February 25, 2009
February 19, 2009
浅草から上野へ
浅草へ来た目的はここ。梅むらの豆かんを買いに。豆かんは色んな店で売ってるけど、ここに敵う味はない。えんどう豆は柔らかく、寒天は瑞々しく、黒蜜は上品な甘さ。かの色川武大が愛したのもうなずける。
天気が良かったので、上野までぶらぶら歩くことにした。
昔、三味線の店「ばち孝」、いまは不動産の店。
この廃ビル、もとはどんな姿をしていたんだろう。
東本願寺。7年前に亡くなった友人の墓に手を合わせる。
彫刻刀や特殊刃物の店、光雲。銅ぶきの外壁が緑青を吹いて美しい。
光雲のウインドー。
近くにはこんな現代的な建物もある。元禄時代創業の襖・障子・屏風の店、松屋の店舗と、上階は賃貸しマンション。2008年度グッド・デザイン賞を受けた建物だ。
寄席発祥の地、下谷神社。
もと雀荘、その前はなんだったんだろう? 正面の浮彫がしゃれている。
上野駅近く。まだこんな路地がある。
February 17, 2009
February 15, 2009
『悲夢』の設定
キム・ギドクを見ていて置いてけ堀を食らった気分になったのは、たぶん初めてじゃないかな。うーむ、ちょっとしたショック。なにしろキム・ギドクは、このところいちばん気になってる監督のひとりだから。
なぜ映画に入り込めなかったのか。映画のせいなのか、こちらの体調のせいなのか。よく分からない(ジジイになると、ちょっと寝不足だとどんな面白い映画でも寝てしまうことがあり、自分の観賞力にかつての自信がないのです)。
最初のささやかな違和感は、この映画を見る誰もが感ずるものとおんなじだった。オダギリ ジョーが日本語をしゃべり、イ・ナヨンはじめ韓国の役者が韓国語をしゃべる。そしてそのまま意思が通じ合っている。
いかにもキム・ギドクがやりそうなことだなあ。まあ、そのうち気にならなくなるだろうと思っていたら、その通り、やがて不自然さを感じなくなったから、そのことが映画に入りこめなかった原因じゃない。
ただ、ちょっと気になったことがあった。オダギリ ジョーの演技(特にセリフ回し)が、計算違いをしてるんじゃないか、ってこと。オダギリ ジョーは映画によって演技やセリフ回しを自在に変える役者だけど、この映画の口跡のはっきりしすぎたセリフ回しがイ・ナヨンと噛み合っていないような気がした。オダギリ ジョーとイ・ナヨンの微妙な感情の移り行きがうまく伝わってこないような気がした。
そんなことに気を取られているうちに、キム・ギドクの映画がキム・ギドクになっていく瞬間を逃してしまったらしい。キム・ギドクの映画は最初は普通の顔をしているのに、たいていある時点を境に映画の常識的な約束を超えて過激になってゆく。
『悲夢』でいうなら、ジン(オダギリ ジョー)とラン(イ・ナヨン)が惹かれあう瞬間。それを境に、2人の愛は自傷行為を繰り返し、自滅にまで突き進む激しいものになってゆく。
ジンとランは夢を共有する、ひとつの人格の二つの分身として設定されている。ジンが夢のなかで、別れて、忘れられない元恋人の女性を抱く。ジンがその夢を見ているとき、夢遊病のランは、別れ、憎んでさえいる元恋人の男のところへ無意識のうちに出かけて行って抱かれる。
ランは、ジンが夢を見ることを責める。ジンは、ランが交通事故を起こした無意識の行動は自分の責任だと何度も繰り返すから、初めは愛情というより人間としての自責の念からランに接していたように見える。でも二人が会うことを繰り返すうちに、いつしかジンのランへの思いは愛情に変わる。
映画を見ていて、そこへ自分の気持ちを乗せ損ねた。だからジンへの感情移入がうまくいかず、彼の自傷行為をやや客観的にながめることになった。
ジンが夢を見ないよう瞳を開いたままテープで止め、必死に睡魔と闘う。彫刻刀で額を傷つけ、金槌で足をたたきつぶし、その痛みで眠らないように自分をしむける。それこそキム・ギドクがキム・ギドクである描写だけど、その痛切さ哀切さが、いつもの彼の映画のようには感じられなかったんだなあ。
とはいえ、キム・ギドクが見る者の身体感覚に訴えるすごさは相変わらずだ。ジンになりきれていなくても、ジンが金槌を自分の足に振り下ろすとき、こちらの五感がずきんずきんと刺激される。
