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January 30, 2009

桐野夏生浸り・2

Out_china
(『out』中国語版)

桐野夏生の小説を何冊か読んでいると、どの作品にも共通するキーワードがいくつか出てくるのに気づく。そのひとつが「壊れる」、あるいは「毀れる」という言葉だ。

「壊れる」あるいは「毀れる」という言葉が発された瞬間に、桐野の小説世界はいちだん深い場所へと入ってゆく。そう感じられる。

たとえば『魂萌え!』の主人公。世間知らずの専業主婦だった敏子は、夫の死後、息子や娘との相続争い、夫の愛人との対面、自身の不倫などを経て、ひとりで生きていこうとする自分自身の胸に問いかける。

「壊れるのか、それとも新しい何かが生まれるのか」

あるいは『玉蘭』の医師・松村。彼は元恋人で娼婦まがいの生活を送っている有子と再会し、砂を噛むような思いで有子を抱きながら、こう考える。

「もっと感じてほしい。その願いは、有子にもっと壊れてくれ、と言っていることと同じだった。さっきはあれほど大事に壊れ物を扱うように抱いていたのに。有子はとっくに壊れていたのだ。松村は激しく上下に動きながら、有子に囁いていた。二人でどこまでも壊れよう」

この「壊れる」あるいは「毀れる」という言葉がとりわけ印象的な、それだけに凄まじいシチュエーションで使われているのが『out』だろう。

『out』はベストセラーになったから、今さらここで解説するまでもないけど、ちょっと詳しく見てみようか。いま読むと、こんな危ない小説がよくベストセラーになったね。

主人公は東京郊外に住む40代の主婦・雅子。彼女は自宅近くのコンビニ弁当工場で夜勤の期間労働者として働いている。彼女には工場でラインを組む3人の仲間がいるが、そのうちの1人・弥生がふとしたはずみで夫を殺してしまう。弥生に相談された雅子は、死んだ夫を行方不明に見せかけるために死体をばらばらにして処理することを提案する。

とここまで書いてきて分かるように、常識的に考えれば主人公・雅子の提案に説得力はない。弥生とそれほど深いつきあいがあるわけでもないのに、進んで死体損壊・遺棄という重大な犯罪に加担しようというんだから。しかも、そう決心した雅子の心のうちはなんにも説明されない。

「『どうして。じゃ、どうしてここまでしてくれるの』
弥生は健司(注・死んだ夫)の脇の下に膝を差し入れながら、雅子に訊ねた。
『後で考える』」

「後で考える」ってセリフがすごいね。雅子たち4人が弥生の死んだ夫をばらばらにして捨てる、その成り行きを読者に納得させるのは、彼女らの内面や心理描写ではなく、彼女たちが働いているベルトコンベアの弁当工場を描く、その描写のすごさにある。主人公の内面を描かず、その外面を描いて内面を暗喩させるハードボイルドの手法の応用とも見える。

自動車工場やアパートや一戸建てや空地が混在する大都市近郊。弁当工場に深夜に出勤してゆくのは、彼女らのような主婦や日系ブラジル人労働者だ。その風景描写と、工場内でフォード・システムでコンビニ弁当をつくる描写がなんともリアルなんだなあ。

読んでいくうちに、このコンビニ弁当工場が現在の日本社会の比喩であることがだんだん実感されてくる。ちなみにこれは桐野夏生がしばしば使う手で、『グロテスク』で主人公たちが通う有名女子高の同質性と異分子排除の世界もこの社会の縮図だったし、無人島に漂着した日本人男女がミニ社会をつくる『東京島』はタイトルからして東京=日本を意味していた。

この都市近郊と弁当工場の生々しいリアリティが、4人の仲間による死体バラバラ処理という荒唐無稽なシチュエーションを読者に納得させてしまう。

「いつの間にかラインの向こう側で『肉均し』に就いた弥生がこちらを見ている。
『何? どうしたの』
『こうなっちゃえばわかんないね』
弥生は何度も肉に目を落として言った。その目に狂躁とでもいえる光があった」

その後、死体処理の細密描写が桐野独特の濃密な文章で延々と続くのもすごいけど、物語は途中から大きく思わぬほうへ方向転換してゆく。

『out』は最初、社会派ミステリーのような顔をしている。主人公たちによる殺人と死体バラバラ処理。バラバラ殺人の部分だけ取り出せば、現実に起こっている事件(最近も)であり、その意味で読者はリアルな思いを持つに違いない。

