浦和ご近所探索 新しい風景
いま、いちばん浦和らしい風景ってなんだろう、と考えてみた。
浦和は戦前から東京へ勤める中産階級の住宅地として発展してきた。もともと中山道の宿場町だったから、明治に入って県庁が置かれたものの産業らしい産業もなく、旧制浦和高校を中心とした文教都市というイメージが強かった(最近は浦和レッズの町だけど)。
戦後もその構造は変わることなく、現在まで続いている。
かつて公教育のレベルが今より高かった時代、旧浦和市民の教育のエリート・コースは高砂小学校―岸中学校―浦和高校(女の子なら浦和第一女子高)などと言われた。その高砂や岸町はかつての浦和宿の中心で、今も延喜式の神社があり、旧中山道沿いは商店街として、一歩裏に入れば閑静な住宅地として昭和のたたずまいを残している。
そんな住宅地に、高層マンションが続々と建設されている。その風景こそ、今いちばん浦和らしいのではないかな?
岸町周辺を歩いて驚いた。このあたりは散歩ルートにしていたからよく歩いたけど、ニューヨークから帰って訪れるのは初めて。
数年前から、静かな住宅地のなかに高層マンションが建ちはじめたなと思っていたけれど、今では場所によっては空き地と高層マンションだらけ、そのなかに古い住宅がぽつんぽつんと残っている風景に変貌しているではないか。とても繁華街からわずかに裏に入った場所、浦和駅から歩いて10分もかからない場所とは思えない。まるで新開地じゃないか。
想像できる理由は2つ。ひとつは、駅からも旧中山道の繁華街からも近いので、都市計画上は「商業地域」に指定されているに違いないことだ。商業地域だと建築物の高さ制限や容積率がゆるいので高層マンションが建てられる。
もうひとつは、文教都市の神話が実態はともかくまだ生きているらしいこと。もともと旧浦和市は全域にわたって学齢児童を抱えた家族の流入が多いけど、高砂とか岸町の住民になればかつての「エリート・コース」に通うことができる(友人の話では、「もう普通の学校だよ」だけど)。新聞に折り込まれるマンション広告のチラシにも、今では規制されているかもしれないが、かつては「○○小学学区内」「○〇中学学区内」などとうたったものがあった。
この地域の、戦前や戦後間もなく建てられた木造住宅は耐用年数ぎりぎりだ。和風住宅に2世帯は住みにくいから、子供世代は出ていって年寄りだけが残る。そこが代替わりする。狙われる条件はそろっている。
この風景はいつか見たことがある。バブル全盛期に地上げされた東京都心の住宅地、神田とか愛宕あたりの風景によく似ている。
今後、「100年に一度」の世界的不況のなかで高層マンションの建築がストップし、無残な空き地が残ることになるのか。それとも、条件の良いこのあたりは不況と関係なく建設が進むのか。現在も工事中のマンションが2棟あり、建築予告が張られた空き地もある。
空家らしい家の屋根で日向ぼっこする猫。
こんな張り紙があったから、なんとかしようという動きも出ているようだ。
僕は都市計画上では「住宅地域」に指定された場所に住んでいる。だから高層マンションは建てられないのだが、近所には小規模のマンションがじわじわ増えている。
20年ほど前、隣にワンルーム・マンションが建設されることになり、近所の人たちと裁判に訴えて争ったことがある。そのときの経験では、地裁の裁判官は、再開発して新しい住宅を供給することがなぜ悪いの、という態度だった。結局は条件闘争になり双方が譲って和解したけれど、現行法に違反していない以上、町と、それに伴ってコミュニティーが壊れていくのを止めるのはなかなかむずかしい。
そもそもさいたま市も、商業地域の「土地の高度利用」を推進しているらしい。だからこの風景は行政の意思でもあるわけだ。
住民全員が賛成すれば、自分たちで高さなどを制限できる「住民協定」を結ぶこともできるけれど、「全員」というのがこれまた難題で。
というわけで、これが今いちばん新しい岸町の風景。まだ町の一角だけれど、いずれこのあたり一帯がこういう高層マンション街になるのか。
地域も建物も時代とともに変わっていくのは自然なことだ。でも、こんなふうに土地の記憶と風景が根こそぎになるのを見るのは悲しいし、腹立たしい。
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