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April 27, 2009

『四川のうた』の語り

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ジャ・ジャンクー監督は『一瞬の夢』や『プラットフォーム』以来、一貫して改革開放から急激な資本主義化に突きすすむ中国の同時代史を縦糸に、その奔流のなかで生きる男と女を横糸に映画をつくってきた。『四川のうた(原題:二十四城記)』もそれは変わらない。

ジャ監督のスタイルは長回しを好む寡黙な、中国語圏でいえば台湾のホウ・シャオシェンに近いものだけど、『四川のうた』はいつにも増して手法の実験が表に出ているような気がする。それは興味深いことでもあるけれど、一面、ジャ監督のある種の転換を表わしているのかもしれない。

前作『長江哀歌』は、三峡ダム建設で沈む運命にある小さな町へ、出稼ぎに出たまま音沙汰のない夫を探しにやってきた女と、別れた妻を探しにやってきた男との物語ともいえない物語だった。

ダム建設のため取り壊しの進む町にロケし、男と女が孤独な会話を交わす背後では、本当にビルが解体され崩れ落ちる瞬間が捉えられていた。その他の登場人物もすべてが役者ではなく、町の住民や労働者が出演している。いわばドキュメンタリーを部分的に取り入れたフィクションで、それがこの映画にリアルな緊迫感を与えもし、また作品の完成度に寄与していた。

そうした方法の実験が『四川のうた』ではさらに進められている。事前に何の情報もなくこの映画を見れば、ほとんどの人はこれはドキュメンタリーと思うだろう。

軍需製品を製造していた四川省成都の国営「420工場」が閉鎖され、再開発で「二十四城」というショッピング・センター、ホテル、マンションが建設されようとしている。ジャ・ジャンクー監督はそこにカメラを持ち込んで、閉鎖されつつある工場を撮影し、職を失おうとしている労働者8人にインタビューしている。

ただし8人の労働者のうち4人は役者で、彼らは架空の人物を演じている。50年前、瀋陽にあった「420工場」の移転に伴って成都に移動する途中で子どもと離れ離れになってしまった老女ダーリー。若いころは職場の花と噂されたが今は独身の中年女性であるミンホア。山口百恵と同じ髪型をした少女への若き日の失恋を語るウェイドン。金持ちに頼まれて香港へ買物にいって稼ぎ、工場で働く両親に新しいマンションを買ってあげたいと語る若い女性ナー。

彼らの人物像は「420工場」で働く多くの労働者(とその家族)の典型、あるいは象徴としてジャ・ジャンクーによってつくりあげられている。4人の役者と、彼ら以外の本当の労働者は、据えっぱなしのカメラの前で工場とともに生きた過去を振り返る。その語りを通して、中国の現代史が静かに浮かび上がってくる。

「420工場」が東北地方の瀋陽から内陸の成都に移った理由は語られていないけど、想像をたくましくすると、中ソ対立で軍事衝突を恐れた中国共産党が(対立はそれほどに激しかったらしい)軍事工場を安全のために内陸に移したのかもしれない(日本帝国に侵略された国民党政府が首都を南京から四川省重慶に移したように、峻険な四川は避難場所として最適だった)。

インタビューとインタビューの間には、正門に掲げられた大看板が再開発企業のものに架けかえられたり、巨大な工作機械が解体され運び出されたり、女子工員が最後のインターナショナルを歌ったりするショットが差し挟まれる。

『長江哀歌』が背景にドキュメンタリー的要素を織り込んだフィクションとするなら、『四川のうた』は映画の中心をほとんどドキュメンタリーにゆずり渡したフィクションと言っていいのか。ジャ監督はそれをフィクションとドキュメンタリーの「融合」と語っている。それによって「事実」ではなく「真実」に到達できると考えたんだろう。

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8人にインタビューするときカメラは据えっぱなしで、微動だにしない。語る人物の背後で、わずかに雨の滴が窓枠に落ちたり、窓の外で洗濯物が風に揺れていることくらいしか画面に動きはない。

映画という言葉はmoveから来た「movie」だし、監督が現場で撮影開始を合図する言葉は「アクション!」だから、映画はもともと「動くもの」であり、見世物として発達した映画は「アクション」で観客の目を刺激し驚かせるものだった。その「アクション」を捨てて「語り」を中核に据えるのは、純粋なドキュメンタリーならともかくフィクションとしては大胆な冒険だよね。