一緒に見にいった映画好きのKさんが、「キム・ギドクはあんまり設定に凝らないのに、今回は設定が凝ってる」と言っていた。確かに、キム・ギドクのキム・ギドクらしさは例えば『21グラム』や『クラッシュ』みたいな設定の面白さではなく、一見普通の顔をした風俗映画みたいな設定がねじれながら加速するそのねじれ具合の激しさによるものだと思う(『悪い男』とか『青い門』とか『魚と寝る女』とか)。
そこからすると、『悲夢』はひとつの人格の2つの分身の物語という設定が、いつもよりトリッキーであるような気もする。あるいはオダギリ ジョーの計算違いもあるのか。それとも、こちらの体調が悪かったのか。いずれにしろ、もう一度見直すまで判断は保留ということにしておきたい。
February 12, 2009
『天使の眼 野獣の街』 空からの視線
ジョニー・トー監督のファンならおなじみ「銀河映像」のオープニング・ロゴが流れるとき、映画はもう始まっている。香港の雑踏の音が耳に突きささるように入ってくる。
オープニング・ロゴが終わると、画面は香港名物の2階建て路面電車。ごった返した車内、人が乗り降りするなかで主役3人が手際よく紹介される。どちらが追うほうなのか、追われるほうなのか。判然としないながらも追跡劇が進行しているらしい。見る者はいきなりそのドラマに引きずり込まれ、人と原色のあふれる香港の真ん中に放り出される。
『天使の眼 野獣の街(原題:跟蹤)』は、『PTU』『エレクション』『エグザイル/絆』などジョニー・トー映画の脚本を手がけてきたヤウ・ナイホイの監督デビュー作。なんとも小気味よいエンタテインメントに仕上がってるね。
冒頭で紹介されるのは、新人の女性刑事ホー(ケイト・ツィ)、ホーの上司で監視・追跡専門の香港警察刑事情報課監視班のウォン(サイモン・ヤム)、宝石強盗団のリーダーであるチャン(レオン・カーファイ)。
香港島の中環を舞台に、宝石店襲撃を重ねる強盗団。それを追う監視班。その息詰まる攻防は、ちらしのキャッチにある「ハイテンション&ノンストップ」に偽りない。
この映画の英語タイトルは「Eye in The Sky」という。中国語原題は「跟」も「蹤」も「跡をつける」意だから、英語タイトルがどこから来たのか不明だけど、意味するところは映画を見ていれば分かる。上空からの視線で捉えられたショットが折々に登場するからだ。
上空からのショットがたいてい一つのシークエンスの終りに登場し、しかも走査線が徐々に濃くなるような人工的映像となって溶暗する。まるで誰かが上空に仕掛けたカメラの映像を覗いてるみたいだ(もっとも、それ以上の意味はない)。
それは確かに「空からの眼」なのだが、もっと等身大の距離で見上げる・見下ろすショットも多い。香港島は背後にビクトリア・ピークを控えた坂と階段の街だから、追う者、追われる者が坂の下から見上げるショット、逆に坂上やビルの上から見下ろすショットがしばしば登場する。
それだけでなく、追う者が右を見ればカメラも右に振れ、追われるものが左を見ればカメラも左に振れる。そんな上下左右のカメラの視線が快いリズムをつくりだす。動きの多い、短いショットを積み重ね、街の音と音楽(鳴りっぱなしで最初気になったけど、そのうち快くなった)がかぶさり、それらすべてが渾然一体となってこの映画の熱気とテンポを生んでいるね。
ジョニー・トー監督の映画は時に作家性を紛れ込ませるけれど、この映画は作家性などどこ吹く風とばかりにエンタテインメントに徹しているのが潔い。香港映画らしく情感たっぷりなのも嬉しい。
主役の3人、みな魅力的だけど、トー作品の常連ラム・シューが強盗団のメンバーとして相変わらずいい味出してる。特に警察に襲われるシーン、インスタントラーメンの麺を口にしたまま何の抵抗もせず手を挙げ、次のショットで手を挙げたまま麺を飲み込んでるのには笑ってしまった。
February 10, 2009
浦和ご近所探索 新しい風景
いま、いちばん浦和らしい風景ってなんだろう、と考えてみた。
浦和は戦前から東京へ勤める中産階級の住宅地として発展してきた。もともと中山道の宿場町だったから、明治に入って県庁が置かれたものの産業らしい産業もなく、旧制浦和高校を中心とした文教都市というイメージが強かった(最近は浦和レッズの町だけど)。
