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March 31, 2009

浦和ご近所探索 別所沼の桜

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浦和は全国でただ一カ所というサクラソウの自生地があるけれど、桜の名所は少ない。せいぜい別所沼と、そこから延びる遊歩道程度だろうか。どちらもここ20年ほどで植えられた若木で、あまり風情はない。この日も別所沼には何組もの花見客がいたけれど、僕はいつも素通りすることにしている。そこから200メートルほど離れた公園の片隅に2本だけ染井吉野の老木がある。

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僕はこの老木が好きで、桜の季節になるといつもこの桜を見に足を運ぶ。この日もたまに散歩して立ち寄る人がいる程度で、花見客はいない。もっとも今年は樹木保護のためか、花の下での飲み食いはできないようロープが張られてしまった。

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開花宣言のあと花冷えが続いているので、まだ3~4分咲きといったところ。

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苔むした幹に花が直に咲いている。

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March 29, 2009

『愛のむきだし』のやりすぎ

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満席の映画館なんて久しぶりだなあ。新宿のK's cinema。小さな映画館で、上映時間は237分。1日1回の上映。そういえ条件があるとはいえ、そして日本映画が好調だとはいえ、マイナーな映画にこれだけの客が詰めかけるとはちょっとした驚きだし嬉しくもある。

『愛のむきだし』は一言でいえば「ボーイ・ミーツ・ガール」の青春映画なんだけど、そこにあらゆる素材を放りこみ、ごった煮にして、商業エンタテインメント映画の常識を超えた奇っ怪な、それでいて痛快な作品に仕上がった。

まず上映時間237分というのが半端じゃない。昔のプログラム・ピクチャーなら90分が標準だったから、その3本分近い。途中で休憩が入る映画なんて、いつ以来だろう。『ディア・ハンター』だったか?

映画は「ボーイ・ミーツ・ガール」のその瞬間までがすごく長い。映画のなかほどで主人公ユウ(西島隆弘)がようやくヨーコ(満島ひかり)に出会うとき、彼は映画『さそり』の梶芽衣子ふうに女装しているんだけど、なぜ彼がそんな恰好をするようになったか、まずは彼の前史がたっぷり描かれる。

ユウの父親(渡部篤郎)は牧師。彼は妖艶なカオリ(渡辺真起子)に入れあげ、捨てられる。人格が変わった父はユウに懺悔を強要する。ユウは懺悔する罪をつくるために女性の股間盗撮にはげみ、やがてAV界のスターになる(ときどき、「運命の瞬間まであと○○日」と、マンガみたいに字幕がはさまれる)。盗撮仲間とのゲームに負け罰として女装しているとき、ユウはヨーコに出会う。そこまでで映画1本分。

ヨーコは素顔のユウではなく、女装した「さそり」に恋してしまう。ヨーコは実はカオリの連れ子で、父とカオリが縒りを戻し、ユウとヨーコは兄と妹として1軒の家で暮らす破目になる。そこからまたどたばたが繰り返され、ヨーコが「さそり」ではなくユウに恋するハッピーエンドまでが映画もう1本分。

さらに色んな要素がぶちこまれる。怪しげな新興宗教の女(安藤サクラ)が出没して、ヨーコたちを洗脳する。女とヨーコのレズビアンふうな関係。うさんくさいAV業界の面々(社会学者・宮代真司がカメオ出演)。ユウは盗撮の早業を決めると必ず見栄を切って静止し、その静止画面は映画というよりコミック表現そのもの。

時おりインサートされる、主人公たちが十字架を背負うシンボリックな映像。映画『さそり』と、それを下敷きにしたタランティーノ『キル・ビル』へのオマージュ。ともかくごった煮で、(上映時間も含め)やりすぎで、その過剰さが笑いと痛快の源泉だ。

何年か前、『ピンポン』を見た。人気のコミックを映画化したもので、原作の絵がなかなかうまく映画的表現におきかえられていた。『愛のむきだし』はコミックの原作があるわけではなく、監督・園子温(その・しおん。他の作品を見てないけど、名前からしてキリスト教にアンビバレントな感情を抱いてるんだろうか)のオリジナル脚本。