思い出したのは、学生時代に見たベトナム反戦のドキュメンタリー『ベトナムから遠く離れて』。そのなかでJ・R・ゴダールは一切のアクションを捨て、据えっぱなしのカメラの前で自らカメラを覗きながら、現実の前で映画という虚構は空しいと語りつづけていた。何人もの監督のパートに分かれた『ベトナムから遠く離れて』で、それは映画の一部にすぎなかったけれど、『四川のうた』では動きを捨てた語りが映画の大半を占めている。

そんなふうに手法が表に出た映画は、実験としての意味はあっても、作品の完成度はいまいちであることが多い。『長江哀歌』と比べるとき、『四川のうた』も僕にはそのように感じられた。ジャ・ジャンクー監督が次の作品で、こういう手法の純化に進まないことを願う。とはいえ、いい映画ですけどね。

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April 23, 2009

『スラムドッグ$ミリオネア』 ボリウッドの歌と踊り

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アカデミー賞にそんなに興味があるわけじゃない。作品賞受賞作でも見てないのがたくさんある。にしても、いかにもハリウッドらしい娯楽大作がすっかり影をひそめてしまったね。

2000年以降の作品賞を見ても、『グラディエーター』(2000)、『シカゴ』(2002)、『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』(2003)あたりまではハリウッドらしい華やかな大作だったけど、以後は『ミリオンダラ・ベイビー』(2004)、『クラッシュ』(2005)、『ディパーテッド』(2006)、『ノーカントリー』(2007)と作品の質は高いけれど地味、カンヌかベネツィアで受賞してもおかしくない、大量の観客動員には結びつかない作品ばかりだ。そして今年はダニー・ボイル監督のイギリス映画『スラムドッグ$ミリオネア』。

僕はアメリカ映画ではインディペンデント系や、ハリウッドでも歯ごたえのあるマイナーな映画を好んで見てきたけれど、メインストリームの娯楽大作が衰弱すると、やがては裾野までカネが回らなくなってくる。ユニークなインディペンデント系や外国の監督をハリウッドに呼んで撮らせる機会も少なくなる。これは長いスパンで見れば、アメリカ帝国とともにハリウッド映画も衰退する兆しかもしれないな。

なんてことはさておき。『スラムドッグ$ミリオネア(原題:Slumdog Millionaire)』は、純愛と冨を同時に得る「インディアン・ドリーム」実現のファンタジーがインドのスラムを舞台に展開する、リアルなお伽噺といったアンバランスな感触が面白かった。

主人公の少年ジャマールと兄たちが、空港敷地に勝手に入り込んで野球をしている。警備員がそれを追いたて、少年たちは隣接するスラムに逃げ込む。警備員が追いかける。路地から路地へ、手持ちカメラがその追いかけっこを追跡する。時に屋根から屋根へ飛び移る少年を下から見上げ、上から路地を走る少年を捉える。

カメラが上空からの俯瞰に切り替わる。スラムの屋根の連なり。その上空からのショットが、一段また一段と引きながら3度繰り返され、見渡すかぎりのスラムの広がりが提示される。息をのむショット。この出だし一発で、見る者は瞬時に映画の舞台、エネルギッシュなムンバイのスラムに引きずり込まれる。

カメラは小型のデジタル機材が使われている。動きの激しい、短いカットが積み重ねられ、インド・ポップスが重なる。めくるめく映像と音の熱いリズムに身を任すのが快い。

物語は現在・近過去・大過去がよりあわされている。ジャマールが警察に拘束され、どんなインチキをしてクイズの正解を知ったのかを追及されている「現在」。ジャマールがテレビ番組「クイズ・ミリオネア」に応募し、正解を重ねてあと1問で2000万ルピーを獲得するまでに至る「近過去」。ムンバイのスラムに生まれたジャマールと兄が、ギャングの物乞い集団に引き込まれ、どんな経験をへながら教育を受けずにクイズの答えを知ることになったか、生い立ちを回想する「大過去」。

そういえば、ヒロインの少女役をやった女の子が実際に大金で養子に出されそうになったというニュースがあって、この映画のストーリーがいよいよリアルに見えてくる。

そんな複雑な構成だけど、すごく分かりやすい。それに加えてジャマールと孤児の少女との純愛物語。ジジイとしてはこういう出来すぎの純愛物語には感情移入できないけど、2人が幸せになりそうになると引き離される「君の名は」パターンは『フル・モンティ』の脚本家、サイモン・ビューフォイの職人技か。