戦後もその構造は変わることなく、現在まで続いている。
かつて公教育のレベルが今より高かった時代、旧浦和市民の教育のエリート・コースは高砂小学校―岸中学校―浦和高校(女の子なら浦和第一女子高)などと言われた。その高砂や岸町はかつての浦和宿の中心で、今も延喜式の神社があり、旧中山道沿いは商店街として、一歩裏に入れば閑静な住宅地として昭和のたたずまいを残している。
そんな住宅地に、高層マンションが続々と建設されている。その風景こそ、今いちばん浦和らしいのではないかな?
岸町周辺を歩いて驚いた。このあたりは散歩ルートにしていたからよく歩いたけど、ニューヨークから帰って訪れるのは初めて。
数年前から、静かな住宅地のなかに高層マンションが建ちはじめたなと思っていたけれど、今では場所によっては空き地と高層マンションだらけ、そのなかに古い住宅がぽつんぽつんと残っている風景に変貌しているではないか。とても繁華街からわずかに裏に入った場所、浦和駅から歩いて10分もかからない場所とは思えない。まるで新開地じゃないか。
想像できる理由は2つ。ひとつは、駅からも旧中山道の繁華街からも近いので、都市計画上は「商業地域」に指定されているに違いないことだ。商業地域だと建築物の高さ制限や容積率がゆるいので高層マンションが建てられる。
もうひとつは、文教都市の神話が実態はともかくまだ生きているらしいこと。もともと旧浦和市は全域にわたって学齢児童を抱えた家族の流入が多いけど、高砂とか岸町の住民になればかつての「エリート・コース」に通うことができる(友人の話では、「もう普通の学校だよ」だけど)。新聞に折り込まれるマンション広告のチラシにも、今では規制されているかもしれないが、かつては「○○小学学区内」「○〇中学学区内」などとうたったものがあった。
この地域の、戦前や戦後間もなく建てられた木造住宅は耐用年数ぎりぎりだ。和風住宅に2世帯は住みにくいから、子供世代は出ていって年寄りだけが残る。そこが代替わりする。狙われる条件はそろっている。
この風景はいつか見たことがある。バブル全盛期に地上げされた東京都心の住宅地、神田とか愛宕あたりの風景によく似ている。
今後、「100年に一度」の世界的不況のなかで高層マンションの建築がストップし、無残な空き地が残ることになるのか。それとも、条件の良いこのあたりは不況と関係なく建設が進むのか。現在も工事中のマンションが2棟あり、建築予告が張られた空き地もある。
空家らしい家の屋根で日向ぼっこする猫。
こんな張り紙があったから、なんとかしようという動きも出ているようだ。
僕は都市計画上では「住宅地域」に指定された場所に住んでいる。だから高層マンションは建てられないのだが、近所には小規模のマンションがじわじわ増えている。
20年ほど前、隣にワンルーム・マンションが建設されることになり、近所の人たちと裁判に訴えて争ったことがある。そのときの経験では、地裁の裁判官は、再開発して新しい住宅を供給することがなぜ悪いの、という態度だった。結局は条件闘争になり双方が譲って和解したけれど、現行法に違反していない以上、町と、それに伴ってコミュニティーが壊れていくのを止めるのはなかなかむずかしい。
そもそもさいたま市も、商業地域の「土地の高度利用」を推進しているらしい。だからこの風景は行政の意思でもあるわけだ。
住民全員が賛成すれば、自分たちで高さなどを制限できる「住民協定」を結ぶこともできるけれど、「全員」というのがこれまた難題で。
というわけで、これが今いちばん新しい岸町の風景。まだ町の一角だけれど、いずれこのあたり一帯がこういう高層マンション街になるのか。
地域も建物も時代とともに変わっていくのは自然なことだ。でも、こんなふうに土地の記憶と風景が根こそぎになるのを見るのは悲しいし、腹立たしい。
February 08, 2009
『チェ 39歳 別れの手紙』のビスタ・サイズ
あれれ、この画面はビスタ・サイズじゃないか。確かパート1の『28歳の革命』はシネマスコープだったよな。映画が始まってまず驚いたのはそのことだった。なぜ?