でも『ピンポン』がコミックが映画になったものとしたら、『愛のむきだし』は映画がコミックになったような作品だった。疾風怒濤の237分、そこが新しいし、面白かったな。


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東中野の夜

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総武線・東中野の東中野ギンザにある中華料理店・十番は、「町の正しいラーメン屋」。昔はどの町にも安くておいしいラーメン屋があったけど、最近はやけに凝ったラーメンやチェーン店に押されて少なくなってしまった。ここは今では数少ないそういう店の、僕の評価ではベスト1。

地元商店街にある大衆的な店で、店内にはカウンターとテーブルが4卓。メニューは麺類のほかにご飯類の焼飯、天津丼、一品でレバニラ炒めやマーボ豆腐に餃子などがある程度だ。ラーメンは東京風で、太めの麺にあっさりした醤油味。

もっともこの店にくる人たちは、たいてい「ラーメン餃子」ではなく「タンメン餃子」を注文する。ここのタンメンは、あっさりした透明スープといい、たっぷり野菜の具といい、塩味スープにぴったりの太めの麺といい、絶妙の取り合わせなんだなあ。

僕が過去に食べた最高のタンメンは、高校時代に授業を抜け出して食べにいった西日暮里駅近くのラーメン屋のものだけど、十番のタンメンは記憶の中で美化されているに違いないそれにも勝る。

野菜の多い餡の餃子がまた美味。ジャージャー麺も人気メニューだけど、たまに来るとどうしても「タンメン餃子」になってしまう。

店の人たちは気さくだし、値段もお手頃。残念なのは、東中野に来るのは映画館のポレポレ坐か、友人たち行きつけの酒場にたまに顔を出す程度なので、年に数回しか食べられないことだ。こういうラーメン屋がご近所にほしい。

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今日は友人の作曲家・淡海悟郎のミニ・酒場コンサートがあるので、ホーム沿いに坂道を降りて新宿寄りの駅前へ。酒場マ・ヤンは、まるで日活の映画にでも出てきそうなレトロな雰囲気の飲み屋街の一角にある。

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プログラムはシューマンの歌曲とミニオペラ「マジソン群の端(はじ)」。「マジソン群」は作曲した淡海悟郎がピアノを弾き、作詞した水野賢司(バリトン)とソプラノの室井綾子が歌う。笑いの絶えない小オペラ。

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コンサートを終えて、もう一軒。

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March 21, 2009

浦和ご近所探索 アウトドア&雑貨

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散歩していたら県庁近くで新しい店を見つけた。アウトドアと雑貨の店「Rimba」。

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デイパックやボトルやウェアなど、種類は多くないけど、商品の選びにこだわりが伝わってくる。

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オーナーの横浜さんは地元出身。神田のスポーツ店で働いた後、去年の夏、倉庫として使われていたこの家を改装してオープンしたそうだ。木造家屋の質感を生かした店舗が心地よい。

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前から買おうと思っていたアルミ・ボトルを購入。スペインのラーケン社製。暑くなるとペットボトルにお茶や水を詰めて持ち歩いていたけど、今年はこれをマイ・ボトルに。

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March 17, 2009

『ロルナの祈り』 半身に密着するカメラ

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ダルデンヌ兄弟の映画は見ていて息苦しい感じに襲われる(といっても、他に『ある子供』しか見てないけど)。

まず、テーマが深刻だ。バックに音楽が一切流れない。カメラがまるでドキュメンタリーを撮っているように素っ気なく、切り返しをはじめ劇映画の色んな手法を使わない。息苦しさの理由がそういうところから来ているのはもちろんだけど、『ロルナの祈り(Les Silence de Lorna)』を見ていて、ダルデンヌ兄弟のカメラについてもう少し具体的に理解できたことがある。

この映画では、人間の映っていない、例えば風景やモノのショットが皆無なんだな。あらゆるショットが人間を、しかも必ず半身から7分身で捉えている。もちろん登場人物が遠くから近づいてきたり、逆に遠ざかっていくときには全身が捉えられるけれど、ショットの核には必ず半身、あるいは7分身の人物がいる。ということは、その一方でクローズアップもない、ということでもある(技術的理由からだろう、タクシーの車中のショットが唯一の例外)。

