桐野夏生浸り・4
桐野夏生の書くものは今ではミステリーでない小説のほうが多いけれど、ミステリーで賞を受け、ベストセラーになったから、ミステリー作家という印象が強い。実際、『out』と『柔らかな頬』は日本のミステリーからベストを選べば共に入ってきそうな傑作だ。でもそれ以前のハードボイルド小説を別にすれば、ミステリーらしいミステリーはこの2作しか書いてない。
そして改めて考えてみると、2作ともハラハラどきどきの連続であるにもかかわらず、普通に言われるミステリーの約束事というか、ルールにのっとっていないことに気づく。
ミステリーには定型があって、まず冒頭で何らかの事件が起こり、何らかの謎が提示され、最後にその謎が解かれ、犯人が名指されたり、何らかの解決を見ることによって終わる。その過程が読者を面白がらせ、カタルシスをもたらす。
ところが『out』も『柔らかな頬』も、事件は最後まで解決しない。
『柔らかな頬』は、北海道の別荘地で幼女が行方不明になることから始まる。幼女の家族と、もうひとつの家族がからみあってストーリーが展開し、読者は物語を追いながら誰が幼女をなぜ、どのように誘拐したのか、あれこれ想像をめぐらすことになる。
ところが最後の「謎とき」に当たる部分に来て、いきなり行方不明の幼女の告白が出てくる。そしてそれを読んでも、誰が幼女を誘拐した犯人なのかはっきりしない。事件の真相がはっきりしないまま、小説は終わる。そして読後感は、犯人が分からないままのほうが、いや分からないからこそ登場人物それぞれの切なさが心に残る。
『out』も同じようなものだ。主婦の弥生が夫を殺してしまい、仲間の雅子たちが協力して死体をばらばらにして処分する。読者は雅子たちの行動を追いながら、このバラバラ殺人事件が、どこで破たんするのかをはらはらしながら見守ることになる。
ところが前に書いたように、小説は途中から大きく方向転換してしまう。殺人犯の弥生は、犯人と間違えられた男に保険金を盗られるものの警察からは見逃されたままだし、死体損壊・遺棄犯の雅子はいろいろあった末に物語の最後で颯爽と旅立つ。つまり社会的に見れば、事件は解決しないまま小説は終わる。
しかも『out』も『柔らかな頬』も複数の人物の視点が登場し、その視点ごとに事実が異なっているために、読者は本当のところ何が起こったのかが分からない。事実が確定されないために、「真相」とか「真実」というものが意味をなさない(この手法が全編に効果的に用いられたのが『グロテスク』)。
2作ともミステリーの常套的なルールに従っていないわけで、これはむろん桐野が意図したことだ。
『out』『柔らかな頬』以前に桐野が書いたハードボイルド小説でも、ハードボイルドの「お約束」が彼女には不自由で、拘束されるものと感じられたに違いない、と書いたけれど、もっと広いミステリーの分野に進出しても事態は同じだったらしい。桐野がミステリーを2作しか書かず、しかもそれがミステリーの定型的な「お約束」を逸脱したものだったことが、それを示していないだろうか。
もうひとつ、彼女の小説を読んで感ずることがある。
ミステリーは、読者をハラハラどきどきさせることで満足感を与えるエンタテインメントだ。では僕らは何をめぐってハラハラどきどきするのか。読者がミステリーを読んで期待するのは、例えばある犯罪が主題とされたとき、その犯罪がどのような形で行われ、犯人が誰で、結局はそれがどのように露見あるいは解決するのか、ということだろう。
読者がなぜハラハラどきどきするのか。僕の考えでは、読者はストーリーを追いながら、それと明示されているわけではないが物語の奥に引かれた何らかのラインを巡って心が動揺するからだと思う。そのラインは、いろいろな形でありうる。例えば男と女の愛と憎しみのラインとか、社会的役割の責任と逸脱をめぐるラインとか。
でもミステリーでいちばん使われるのは、法の遵守と逸脱をめぐるラインじゃないだろうか。典型的なのは刑事を主役や重要な脇役に据えた小説で、何らかの事件が起こり、刑事がそれを調べるなかで犯人を見つけ、謎を解く。
読者はその過程でハラハラどきどきするわけだけど、そのときハラハラどきどきを生じさせるラインは何かといえば、読者の無意識に内面化された法というものだと思う。感情移入した主人公が法を犯しているなら、読者はそれがいつ露見するのかとはらはらする。そのとき、読者はそう思っていなくとも、意識下では法という規範が働いている。
ところが桐野夏生の小説では、ハラハラどきどきを生じさせるために読者の意識下の法を使うということをしない。『out』で主人公の雅子が逃げるのは、法の執行者である警察からではなく、彼女らに復讐しようとする殺人者からだった。
『柔らかな頬』でも、物語のハラハラどきどきは、行方不明になった幼女の母親と、彼女と不倫の関係にある男とその妻との心理的な葛藤から来ていた。小説の後半で元刑事が母親の娘探しに協力するかたちで登場するけれど、元刑事は病気で余命を宣告された身であり、もはや法を執行することに何の情熱も持っていない。
だいたい桐野夏生の小説は、ハードボイルド、ミステリー、あるいは「東電OL殺人事件」や少女誘拐・長期監禁事件といった犯罪を素材にした小説でも、警察官が主要な登場人物として描かれることがほとんどない。どんな事件や犯罪も、法の執行者がそれを調べ暴くという展開にはならず、法というものをほとんど意識させずに物語られてゆく。
そういえば、正月の新聞で桐野と分子生物学者の福岡伸一が対談していたとき、彼女はこんなことを言っていた。
「法律とは感情を整理する道具でありシステムだそうですね。でも……法律の網目から落ちていくものをどうするか、どう折り合いをつけるかというのが、小説の本質かもしれません。……是非を問うのではなく、こぼれ落ちる側の世界をただ提示していくことが面白いし、大事だと思います」(朝日新聞、1月5日付)
「是非を問うのではなく、こぼれ落ちる側の世界をただ提示していく」。そう言う彼女の立ち姿は明快で、颯爽としている。
桐野夏生の小説はハードボイルドの「お約束」を逸脱し、ミステリーの「お約束」を逸脱し、作者や読者の心のうちにある法という「お約束」も逸脱して物語られてゆく。彼女のジャンルからジャンルへの移り行きは、そういう逸脱の繰り返し、束縛からの逃走として読めるのだと思う。
そしてそういう桐野のありようは、当然のことながら彼女が描く小説の主人公たちにも投影されている。と、ここまできて、彼女の小説が不安や嫉妬や憎しみに満ちているのになぜ読後に解放感があるのか、がようやく分かってくるような気がする。
(付記:このエントリー、『out』も『柔らかな頬』も手元になく、1カ月以上前に読んだ記憶で書いたので、間違いがあればご容赦を)
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