グーグルで探すと、スティーブン・ソダーバーグ監督のインタビューが見つかった。そのなかでソダーバーグはこんなことを言っている。
「(画面サイズの違いは)チェの声の質の違いによる。第1部はハリウッド的で、革命の大勝利を俯瞰的に描いている。第2部ではチェの内なる声に迫った。それにはハンディカメラがいい」
なるほどね。前に書いた『28歳の革命』のエントリーで、「まるでメキシコを舞台にした50~60年代の西部劇でも見ているような気分になる」と記した。パート1も普通のハリウッド映画に比べると客観的な、ドラマチックとは程遠い演出がされていたけれど、列車襲撃・転覆とかサンタクララ市街戦とかのアクション・シーンがあった。
シネマスコープ(縦横比1:2.35)は1950年代に20世紀FOXが開発したもので、60年代には公開される映画の多くがシネマスコープ(か類似のワイド画面)だったから、ソダーバーグがシネスコ・サイズを選んだのは、今では懐かしい「ハリウッド・アクション」の映画的記憶を計算してのことだったかもしれない。
それにしても、なぜビスタ・サイズなのか。ビスタビジョンはやはり1950年代にパラマウント社が開発したもので、このサイズ(1:1.85)は、人間が2つの目でモノを見ている普段の視覚にいちばん近い比率だと言われる。
ビスタ・サイズで思い出すのは、台湾のホウ・シャオシェン監督のエピソードだ。
ホウ監督は、初期に雇われ監督でつくったシネスコの歌謡映画を別にすれば、すべての映画をビスタ・サイズで撮影している。日本企業に頼まれてTVコマーシャルをつくったときも、最初、TV画面の比率に近いスタンダード・サイズ(1:1.33)で撮りはじめたけれど、途中どうにも気に入らなくてビスタ・サイズに変えたという。その理由をホウ監督は「スタンダードでは遠くを見ることができないから」と言っていた(朝日ワンテーマ・マガジン『侯孝賢』朝日新聞社)。
スタンダード・サイズは、人間の目が近くの人やモノに焦点を合わせて見つめるとき背景の風景がほとんど意識されないような、いわばクローズアップ的な視覚に近い。一方、シネマスコープは「もっと大画面を」という要請からつくられたサイズだから不自然で、いかにも人工的な視覚という印象がぬぐえない。その意味で、ビスタ・サイズは人間の生理にいちばん近いサイズだと言える。
そう考えると、ソダーバーグ監督がパート2にビスタ・サイズを選んだ理由が納得できる。
実際、『チェ 39歳 別れの手紙』の画面には終始、親密で、個人的な感情が滲みだしている。まるでチェと親しい人間が、彼のそばに影のようにつきそい、チェの行動を彼(彼女)が個人的にカメラで記録した、そのフィルムを見ているような気分になる。それは沈鬱なトーンを基調としている。
カメラは手持ちでカットを細かく刻まない。会話シーンでも、しゃべっている人間を交互にクローズアップする「お約束」の切り返しもなく、たいていチェの背後から顔も見せずに、距離をおいてカメラを回している。それは劇映画ではなくドキュメンタリーの作法であると同時に、素人が技巧を弄せず撮っている素人臭さを意図したようにも感じられる。
チェが銃撃戦で負傷し捕虜になるシーンも、遠くからただ素っ気なくカメラを回しているだけだ。それが逆に、現実はこのように進行してゆくのだというリアリティーを醸し出す。
ゲバラのボリビアでの341日は、いろいろな原因はあるにせよ、ゲリラ戦の基本である民衆(インディオ)の支持を得られない絶望的な戦いだった。風にそよぐ森の木々を見上げるショットは、孤立した戦いをつづけるチェの末期の眼のようだし、最後に銃殺されるシーンでは、カメラがチェの目線そのものになる。
一言でいえば沈鬱なドキュメンタリーのように撮られた映画。ハリウッドのエンタテインメントを基準にすれば説明的でなく映画的興奮もないけれど、監督の意図からすれば、パート1よりずっと完成度の高い仕上がりになっていたと思う。