この映画が何ミリのレンズで撮影されているのか知らないけれど、あらゆるショットが広角や望遠ではなく標準レンズの視覚(スチール・カメラなら50ミリの感じ)で撮影されている。引きのショットがないから、人物がどんな環境や風景のなかで動いているのかが必要最低限しか映っていない。

主人公たちが住んでいるアパートがどんな建物なのか。アパート周辺の街路はどういう雰囲気なのか。どんな景観をもった町に住んでいるのか。カメラはそういうことにほとんど興味を示さない。見る者は、人物の背後に映るわずかな情報からそのことを推測するしかない。映画の舞台がベルギーというだけで、都市の名前が特定されていないのは、そのことに係わっているだろう。

余分な情報を一切写さない、はっきりしたスタイルをもったカメラ・ワークが、映画の息苦しさを醸し出す上で大きな役割を果たしていることは言うまでもない。

それだけでなく、ダンデルヌ兄弟は語り口についても説明を極力排除している。観客は麻薬中毒のベルギー人クローディ(ジェレミー・レニエ)と偽装結婚して市民権を手に入れたロルナ(アルタ・ドブロシ)はどこの国から来たのだろうと疑問に思うけれど、彼女がアルバニア人だと分かるのは、もう映画も終わろうとするあたりだ。

そのことも、この映画のテーマがベルギーやアルバニアだけの特殊な問題ではなく、いまヨーロッパが抱えている共通の問題なのだというメッセージかもしれない。

そもそも、映画はクローディとロルナが偽装結婚していることを明かさず、ただ2人が同居しているぎくしゃくした日常を追うだけだから、観客はこの2人は何者で、どういう関係にあるのだろうと、映画が進むにつれ少しずつ理解していくしかない。謎や秘密が少しずつ明かされてゆくミステリーの手法と同じで、それが観客の興味と緊迫感を生むことになる。

(以下、ネタバレです)ロルナが麻薬中毒のクローディと偽装結婚したのは、彼女がベルギーの市民権を得たうえで「未亡人」になり、今度はロルナが外国移民と偽装結婚することで金を稼ごうとしているグループの一員であることが分かってくる。

そのあたりから、でも映画は大きく方向を変える。ロルナは中毒を治そうと苦悶しているクローディを殺したくない。人としての同情はやがて愛情に変わって、その結果、ロルナは彼の子供を妊娠する。しかしクローディはグループによって殺され(「殺す」描写やセリフはない)ロルナは予定通り「未亡人」になってしまうが、彼女は彼の子供を堕すことを拒む。

いや、実は妊娠したというのは彼女の思い込みで、医者は想像妊娠であることを告げるのだけれど、ロルナはそれを信じない。ロルナは、お腹のなかの(いると思いこんだ)子供と会話を交わしはじめる。その瞬間から、それまでリアリズムで通してきた映画が、なんというか、幻想味を帯びてくる。ファンタジーといっては言い過ぎかな。

「彼らに私たちを殺させない。ママが守るからね」
「あなたは生きて」

想像の子供と会話を交わしながら、グループから逃げたロルナは森のなかの小屋に身を隠す。この最後のシークエンスに来て、それまで人の半身に密着してきたカメラは初めて大きく引いて、画面いっぱいに森の木立を写しこむようになる。

森は暗く淋しげで、ロルナの未来を暗示しているようではあるけれど、ロルナの人としての真っ当な感受性に対するダルデンヌ兄弟の信頼を明らかにして映画は終わる。その信頼が幻想、あるいはファンタジーとしてしか表現できないのが、この映画の苦い味かもしれない。

ロルナを演ずるアルタ・ドブロシはコソボ出身の新人。ショートカットの髪とキュートな表情が素晴らしい。

ダルデンヌ兄弟の映画としては(多分)初めて、最後のほんの十数秒ではあるけれど、現実音ではない音楽が流れる。そのベートーベンのピアノ・ソナタ第32番が心に残る。

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March 15, 2009

浦和ご近所探索 日本茶喫茶

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浦和駅近くの旧中山道に、古い商家建築のまま営業しているお茶屋さん(といっても「待合」ではなく文字通り茶葉を売る店)がある。その敷地内の納屋が改造されて日本茶喫茶「楽風(らふ)」になっている。