突っ込みを入れるなら、ラストシーン以降、ヒロインに逃げられ怒り心頭のギャングの親玉は、ジャマールの兄を殺しただけでは飽きたらず、ミリオネアになって「カモネギ」状態の2人を狙うに決まっている。『トレインスポッティング』の監督ならそれを暗示してシニカルな終わらせ方をするかと思ったら、ボリウッド映画(Bollywood、ムンバイ映画のこと)の定番、歌と踊りでハッピーに終わってしまった。ま、それもいっか。そうでなければ、アカデミー賞は取れなかったろうから。

ダニー・ボイルを見るのは『トレインスポッテイング』以来だけど、よくも悪くも成熟したってことかな。エンタテインメントの王道を行きながら斬新な映像感覚を失っていないのはさすがだけど。


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April 21, 2009

芽ぶき

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1週間前に種をまいた畑に芽が顔を出した。これは細ネギ。

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こちらはアスパラ菜。ゴーヤやハーブ類はまだ。

庭の小さな花が咲き始めた。どれも近づいて目をこらすとそれぞれの表情が美しい。

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April 19, 2009

浦和ご近所探索 前地通り商店街

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うまい煎餅屋があると聞いて、浦和駅東口の前地通り商店街へ出かけた。わが家から歩いて30分近くかかり、行ったのははじめて。

狭い通りに個人店が並ぶ地元商店街。スーパーもコンビニもドトールもない。戦前、戦後の商店街がそのまま残っているのだろう、他では見られなくなった店がある。

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自家製こんにゃく、トコロテン、くず餅の専門店。

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金物店の店先。

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氷室も営業中。氷を売ってます。

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この洋服店は営業中かどうか、よく分からない。

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八百屋・青果店と肉屋は数軒ずつある。タイル張りの店構えは、かつてのモダン。

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仕舞屋(しもたや)が何軒もあり、空地や小さなマンションも目につく。

都市計画でつくられた直線道路でなく、商店街はゆるやかに湾曲し、はずれには江戸時代の庚申塔がある。そのころから使われていた道なんだろう。

歴史を遥かに溯れば、縄文時代、このあたりまで東京湾が入り込み、大宮台地の端である浦和はたくさんの入江が複雑な海岸線を描いていた。近くには貝塚もある。

商店街の左右は下り坂になっている。坂を下って低地になっているあたりは、僕がガキのころ沼地が多かった。だからこの商店街の通りは、はるか昔から沼地に挟まれた台地の尾根を走る道だったんじゃないかな。「前地」という地名もそういうことに関係していそうだけれど、よく分からない。この道をずっと行くと「大谷場」「大田窪」といった低地を意味する地名もある。

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商店街の脇道。

前地通り商店街がいちばん栄えたのは、おそらく高度成長以前。氷室とか自家製こんにゃくとか、僕らがガキのころには見かけたけど、その後はとんとお目にかからない。そういう店がちゃんと営業してるのが嬉しい。

浦和駅東口一帯は長いあいだ開発から取り残された住宅地で、都市計画上、旧浦和市の大きな「問題」だった。近くにスーパーもショッピング・センターもなく、だからこそ駅前といっていい立地なのに、こういう商店街が生き残ってこられたのだろう。夕方になると人通りが増え、近くに住む人が八百屋、肉屋、豆腐屋、パン屋と回って総菜を買ってゆく。


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去年、浦和駅東口が再開発されてパルコがオープンし、地下にはスーパーもできた。高度成長期~バブル期と変わらぬ再開発の手法で、反対側の西口再開発で駅前商店街がシャッター通りになってしまった過去を少しも学んでいない。本当は地元商店街をどう生かしてゆくかを考えた再開発であるべきなのに。スーパーは商店街から歩いて5分ほど。人の流れも変わってゆくのだろうか。

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April 16, 2009

『ザ・バンク』  グッゲンハイムを壊す

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『ザ・バンク(原題:The International)』のなかでトム・ティクヴァ監督がいちばん情熱を傾けたのは、映画全体の出来というより、ラスト近く、ニューヨークのグッゲンハイム美術館を舞台に展開される銃撃戦ではなかったか。

そう思いたくなるほどに、クライヴ・オーウェンが殺しても殺しても機関銃を手にしたギャングが現れ、無数の弾丸を発射して白い回廊に「弾痕アート」と呼びたくなるような痕をつけ、巨大な液晶パネルを粉々にし、吹きぬけの天井に吊るされたオブジェを落下させて美術館を破壊するシーンは長く、すさまじい。