もうひとつ、個人的に満足したのはボリビアでロケされていたこと。『ゲバラ日記』を読んだのは40年も前のことだけど、そのとき、ボリビアがどんな風景をもつ国なのか、まったく知識がなかった。その欠落したイメージを、40年ぶりにこの映画が補ってくれた。
February 05, 2009
桐野夏生浸り・5
桐野夏生の小説にはしばしば「毀れる」「壊れる」といったキーワードが出てくることを書いた。
村野ミロ・シリーズの第2作『天使に見捨てられた夜』には、その言葉こそ出てこないけれど、彼女の小説の主人公が「毀れる」とはどういうことかを暗示するシーンが出てくる。
行方不明のアダルト・ビデオ女優探しを依頼されたミロは、ビデオ制作会社の社長で魅力的な肉体をもった矢代と出会う。ミロは矢代にレイプまがいの脅しを受け、彼が女優の行方不明に絡んでいるかもしれないのに、結局は男の魅力に負けて関係をもってしまう。
その展開は、主人公の探偵が女に設定された「逆ハードボイルド」だから、読んでいて、おやおやとは思うけれど、ハードボイルドというジャンルにとっては「お約束」のうちとも言える。探偵が調査を続けるうちに、魅力的な女に出会う。探偵と女はいい感じになり、時には寝てしまう。
斎藤美奈子サンが喝破したようにハードボイルドが「男のハーレクインロマンス」である以上、そのストーリはしばしば男の通俗的な夢をなぞることになる。だから、これはありうる展開だ。そしてそのエピソードは、男にとっては「一瞬の夢」とか「束の間のアバンチュール」にすぎず、女が実は事件の犯人だったりして、物語の終わりに探偵が噛みしめる苦さをいっそう増すための香辛料として処理される。
ところがこの小説では、ミロが調査対象の男と関係を持ってしまったことが「一瞬の夢」「束の間のアバンチュール」として処理されることはない。
ミロはその後、徹底した屈辱を受けることになる。その関係を刑事に知られ、「仲良しさん、か」「あんたら女はいいねえ。からだ張って調査できるもんね」と薄ら笑いを浮かべた軽蔑を受ける。それだけでなく、やはり調査探偵の父親や、彼女が思いを寄せるゲイの男友達にまで知られてしまう。主人公の颯爽とした格好よさは地に落ちる。
なぜ桐野夏生はミロをここまで屈辱にまみれさせるのか。これは明らかにハードボイルドの「お約束」をはみ出している。読者にしてみれば、「お約束」で成り立っているエンタテインメントに安心して身を委ねていたら、いきなりその快さをぶち壊されたようなものだ。実際、この部分は発表後にファンの間で議論になったらしい。
桐野夏生が「毀れる」「壊れる」という言葉を使うのは、小説によって明示されていることも暗示にとどまる場合もあるけれど、たいていこういうシチュエーション、あるいは体験を指している。
一言でいえば、社会とか世間というものの掟に違反してぶちのめされ、屈辱を受け、人格がどこか深いところで変わってしまうことを、「毀れる」「壊れる」と表現しているように思う。桐野の小説で「毀れる」のはたいてい女性であり、しかもそのシチュエーションには性が絡んでいることが多い。
『天使に見捨てられた夜』は全体としては「お約束」にのっとったハードボイルドだから、ミロは屈辱に耐えて調査を続け、事件を解決する(結末は、ロス・マクドナルド以来の「家族の秘密」ものを踏まえた鮮やかなもんです)。
ではハードボイルドの「お約束」から自由になった他の作品で、「壊れた」主人公たちはどうなっていくのか。
『グロテスク』の語り手である「わたし」は、コンプレックスを抱いている「美人の妹・ユリコ」、高級娼婦から街娼におちぶれて殺された妹に対して嫉妬と憎しみの言葉を全編にわたって吐きつづけている。社会的には区役所勤めの、どこにでもいる平凡な女である「わたし」は、でも最後の章に来ていきなりそんな内面の「毀れ」を行動に表わす。