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店舗の脇、かつては自宅の門だったらしいここが入口で、喫茶は奥の左手にある。

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店には靴を脱いで入る。自宅の庭がそのまま喫茶店の庭になっている。

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2階はギャラリーになっていて、写真展や陶磁器、草木染の展示会などイベントが開かれる。この日は、かつて一緒に仕事をしたこともある山本宗補さんの写真展「老いの風景 Part2」をやっていて(~3月17日)、久しぶりに顔を合わせた。納屋は明治24年建築だそうで、土壁を露出させた壁面が素敵だ。

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今日は、ほうじ茶で一服。器もいつも吟味されている。近くに延喜式社の調神社(つきのみや)があり、そこへ散歩に来たとき寄るのが楽しみ。もっとも、わが家も和風建築に和風の庭、日本茶も好きなので、気分が変わらないのが難点。


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March 04, 2009

『チェンジリング』の光と影

Changeling

最近のハリウッド映画の画面には影がなく、闇もない。例えば顔をアップにしても、影になる部分もかなり明るく顔の形や皮膚の色が描写されているし、光の当たらない空間も黒ではなく濃いグレイ程度にしか表現されていない。まんべんなく光が当たって、すべてがよく分かるといえばそうだけど、映像としての魅力に欠ける。

それに比べるとクリント・イーストウッド監督の映画はいつも光と影がくっきりしていて、影がきちんと黒い影になり、闇が漆黒の闇になってるのが嬉しいなあ。

アンジェリーナ・ジョリーの顔の片側だけに光が当たり、もう一方は闇に沈んでいる。そんなコントラストの強い、黒が画面の多くを占める映像が、アンジェリーナ演ずる女性、迫害にもめげず失踪した息子を探すクリスティン・コリンズの強い意志と信念を的確に表現してる。

そんなことを考えながらウィキペディア(英語版)の映画『チェンジリング(Changeling)』の項を読んでいたら、面白いことが書いてあった。この映画の撮影監督トム・スターンは、アンジェリーナを撮る際にフィル・ライティング(fill ligthing)を避けるようにした、というのだ。

フィル・ライティングってなんなの? せっかくの機会だから、映画のライティングをちょっと調べてみることにした。

映画撮影の基本ライティングは3つあって、キー・ライト、フィル・ライト、バック・ライトと呼ばれるらしい。

キー・ライトはいちばん基本になる照明で、アンジェリーナを撮るなら彼女の横方向から強い光を当てる。それによって彼女の顔の片側は明るく、反対側は影になって暗くなる。

フィル・ライトは「押さえ」とか「補助光源」と呼ばれ、キー・ライトに対して直角に、カメラの後ろ側からアンジェリーナに弱い光を当てる。それによって、キー・ライトでつくられた強いコントラストを弱め、シャドー部を明るくすることができる。

バック・ライトはアンジェリーナの背後から彼女に光を当てる。カメラに対して逆光になるわけで、これによって顔の輪郭をくっきりさせ、背景から彼女を浮き上がらせることができる。画面に艶っぽさを出すことにもなる。

もちろんこれは「キホンのキ」だから、現場ではさまざまなバリエーションで撮影されているだろう。でもトム・スターンがフィル・ライトをできるだけ使わなかったということは、補助光を使わずにキー・ライトとバック・ライト、横方向と背後からの光を主に彼女を撮影したわけで、光と影がくっきりした画面はそこから来ているんだな。レンブラントの肖像画で有名な「レンブラント・ライト」にも近いかもしれない。

フィル・ライトを使わなかったのは単にアンジェリーナを魅力的に撮るだけじゃなく、彼女が演ずるクリスティン・コリンズという女性の性格をどう画面に表現したらいいかを考えた結果の選択なんだろう。

トム・スターンは『ブラッド・ワーク』(2002)以来、イーストウッドの映画をずっと撮っている。『ミスティック・リバー』『ミリオンダラー・ベイビー』『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』と、いずれも深々とした闇が印象的な映画だった。