これ、どうやって撮影したんだろう。外観はロケだけど、美術館内部の銃撃戦はまさかロケじゃないだろうな。『アイ・アム・レジェンド』でメトロポリタン美術館のデンドゥール神殿が登場したように、アメリカの美術館や公共施設が映画撮影に協力的といっても、いくらなんでもここまでは許さないだろう。そう思って探してみたら、ありました。

FIRSTSHOWING.NETにBhind-the Scenes of the Guggenheim Shootout in The Internationalという記事があり、そこにグッゲンハイムの巨大セットをつくる様子が6分半の動画で紹介されていた。面白いです。

グッゲンハイム美術館はよく知られているようにフランク・ロイド・ライト設計で、建物全体が巨大な白いカタツムリみたいな形をしている。中央は吹き抜けで丸天井はガラス張り。周囲に螺旋状の回廊が巡らされ、観客は回廊をめぐりながら各階の絵画を鑑賞するようになっている。

ルソー、シャガールなど近現代絵画の名品がたくさんあって、僕もニューヨーク滞在中に2回ほど訪れた。展示してある絵画だけでなく、建築の内部を歩くことそれ自体が視覚的にも体感としても「アート体験」になっている。銃撃戦の舞台として、そこに目をつけたのが憎い。

映画のアート・ディレクター、サラ・ホートンによると、この回廊での銃撃戦を撮影するセットをつくるには直径36メートルの巨大空間が必要だったという。そこで見つけたのが取り壊される直前の巨大な円形倉庫。動画を見ると、グッゲンハイムと同じように中央の丸天井がガラス張りになっている。この倉庫に10週間かけてグッゲンハイムの回廊のセットをつくったという。

動画では、コンピューターで設計図を解析しながらミニチュアをつくり、本物そっくりに仕上げていく様子が紹介されている。スピルバーグが『ターミナル』でケネディ空港のセットをまるごとつくったのには驚いたけど、これもそれに劣らず見事。しかもつくっておいてぶっ壊すのだから、監督もスタッフも痛快だったにちがいない。

トム・ティクヴァは『ラン・ローラ・ラン』にしても『パフューム』にしても、映画全体というより部分部分のシーンやショットが記憶に残る監督だった。『ラン・ローラ・ラン』はローラがひたすら走るシーンが印象的だったし、『パフューム』のラストシーンはどうにもいただけないけれど、18世紀パリの裏町の耽美的なショットには素敵なのがあった。

『ザ・バンク』でも見終わって印象に残るのはやはり部分で、とりわけグッゲンハイムの銃撃戦。もっとも、サスペンス映画として、それなりにうまくまとまっている。なによりベルリン、リヨン、ミラノ、ルクセンブルク、ニューヨーク、イスタンブールと、土地土地の空気を感じさせるロケを見ているだけで楽しい。

主人公は、武器取引やクーデタに暗躍する国際的なメガ・バンクの犯罪を暴こうとするインターポールの捜査官(クライヴ・オーウェン)とNY検事局の検事(ナオミ・ワッツ)で、2人とメガ・バンクの暗部を担う殺し屋たちの戦いを描く社会派サスペンス。

でも、正義派捜査官という柄じゃないクライヴ(なにせ『シン・シティ』『インサイド・マン』『シューテム・アップ』だものね)の起用といい、長い長い銃撃戦といい、彼が組織を無視して私的復讐に走る結末といい、社会派ふうなテーマはあくまで衣で、監督やクライヴが本当に楽しんだのはグッゲンハイムのシーンに代表される、アクション映画のぶっ放しぶっ壊す爽快感と見た。

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April 15, 2009

『唐川びとへ』 山里の風景

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島根県出雲市に唐川(からかわ)という小さな山里がある。谷々に点在する54戸、人口は179人。唐川茶と呼ばれるお茶の生産地として知られる。

ここには韓竈(からかま)、斐代(ひしろ)という「風土記」以来の古い神社があり、この神社を中心に祭りや神楽や獅子舞が昔と変わらず営まれている。そんな「唐川びと」の暮らしを写真と文章で追ったのが『唐川びとへ』(写真・白谷達也、文・古澤陽子、ラトルズ刊、2400円+税)だ。

何軒もが共同で作業する新茶つみ。新茶まつりでは、小学生が自分で摘んだお茶をたてるテントの喫茶店が出る。大祭の神楽では、大人にまじって小学生や女の子までが舞う。お祭りや神事に使う道具は竹や榊などすべてを集落のなかで調達する。和紙もここで漉いたもの。獅子舞の笛も近くの竹を切ってつくる。