妹の息子で盲目の美少年・百合雄とともに、街娼として渋谷の街角に立つことになるのだ(皮肉なことに百合雄にばかり客がつくのだが)。初めてラブホテルの門をくぐりながら、「わたし」は内心でこうつぶやく。
「これから起きることを想像して心臓は激しく打っていましたが、それを上回る感情と意志がわたしを支配していたのです。わたしを侮り始めた百合雄に対する憎しみとわたしも変わりたいという欲望でした。わたしは男の体重に喘ぎ、優しさなど微塵もない男の愛撫を受けながら、きっとこう思うでしょう。和恵(注・同級生。殺された街娼)は醜くなった自分を晒し、そんな自分を男に買わせることによって、自分に、そしてこの世に復讐していたのだと。今、わたしも同じ理由で身を売るのです」
「一度落下してしまえば、その後の道行は案外、楽しいのかもしれません。……だとしたら、憎しみも混乱もすべてを背負って、船出いたしましょう。わたしも怖れずに参ります。まあ、わたしの勇気を称えて、あちらで、ユリコと和恵が手を振っているではありませんか」
区役所勤めをしている女が街娼になる。妹のユリコや同級生の和恵(「東電OL殺人事件」の被害者をモデルにしている)と同じ道筋をたどって社会的な網からこぼれ落ちた「わたし」は、小説のなかで初めての解放感を味わっている(斎藤美奈子サンも文庫版解説で「爽快」「不思議な解放感」という言葉を使っていて、小生の感じ方もあながち間違いではなかったと嬉しくなった)。その解放感は、この件で使われる別の言葉でいえば「意志」的に実現した「変わりたいという欲望」から来ている、ということになるだろうか。
『out』のラストシーンはこうなっている。
ばらばら殺人事件の犯人と間違えられた男・佐竹は、死体処理を実行した雅子を追いつめる。佐竹には快楽殺人を犯した過去がある。「毀れて」いる雅子は、いつか佐竹に出会い、滅ぼされたいと願うようになる。2人は物語の最後で出会う。佐竹は雅子を拉致し、深夜の廃工場で乱暴するが、2人の間には愛とも憎しみともつかない奇妙な感情が生まれる。
「雅子は佐竹と自分の不思議さを思い、自分の中で動く佐竹にもっと強い意志的な憎しみを抱いた。……何とかこ男をこの刃で貫いてやりたい」
雅子は一瞬のすきを突いて佐竹の頬をえぐり、死にゆく佐竹とこんな会話を交わす。
「『死なないで』雅子は静かに言った。
『自由になろうぜ』佐竹がつぶやいた。
『うん』
佐竹が腕を伸ばし、雅子の頬にそっと触れた。その指の先は冷たかった」
佐竹が死んだ後、ラストシーンで雅子はこうつぶやく。
「佐竹とも、ヨシエや弥生(注・犯罪の仲間)とも違う、自分だけの自由がどこかに絶対にあるはずだった。背中でドアが閉まったのなら、新しいドアを見つけて開けるしかない」
ここでも「意志的」という言葉が使われている。雅子の行動は制御できない感情の結果でなく、あくまで「意志的」なものとして描かれている。また「自分だけの自由」という言葉が使われている。
『グロテスク』の「わたし」も、『out』の雅子も、物語の最後に来てすっくと立ち上がる。社会や世間の網の目からこぼれ落ち「壊れた」主人公たちが「自分だけの自由」を求めて「意志的に」立ち上がる。もっともそれは社会的に見れば、「わたし」は街娼になったということであり、雅子は殺人・死体損壊遺棄犯として逃亡するということである。
言葉にしてしまえば「意志」とか「自由」という単語になるけれど、それらの言葉を背後から支える感情の深さを、桐野はそこへ来るまでに、これでもかとばかりに描いている。だからこそ読者は主人公の最後のすっくとした立ち姿に解放を覚えるのに違いない。
主人公たちは売春や犯罪に加担するわけだけれど、主人公のなかにも、それを描く作者のなかにも、社会秩序をつくる法への意識が微塵もない。イデオロギー的な反体制というのではなく、法の規範意識や世間の「お約束」がきれいさっぱり消えうせているのだ。そこにひっかかると、もしかしたら主人公の解放感を共有できないのかもしれないが。
