『チェンジリング』の光と影
最近のハリウッド映画の画面には影がなく、闇もない。例えば顔をアップにしても、影になる部分もかなり明るく顔の形や皮膚の色が描写されているし、光の当たらない空間も黒ではなく濃いグレイ程度にしか表現されていない。まんべんなく光が当たって、すべてがよく分かるといえばそうだけど、映像としての魅力に欠ける。
それに比べるとクリント・イーストウッド監督の映画はいつも光と影がくっきりしていて、影がきちんと黒い影になり、闇が漆黒の闇になってるのが嬉しいなあ。
アンジェリーナ・ジョリーの顔の片側だけに光が当たり、もう一方は闇に沈んでいる。そんなコントラストの強い、黒が画面の多くを占める映像が、アンジェリーナ演ずる女性、迫害にもめげず失踪した息子を探すクリスティン・コリンズの強い意志と信念を的確に表現してる。
そんなことを考えながらウィキペディア(英語版)の映画『チェンジリング(Changeling)』の項を読んでいたら、面白いことが書いてあった。この映画の撮影監督トム・スターンは、アンジェリーナを撮る際にフィル・ライティング(fill ligthing)を避けるようにした、というのだ。
フィル・ライティングってなんなの? せっかくの機会だから、映画のライティングをちょっと調べてみることにした。
映画撮影の基本ライティングは3つあって、キー・ライト、フィル・ライト、バック・ライトと呼ばれるらしい。
キー・ライトはいちばん基本になる照明で、アンジェリーナを撮るなら彼女の横方向から強い光を当てる。それによって彼女の顔の片側は明るく、反対側は影になって暗くなる。
フィル・ライトは「押さえ」とか「補助光源」と呼ばれ、キー・ライトに対して直角に、カメラの後ろ側からアンジェリーナに弱い光を当てる。それによって、キー・ライトでつくられた強いコントラストを弱め、シャドー部を明るくすることができる。
バック・ライトはアンジェリーナの背後から彼女に光を当てる。カメラに対して逆光になるわけで、これによって顔の輪郭をくっきりさせ、背景から彼女を浮き上がらせることができる。画面に艶っぽさを出すことにもなる。
もちろんこれは「キホンのキ」だから、現場ではさまざまなバリエーションで撮影されているだろう。でもトム・スターンがフィル・ライトをできるだけ使わなかったということは、補助光を使わずにキー・ライトとバック・ライト、横方向と背後からの光を主に彼女を撮影したわけで、光と影がくっきりした画面はそこから来ているんだな。レンブラントの肖像画で有名な「レンブラント・ライト」にも近いかもしれない。
フィル・ライトを使わなかったのは単にアンジェリーナを魅力的に撮るだけじゃなく、彼女が演ずるクリスティン・コリンズという女性の性格をどう画面に表現したらいいかを考えた結果の選択なんだろう。
トム・スターンは『ブラッド・ワーク』(2002)以来、イーストウッドの映画をずっと撮っている。『ミスティック・リバー』『ミリオンダラー・ベイビー』『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』と、いずれも深々とした闇が印象的な映画だった。
もともとイーストウッドの映画は『ダーティ・ハリー』(特に第1作)にしても『恐怖のメロディ』や『タイトロープ』にしても、夜のシーンが魅惑的だった。それらドン・シーゲル監督イーストウッド主演映画から、イーストウッド監督初期作品の撮影監督は「プリンス・オブ・ダークネス」と呼ばれたブルース・サーティーズだった。
トム・スターンは、そのブルース・サーティーズが撮影を担当した『センチメンタル・アドベンチャー』(1982)から照明技術スタッフとしてイーストウッド組に参加している。だから、この闇の深さはサーティーズ仕込みなんだろうな。
演出家としてのイーストウッドの師匠は、自身が主演する映画の監督として招いたドン・シーゲルと言われる。ドン・シーゲルは1950~60年代に色んな映画をつくった職人監督だけど、フィルム・ノワールと呼ばれるギャング映画を何本もつくっている。
イーストウッドはドン・シーゲルから、アクション映画の作法だけでなくフィルム・ノワールの遺伝子も受け継いだ。『ブラッド・ワーク』や『ミスティック・リバー』は現代的なフィルム・ノワールと言っていいよね。
フィルム・ノワールは、赤狩りを背景に暗い時代の暗い物語が多かっただけでなく、モノクロームの黒い画面が多いことからそう呼ばれるようになった。
そのもとをたどれば、1930年代にドイツ表現派の映画が光と影の強烈な画面をつくりだし(『カリガリ博士』とか)、その監督だったフリッツ・ラングはじめ、ビリー・ワイルダー、ロバート・シオドマクといったドイツ=オーストリア系の監督がナチスの迫害を逃れてアメリカに亡命し、ハリウッドでドイツ表現派の光と影を娯楽映画に応用してギャング映画をつくったことから来ている。