そんなふうに家族ぐるみで手づくりの生活が営まれているさまを見ていると、ここでは資本主義以前、貨幣経済以前の暮らしが奇跡的に残っているように感じられる。

もちろん都会に出てゆく子供世代がおり、農業でどう食ってゆくのか、唐川も今この国が抱える問題と無縁でありうるはずもない。けれど、神楽や獅子舞といった神事が親から子へ継承され、集落をあげての楽しみになっていることを核にして、共同体が共同体としてきちんと働いているように見える。

写真家の白谷と記者の古澤は10年以上の歳月をかけて「唐川びと」を追ってきた。きっかけはグラフ雑誌の取材だったようだけど、途中からは私的な訪問になったという。「取材というよりも休息を求めて通っていただけかもしれない」と彼らは書いているが、そんな息の長いつきあいがあって初めてこうした丹念な仕事が可能になったのだろう。


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April 11, 2009

『映画は映画だ』のなかの「映画」

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そこここにキム・ギドクふうのショットが散りばめられているんだけど、映画の芯のところでは、狂おしい思念が遂には人間の被膜を破ってしまうキム・ギドクと対照的に、ひとひねりあるとはいえ男と男の友情物語になっているのが楽しい。監督のチャン・フンはキム・ギドクの助監督を務めていた。ギドクの製作・原案。

友情物語といっても、『映画は映画だ』が一味違うのはギドクふうに血と暴力が過剰なこともあるけど、タイトルからも分かるように映画を巡る映画になっているからだ。

映画を巡る映画はトリュフォー『アメリカの夜』を筆頭に、ひとつのジャンルをなしていると言ってもいいほどだけど、韓国映画では他にあったかな? 映画を巡る映画というのは、その国の、あるいはその映画監督の映画を巡る環境が「成熟」あるいは「煮詰まった」徴のようなものだから、ちょっとした感慨がある。その意味でも、これが処女作というチャン監督の映画でありつつも、同時にキム・ギドクの映画でもあるのだろう。

俳優のスタ(カン・ジファン)は、撮影中のアクション映画の相手役ヤクザに、偶然知り合った本物のヤクザ、ガンペ(ソ・ジソブ)を起用する。しかも殴り合いは本気でやるという条件で。

スタは本番撮影中に度々相手役を傷つけてしまう暴力的な映画スター。恋人との私生活はうまくいかず、マネジャーには裏切られ、俳優としての危機を抱えている。一方、ガンベはかつて映画俳優になることを夢見たヤクザ。映画に出ているあいだにも現実のヤクザ稼業が危機を迎え、裏切り者を殺すか否かの選択を迫られる。

映画のなかの現実と、映画のなかの映画。そのふたつの世界を往来する複雑な役どころを、カン・ジファン(韓流ドラマ『京城スキャンダル』もいい)は甘いマスクとシャープな肉体で、ソ・ジソブは棒のような無表情と虚無的な肉体で、とてもうまく演じている。ジファンは白、ジソブは黒と衣裳の色でキャラクターを表現しているのも、よくある手とはいえ効いている。

映画監督を演ずるコ・チャンソクが、2人の間に入ってコミカルな味を出しているのもいい。「映画とは俳優を信ずることだ」なんてセリフは、これもチャン監督のものというより、キム・ギドクのものだろう。

(以下、ネタバレです)ラスト近く、映画を撮り終えたガンベが急いで去ってゆく。追いかけるスタにガンベは、「俺は映画を撮りにいくんだ」「お前がカメラだ」と言う。

映画のなかの現実。映画のなかの映画。それだけでなく、『映画は映画だ』には、もう1本の映画があった。ガンベが映画にかかわったことで彼の中に生まれた映画への夢、ガンベの脳内で撮影されている映画だ。そこまで見て、ファースト・シーンの意味がようやく分かった。

ファースト・シーンは洋上に浮かぶ船。まるでギドクの『弓』みたいなショットだった。そこでガンベが裏切り者を殺そうとしている。でも「映画のなかの現実」では、ガンベは裏切り者を殺さず、外国に逃がしてやる。撮影中にガンベが人を殺してしまえば、「映画のなかの映画」は完成できないからだ。だから、「現実」と異なり裏切り者を殺そうとしている洋上の船のショットは、ガンベの脳内で思い描かれた映画の1シーンなのだった。