桐野夏生の読者に女性が多いのは、作者が女性だというばかりでなく、売春や犯罪とまではいかなくとも、女性が世間の掟にそむいて屈辱を受け「壊れる」体験が、大なり小なりこの社会のありふれた出来事だからだろう。だからこそ、屈辱の底から立ち上がる主人公に共感を覚えるのだろう。
最後に桐野夏生の想像力について。
彼女の小説は、何度も書いたように「東電OL殺人事件」とか少女誘拐・長期監禁事件とか、実際に起こった事件に素材を求めることが多い(『東京島』も戦争中に起こった事件をヒントにしている)。
でもそれはあくまで素材で、小説の中身は現実の事件とはかけ離れ、事実を追うのではなく妄想に妄想を重ねたものになる。それは作家の想像力なんて整除された言葉ではなく、桐野夏生は事件の当事者に憑依するのだ、とでも言いたくなる。まるで殺された女に憑き、その女になりかわって語りつづける巫女みたいに。
February 01, 2009
桐野夏生浸り・4
桐野夏生の書くものは今ではミステリーでない小説のほうが多いけれど、ミステリーで賞を受け、ベストセラーになったから、ミステリー作家という印象が強い。実際、『out』と『柔らかな頬』は日本のミステリーからベストを選べば共に入ってきそうな傑作だ。でもそれ以前のハードボイルド小説を別にすれば、ミステリーらしいミステリーはこの2作しか書いてない。
そして改めて考えてみると、2作ともハラハラどきどきの連続であるにもかかわらず、普通に言われるミステリーの約束事というか、ルールにのっとっていないことに気づく。
ミステリーには定型があって、まず冒頭で何らかの事件が起こり、何らかの謎が提示され、最後にその謎が解かれ、犯人が名指されたり、何らかの解決を見ることによって終わる。その過程が読者を面白がらせ、カタルシスをもたらす。
ところが『out』も『柔らかな頬』も、事件は最後まで解決しない。
『柔らかな頬』は、北海道の別荘地で幼女が行方不明になることから始まる。幼女の家族と、もうひとつの家族がからみあってストーリーが展開し、読者は物語を追いながら誰が幼女をなぜ、どのように誘拐したのか、あれこれ想像をめぐらすことになる。
ところが最後の「謎とき」に当たる部分に来て、いきなり行方不明の幼女の告白が出てくる。そしてそれを読んでも、誰が幼女を誘拐した犯人なのかはっきりしない。事件の真相がはっきりしないまま、小説は終わる。そして読後感は、犯人が分からないままのほうが、いや分からないからこそ登場人物それぞれの切なさが心に残る。
『out』も同じようなものだ。主婦の弥生が夫を殺してしまい、仲間の雅子たちが協力して死体をばらばらにして処分する。読者は雅子たちの行動を追いながら、このバラバラ殺人事件が、どこで破たんするのかをはらはらしながら見守ることになる。
ところが前に書いたように、小説は途中から大きく方向転換してしまう。殺人犯の弥生は、犯人と間違えられた男に保険金を盗られるものの警察からは見逃されたままだし、死体損壊・遺棄犯の雅子はいろいろあった末に物語の最後で颯爽と旅立つ。つまり社会的に見れば、事件は解決しないまま小説は終わる。
しかも『out』も『柔らかな頬』も複数の人物の視点が登場し、その視点ごとに事実が異なっているために、読者は本当のところ何が起こったのかが分からない。事実が確定されないために、「真相」とか「真実」というものが意味をなさない(この手法が全編に効果的に用いられたのが『グロテスク』)。
2作ともミステリーの常套的なルールに従っていないわけで、これはむろん桐野が意図したことだ。
『out』『柔らかな頬』以前に桐野が書いたハードボイルド小説でも、ハードボイルドの「お約束」が彼女には不自由で、拘束されるものと感じられたに違いない、と書いたけれど、もっと広いミステリーの分野に進出しても事態は同じだったらしい。桐野がミステリーを2作しか書かず、しかもそれがミステリーの定型的な「お約束」を逸脱したものだったことが、それを示していないだろうか。