もともとイーストウッドの映画は『ダーティ・ハリー』(特に第1作)にしても『恐怖のメロディ』や『タイトロープ』にしても、夜のシーンが魅惑的だった。それらドン・シーゲル監督イーストウッド主演映画から、イーストウッド監督初期作品の撮影監督は「プリンス・オブ・ダークネス」と呼ばれたブルース・サーティーズだった。

トム・スターンは、そのブルース・サーティーズが撮影を担当した『センチメンタル・アドベンチャー』(1982)から照明技術スタッフとしてイーストウッド組に参加している。だから、この闇の深さはサーティーズ仕込みなんだろうな。

演出家としてのイーストウッドの師匠は、自身が主演する映画の監督として招いたドン・シーゲルと言われる。ドン・シーゲルは1950~60年代に色んな映画をつくった職人監督だけど、フィルム・ノワールと呼ばれるギャング映画を何本もつくっている。

イーストウッドはドン・シーゲルから、アクション映画の作法だけでなくフィルム・ノワールの遺伝子も受け継いだ。『ブラッド・ワーク』や『ミスティック・リバー』は現代的なフィルム・ノワールと言っていいよね。

フィルム・ノワールは、赤狩りを背景に暗い時代の暗い物語が多かっただけでなく、モノクロームの黒い画面が多いことからそう呼ばれるようになった。

そのもとをたどれば、1930年代にドイツ表現派の映画が光と影の強烈な画面をつくりだし(『カリガリ博士』とか)、その監督だったフリッツ・ラングはじめ、ビリー・ワイルダー、ロバート・シオドマクといったドイツ=オーストリア系の監督がナチスの迫害を逃れてアメリカに亡命し、ハリウッドでドイツ表現派の光と影を娯楽映画に応用してギャング映画をつくったことから来ている。

『チェンジリング』の光と影は、トム・スターン―ブルース・サーティーズ―ドン・シーゲル―フィルム・ノワール―ドイツ表現派と、たどっていくとそんなところまで行くのかもしれないなあ。

ところで、大好きなイーストウッドの映画としては今ひとつこの作品に乗れなかった。なぜかと考えると、まったく個人的な好みとして、「正しい人」の映画だったからかもしれない。

クリスティン・コリンズの一人息子が行方不明になり、5カ月後に発見される。でも、息子だと名乗る子供は彼女の息子ではない。ロス市警は彼女の思い違いだと言い張る。クリスティンがなおも市警に抗議すると、彼女は精神病棟に放り込まれてしまう。病棟で、医師の言うことをきかない患者は電気ショックにかけられる。

クリスティンは暴力と汚職がはびこるアメリカ社会に敢然と挑み、最後には公聴会を開かせてロス市警本部長を更迭させる。

そういう「正しい人」の強さを描いた映画として見れば、これはとてもよく出来ている。クリント・イーストウッドはもともと、西部劇という素朴な正義感を価値とする映画のスターだったから、それも彼の一面には違いない。途中で少年連続誘拐殺人事件がはさみこまれ、この部分はいかにもイーストウッド好みのノワールなサスペンスなんだけど、それも全体として「正しい人」の映画に奉仕するエピソードとして語られている。

でもそれよりは『ミスティック・リバー』や『パーフェク・ワールド』『許されざる者』『ペイル・ライダー』といった「正しくない」犯罪者や敗者、傷を負った者を主人公にした映画のほうが陰影濃くて好きなんだなあ。まったく個人的好みで、他人に同意を求めようとは思わないけど。

最後、息子の行方不明の真相が分かったことから、クリスティンは息子が生きているかもしれないと一抹の「希望」を持つ。そして彼女は死ぬまで「希望をもって」息子を何十年も探しつづけたと語られる。

でもこれは「希望」なんだろうか。見方を変えれば「妄執」あるいは「狂気」なんじゃないだろうか。

『プレッジ』でショーン・ペン監督は、引退した刑事ジャック・ニコルソンが、殺された少女の母親と約束を交わし、遂に姿を現わさない殺人鬼を一生かけて探し続けるさまを鬼気迫るショットで描いてみせた。僕は監督としても役者としてもショーン・ペンよりクリント・イーストウッドのほうが好きだけど、この一点についてはショーン・ペンに共感する。


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