だからラストシーンは、そのガンベの夢の映画を完成させるためのラストシーンでもある。

キム・ギドクの映画をすごいとは思っても、うまいと思ったことはない。でもチャン監督は第1作だというのに、うまいんだなあ。アクション映画のリズムが快く、そこに血と暴力のギドクふう「やりすぎ」が散りばめられて、いかにも韓国映画らしい濃い味の作品になってる。

そういえば、ギドクが大好きな漢江にかかる橋の下のシーンも登場した。チャン監督は、ギドク映画の助監督としてこのあたりを走りまわっていたんだろうな。

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April 09, 2009

畑に種まき

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この1カ月ほど、フリーランスになって初めての仕事が入って忙しく、いつもは3月中にする家庭菜園の種まきが遅くなってしまった。3畳に満たない狭い畑で、途中休んだこともあったけど20年ほどやっている。

今年は去年豊作だったゴーヤを中心に、小ネギ、アスパラ菜、シソと、ミント、バジル、イタリアン・パセリのハーブ類。

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April 07, 2009

『おくりびと』の「成熟」

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なにが苦手って、「涙」を売り物にしている映画ほど苦手なものはない。「涙」「感動」「泣けます!」なんてキャッチがついてる映画は、まず素通りしてしまう。キャッチ必ずしも映画の中身をきちんと伝えてるわけじゃないから、見るべき映画を見逃してるかもしれないけど、「涙」の映画につきあう苦痛を考えれば、それもまあ仕方ない。

「泣けます!」映画が嫌いなのは、自分のなかにそれに反応してしまうタチがあることを自覚してるからだ。映画を見ていて、あ、ここで泣かせにかかるな、と思うと、カメラがアップになり、それらしいセリフが吐かれ、音楽が高鳴って涙腺を刺激する。そういうミエミエの作為に乗せられて流れてしまう涙の苦々しいこと。

僕にとってその種の映画の典型は松竹の松本清張原作もので、『鬼畜』とか『砂の器』とか『天城越え』には愛憎(どちらかというと憎)が入り混じってる。ハードなタッチが小気味いいモノクロの『張込み』は例外だったけど。

『おくりびと』も、そういう映画だと思って敬遠していた。でもアカデミー賞まで取ったとあっては、一応見ておかなきゃ、というわけで映画館に出かけた。

結果、見る前に思っていたほどミエミエの「涙」映画ではなかった。涙は流れるにしても作為的な嫌らしさはなく、カメラもセリフも編集や音楽も自然な流れのなかで笑い、泣けるようになっている。

でもその自然さが曲者で、映画を見終わって何も引っかかるものがない。生と死を扱ったテーマといい(僕は死を儀式化するのは嫌いだから共感はしないけど)、山崎努は言うに及ばず本木雅弘らの役者といい(ヒロスエの大根は困ったもんだけど)、庄内の風景が美しいカメラといい、チェロをフィーチャーした音楽といい、笑いと涙を織り交ぜた演出といい、すべてがまずまずよく出来てるんだけど、映画を見終わった後に何も残らないんだなあ。小学校の通信簿ふうに言えば、「大変よくできました」ってやつだ。

いや、もちろんこういう映画はあっていいんですけどね。メインストリームにこういう水準以上の映画がたくさんあってこそ、裾野のB級C級や作家的な映画が生きるわけだから。昨日もビデオで『人のセックスを笑うな』を見て、説明なし、長回し、正面カメラ据えの山下敦弘ふう(?)スタイルだけが目について退屈し、もっと普通の映画らしくやってよ、と思ってしまったばかりなのだが。

ただ滝田洋二郎と言えば『コミック雑誌なんかいらない!』とか『木村家の人びと』とか、デビュー当時はとんがってるのを売り物にしてきた監督だから、こんなふうに「成熟」してしまったのかと感慨があったわけだ。アカデミー賞監督になったんだから、もっともっと成熟して、誰もがひれ伏すような感動大作を撮ってほしい。

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April 06, 2009

浦和ご近所探索 満開の桜

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数日前に行ったときは3~4分咲きだった別所沼公園の老桜が一気に満開になった。

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下から見上げる花の天蓋が妖しい。この老木の桜をいつまで見られるか。

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April 01, 2009

墨堤の夜桜

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ある財団機関誌の編集をボランティアでやっている。その仲間たちと、隅田川の吾妻橋畔へ花見に出かけた。寒さはさほどではないけれど、ここもまだ3、4分の咲き具合。川には何艘もの屋形船が浮かんでいる。


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