もうひとつ、彼女の小説を読んで感ずることがある。
ミステリーは、読者をハラハラどきどきさせることで満足感を与えるエンタテインメントだ。では僕らは何をめぐってハラハラどきどきするのか。読者がミステリーを読んで期待するのは、例えばある犯罪が主題とされたとき、その犯罪がどのような形で行われ、犯人が誰で、結局はそれがどのように露見あるいは解決するのか、ということだろう。
読者がなぜハラハラどきどきするのか。僕の考えでは、読者はストーリーを追いながら、それと明示されているわけではないが物語の奥に引かれた何らかのラインを巡って心が動揺するからだと思う。そのラインは、いろいろな形でありうる。例えば男と女の愛と憎しみのラインとか、社会的役割の責任と逸脱をめぐるラインとか。
でもミステリーでいちばん使われるのは、法の遵守と逸脱をめぐるラインじゃないだろうか。典型的なのは刑事を主役や重要な脇役に据えた小説で、何らかの事件が起こり、刑事がそれを調べるなかで犯人を見つけ、謎を解く。
読者はその過程でハラハラどきどきするわけだけど、そのときハラハラどきどきを生じさせるラインは何かといえば、読者の無意識に内面化された法というものだと思う。感情移入した主人公が法を犯しているなら、読者はそれがいつ露見するのかとはらはらする。そのとき、読者はそう思っていなくとも、意識下では法という規範が働いている。
ところが桐野夏生の小説では、ハラハラどきどきを生じさせるために読者の意識下の法を使うということをしない。『out』で主人公の雅子が逃げるのは、法の執行者である警察からではなく、彼女らに復讐しようとする殺人者からだった。
『柔らかな頬』でも、物語のハラハラどきどきは、行方不明になった幼女の母親と、彼女と不倫の関係にある男とその妻との心理的な葛藤から来ていた。小説の後半で元刑事が母親の娘探しに協力するかたちで登場するけれど、元刑事は病気で余命を宣告された身であり、もはや法を執行することに何の情熱も持っていない。
だいたい桐野夏生の小説は、ハードボイルド、ミステリー、あるいは「東電OL殺人事件」や少女誘拐・長期監禁事件といった犯罪を素材にした小説でも、警察官が主要な登場人物として描かれることがほとんどない。どんな事件や犯罪も、法の執行者がそれを調べ暴くという展開にはならず、法というものをほとんど意識させずに物語られてゆく。
そういえば、正月の新聞で桐野と分子生物学者の福岡伸一が対談していたとき、彼女はこんなことを言っていた。
「法律とは感情を整理する道具でありシステムだそうですね。でも……法律の網目から落ちていくものをどうするか、どう折り合いをつけるかというのが、小説の本質かもしれません。……是非を問うのではなく、こぼれ落ちる側の世界をただ提示していくことが面白いし、大事だと思います」(朝日新聞、1月5日付)
「是非を問うのではなく、こぼれ落ちる側の世界をただ提示していく」。そう言う彼女の立ち姿は明快で、颯爽としている。
桐野夏生の小説はハードボイルドの「お約束」を逸脱し、ミステリーの「お約束」を逸脱し、作者や読者の心のうちにある法という「お約束」も逸脱して物語られてゆく。彼女のジャンルからジャンルへの移り行きは、そういう逸脱の繰り返し、束縛からの逃走として読めるのだと思う。
そしてそういう桐野のありようは、当然のことながら彼女が描く小説の主人公たちにも投影されている。と、ここまできて、彼女の小説が不安や嫉妬や憎しみに満ちているのになぜ読後に解放感があるのか、がようやく分かってくるような気がする。
(付記:このエントリー、『out』も『柔らかな頬』も手元になく、1カ月以上前に読んだ記憶で書いたので、間違いがあればご容赦を)
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