『チェンジリング』の光と影は、トム・スターン―ブルース・サーティーズ―ドン・シーゲル―フィルム・ノワール―ドイツ表現派と、たどっていくとそんなところまで行くのかもしれないなあ。
ところで、大好きなイーストウッドの映画としては今ひとつこの作品に乗れなかった。なぜかと考えると、まったく個人的な好みとして、「正しい人」の映画だったからかもしれない。
クリスティン・コリンズの一人息子が行方不明になり、5カ月後に発見される。でも、息子だと名乗る子供は彼女の息子ではない。ロス市警は彼女の思い違いだと言い張る。クリスティンがなおも市警に抗議すると、彼女は精神病棟に放り込まれてしまう。病棟で、医師の言うことをきかない患者は電気ショックにかけられる。
クリスティンは暴力と汚職がはびこるアメリカ社会に敢然と挑み、最後には公聴会を開かせてロス市警本部長を更迭させる。
そういう「正しい人」の強さを描いた映画として見れば、これはとてもよく出来ている。クリント・イーストウッドはもともと、西部劇という素朴な正義感を価値とする映画のスターだったから、それも彼の一面には違いない。途中で少年連続誘拐殺人事件がはさみこまれ、この部分はいかにもイーストウッド好みのノワールなサスペンスなんだけど、それも全体として「正しい人」の映画に奉仕するエピソードとして語られている。
でもそれよりは『ミスティック・リバー』や『パーフェク・ワールド』『許されざる者』『ペイル・ライダー』といった「正しくない」犯罪者や敗者、傷を負った者を主人公にした映画のほうが陰影濃くて好きなんだなあ。まったく個人的好みで、他人に同意を求めようとは思わないけど。
最後、息子の行方不明の真相が分かったことから、クリスティンは息子が生きているかもしれないと一抹の「希望」を持つ。そして彼女は死ぬまで「希望をもって」息子を何十年も探しつづけたと語られる。
でもこれは「希望」なんだろうか。見方を変えれば「妄執」あるいは「狂気」なんじゃないだろうか。
『プレッジ』でショーン・ペン監督は、引退した刑事ジャック・ニコルソンが、殺された少女の母親と約束を交わし、遂に姿を現わさない殺人鬼を一生かけて探し続けるさまを鬼気迫るショットで描いてみせた。僕は監督としても役者としてもショーン・ペンよりクリント・イーストウッドのほうが好きだけど、この一点についてはショーン・ペンに共感する。
Comments
ご無沙汰しています。
さすが雄さん、気になったらとことんまで追求するエントリが楽しいです^^
なんか、ワイダの地下水道だったか、スクリーンサイズについて追求していたエントリを思い出します。
ほんと独特のトーンを作りますね、イーストウッド。というかスターン、でしょうか。
デヴィッド・フィンチャー映画からダークサイドを取り除いたら、イーストウッドの光と影になるなあ、って印象もあります。(よくわかりませんね笑)
次回のグラン・トリノが楽しみです。
そういう光と影は楽しめなさそうだけど。
Posted by: kiku | March 18, 2009 11:28 PM
最近、普通に映画の感想を書くのに飽きていて、こういうふうに何か引っかかりがあるといいんですがね。昨日も『ダウト』を見てきたんですが、メリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンの演技合戦以外に見るところがない気がして、エントリをパスするかも、です。
kikuさんもお忙しそうですが、映画や音楽やサッカーのエントリ、楽しみにしています。
Posted by: 雄 | March 20, 2009 11:44 AM
こんにちは。お久しぶりです。
やっと観てきました。 が、なんとなく・・今ひとつしっくりこなかった理由が自分でも解らなかったんですが、雄さんの記事を拝読してハッキリ文章化されていてびっくり!これで納得出来たような気がします。正しい事を正すのは正しいことなんですが・・人間の感情ってフクザツなものですね。
Posted by: マダムS | March 24, 2009 08:32 AM
思い出すのはハリウッドのレッド・パージです。ドルトン・トランボら信念を通して追放されたハリウッド・テンの「正しい人々」より、仲間を密告した裏切り者エリア・カザンのほうが、その後、深く面白い映画をつくった(ジョセフ・ロージーを例外として)という背理を思うと、映画(アート)の不思議を感じてしまいます。
Posted by: 雄 | March 24, 2009 11:41 PM