って、「涙」を売り物にしている映画ほど苦手なものはない。「涙」「感動」「泣けます!」なんてキャッチがついてる映画は、まず素通りしてしまう。キャッチ必ずしも映画の中身をきちんと伝えてるわけじゃないから、見るべき映画を見逃してるかもしれないけど、「涙」の映画につきあう苦痛を考えれば、それもまあ仕方ない。
「泣けます!」映画が嫌いなのは、自分のなかにそれに反応してしまうタチがあることを自覚してるからだ。映画を見ていて、あ、ここで泣かせにかかるな、と思うと、カメラがアップになり、それらしいセリフが吐かれ、音楽が高鳴って涙腺を刺激する。そういうミエミエの作為に乗せられて流れてしまう涙の苦々しいこと。
僕にとってその種の映画の典型は松竹の松本清張原作もので、『鬼畜』とか『砂の器』とか『天城越え』には愛憎(どちらかというと憎)が入り混じってる。ハードなタッチが小気味いいモノクロの『張込み』は例外だったけど。
『おくりびと』も、そういう映画だと思って敬遠していた。でもアカデミー賞まで取ったとあっては、一応見ておかなきゃ、というわけで映画館に出かけた。
結果、見る前に思っていたほどミエミエの「涙」映画ではなかった。涙は流れるにしても作為的な嫌らしさはなく、カメラもセリフも編集や音楽も自然な流れのなかで笑い、泣けるようになっている。
でもその自然さが曲者で、映画を見終わって何も引っかかるものがない。生と死を扱ったテーマといい(僕は死を儀式化するのは嫌いだから共感はしないけど)、山崎努は言うに及ばず本木雅弘らの役者といい(ヒロスエの大根は困ったもんだけど)、庄内の風景が美しいカメラといい、チェロをフィーチャーした音楽といい、笑いと涙を織り交ぜた演出といい、すべてがまずまずよく出来てるんだけど、映画を見終わった後に何も残らないんだなあ。小学校の通信簿ふうに言えば、「大変よくできました」ってやつだ。
いや、もちろんこういう映画はあっていいんですけどね。メインストリームにこういう水準以上の映画がたくさんあってこそ、裾野のB級C級や作家的な映画が生きるわけだから。昨日もビデオで『人のセックスを笑うな』を見て、説明なし、長回し、正面カメラ据えの山下敦弘ふう(?)スタイルだけが目について退屈し、もっと普通の映画らしくやってよ、と思ってしまったばかりなのだが。
ただ滝田洋二郎と言えば『コミック雑誌なんかいらない!』とか『木村家の人びと』とか、デビュー当時はとんがってるのを売り物にしてきた監督だから、こんなふうに「成熟」してしまったのかと感慨があったわけだ。アカデミー賞監督になったんだから、もっともっと成熟して、誰もがひれ伏すような感動大作を撮ってほしい。
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