『四川のうた』の語り
ジャ・ジャンクー監督は『一瞬の夢』や『プラットフォーム』以来、一貫して改革開放から急激な資本主義化に突きすすむ中国の同時代史を縦糸に、その奔流のなかで生きる男と女を横糸に映画をつくってきた。『四川のうた(原題:二十四城記)』もそれは変わらない。
ジャ監督のスタイルは長回しを好む寡黙な、中国語圏でいえば台湾のホウ・シャオシェンに近いものだけど、『四川のうた』はいつにも増して手法の実験が表に出ているような気がする。それは興味深いことでもあるけれど、一面、ジャ監督のある種の転換を表わしているのかもしれない。
前作『長江哀歌』は、三峡ダム建設で沈む運命にある小さな町へ、出稼ぎに出たまま音沙汰のない夫を探しにやってきた女と、別れた妻を探しにやってきた男との物語ともいえない物語だった。
ダム建設のため取り壊しの進む町にロケし、男と女が孤独な会話を交わす背後では、本当にビルが解体され崩れ落ちる瞬間が捉えられていた。その他の登場人物もすべてが役者ではなく、町の住民や労働者が出演している。いわばドキュメンタリーを部分的に取り入れたフィクションで、それがこの映画にリアルな緊迫感を与えもし、また作品の完成度に寄与していた。
そうした方法の実験が『四川のうた』ではさらに進められている。事前に何の情報もなくこの映画を見れば、ほとんどの人はこれはドキュメンタリーと思うだろう。
軍需製品を製造していた四川省成都の国営「420工場」が閉鎖され、再開発で「二十四城」というショッピング・センター、ホテル、マンションが建設されようとしている。ジャ・ジャンクー監督はそこにカメラを持ち込んで、閉鎖されつつある工場を撮影し、職を失おうとしている労働者8人にインタビューしている。
ただし8人の労働者のうち4人は役者で、彼らは架空の人物を演じている。50年前、瀋陽にあった「420工場」の移転に伴って成都に移動する途中で子どもと離れ離れになってしまった老女ダーリー。若いころは職場の花と噂されたが今は独身の中年女性であるミンホア。山口百恵と同じ髪型をした少女への若き日の失恋を語るウェイドン。金持ちに頼まれて香港へ買物にいって稼ぎ、工場で働く両親に新しいマンションを買ってあげたいと語る若い女性ナー。
彼らの人物像は「420工場」で働く多くの労働者(とその家族)の典型、あるいは象徴としてジャ・ジャンクーによってつくりあげられている。4人の役者と、彼ら以外の本当の労働者は、据えっぱなしのカメラの前で工場とともに生きた過去を振り返る。その語りを通して、中国の現代史が静かに浮かび上がってくる。
「420工場」が東北地方の瀋陽から内陸の成都に移った理由は語られていないけど、想像をたくましくすると、中ソ対立で軍事衝突を恐れた中国共産党が(対立はそれほどに激しかったらしい)軍事工場を安全のために内陸に移したのかもしれない(日本帝国に侵略された国民党政府が首都を南京から四川省重慶に移したように、峻険な四川は避難場所として最適だった)。
インタビューとインタビューの間には、正門に掲げられた大看板が再開発企業のものに架けかえられたり、巨大な工作機械が解体され運び出されたり、女子工員が最後のインターナショナルを歌ったりするショットが差し挟まれる。
『長江哀歌』が背景にドキュメンタリー的要素を織り込んだフィクションとするなら、『四川のうた』は映画の中心をほとんどドキュメンタリーにゆずり渡したフィクションと言っていいのか。ジャ監督はそれをフィクションとドキュメンタリーの「融合」と語っている。それによって「事実」ではなく「真実」に到達できると考えたんだろう。
8人にインタビューするときカメラは据えっぱなしで、微動だにしない。語る人物の背後で、わずかに雨の滴が窓枠に落ちたり、窓の外で洗濯物が風に揺れていることくらいしか画面に動きはない。
映画という言葉はmoveから来た「movie」だし、監督が現場で撮影開始を合図する言葉は「アクション!」だから、映画はもともと「動くもの」であり、見世物として発達した映画は「アクション」で観客の目を刺激し驚かせるものだった。その「アクション」を捨てて「語り」を中核に据えるのは、純粋なドキュメンタリーならともかくフィクションとしては大胆な冒険だよね。
思い出したのは、学生時代に見たベトナム反戦のドキュメンタリー『ベトナムから遠く離れて』。そのなかでJ・R・ゴダールは一切のアクションを捨て、据えっぱなしのカメラの前で自らカメラを覗きながら、現実の前で映画という虚構は空しいと語りつづけていた。何人もの監督のパートに分かれた『ベトナムから遠く離れて』で、それは映画の一部にすぎなかったけれど、『四川のうた』では動きを捨てた語りが映画の大半を占めている。
そんなふうに手法が表に出た映画は、実験としての意味はあっても、作品の完成度はいまいちであることが多い。『長江哀歌』と比べるとき、『四川のうた』も僕にはそのように感じられた。ジャ・ジャンクー監督が次の作品で、こういう手法の純化に進まないことを願う。とはいえ、いい映画ですけどね。
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