その上で、読む者は、主人公たちの行為はきっと失敗するに違いない、でもどこでどんなふうに暴かれてゆくんだろうとハラハラ(期待)しながら読み進むことになる。僕も途中まではそういうミステリーとして、宮部みゆきを生々しくしたような小説だなと思いながら読んでいた。

ところが、健司殺しの犯人と間違えられ警察に追及される男・佐竹が登場するあたりから、小説はがらりと様相を変える。男は犯人と間違えられた復讐をするために、雅子を追う。男にはかつて快楽殺人とも言える犯罪を犯した過去がある。追う男と追いつめられる雅子、そのあたりからまだ会わぬ2人の妄想の恋愛(官能)小説とでも呼べそうな展開になってくる(一方、日系ブラジル人労働者を脇役に配することで、この国の現実に錘を垂らすことも忘れていない)。

男の殺人の記憶。

「佐竹は自分で刺した女の腹に指を入れてみた。指はずぶずぶと付け根まで入った。だが女は何も感じない様子で、口をぱくぱく開いては囁くように『びょういん』と言い続けている。佐竹の指が手首まで鮮血に塗れた。佐竹はその血を女の頬で拭いた。自分の血で赤く頬を染めた女はこの世のものと思われないほど綺麗だった」

一方、追いつめられ、男の影を感ずる雅子の見る悪夢。

「締めつける指の温かさが、首筋にかかる男の荒い息が、次第に雅子を暗い衝動に突き動かしていく。そのまま強い力に身を委ね、縊り殺されてしまいたいという衝動に。その瞬間、雅子の恐怖が無重力状態に入ったかのようにかき消えた。代わりに、信じ難い恍惚が雅子を襲い、雅子は驚きと愉悦の声を漏らした」

追う男の記憶と追われる女の悪夢が遠く離れて感応し、雅子は男を恐れ、逃げ回りながら、男との出会いを心の底で期待するようになる。彼女は男への激しい憎しみに燃えながら、男に殺されることを願っている。

「毀れる」という言葉は、物語の終わり近く、弁当工場の隣にある廃工場で深夜、遂に2人が顔を合わせたところで登場する。男が雅子を拉致し、暴行した後の会話。

「『あんたは毀れてる!』雅子はまた叫んだ。
『そうだよ。おまえも毀れてるんだ。俺は最初に見たときからわかってた』
自分の毀れは、そんな佐竹に惹かれていることだ」

この暗闇の廃工場で繰り広げられる、2人の現実とも妄想ともつかないくだりはこの本の最高の場面であると同時に、桐野夏生の全作品(まだ全部読んでないけど)のなかでも屈指の美しい場面だね。しかも雅子の視点からと男の視点からと、細部が微妙に異なる同じシーンが2度繰り返され、どこまでが現実でどこまでが妄想なのか読者にも(あるいは作者にも)判断がつかないのがすごい。

小説の冒頭で、夫を殺した弥生に対し、雅子がなぜ犯罪に加担すると申し出たのか。その理由を問われた雅子は「後で考える」と言っただけで、作者は何も説明していない。それは最後まで説明されないけれど、ここまでくると分かってくる。

家庭の主婦であり、弁当工場で期間労働者として働いている(つまり一見ごく普通の市民である)雅子は、この小説が始まった時点でもう「毀れていた」のだ。だから理由なんてどうでもよかったのだ。それを読む者におかしいと感じさせず、風景や人物のリアルな描写で納得させてしまうところが桐野夏生の力なんだと思う。

もしかしたら雅子は、「壊れるのか」と自問した『魂萌え!』の主人公・敏子の、その後の姿(年齢は違うけど)なのかもしれない。そう思うと、ホームドラマに終始する『魂萌え!』が実はとんでもなく怖い小説にも見えてくる。

桐野夏生はこんなふうに、この現実のなかに生きて否応なく「壊れる」(「毀れる」)ほかに途がない女を描きつづけている。その世界は不安と孤独と憎しみと性的妄想に満ちている。でも、彼女の小説を読んだ後には、そんな暗い世界を経由した果てなのに、ある種の解放感を感ずることが多い。

5年前に『グロテスク』の書評で、こう書いたことがある。

「これは現実の事件に沿った小説ではなく、あくまで『処女の姉(注・語り手のわたし)と娼婦の妹』が主人公なのだ。そこには最後のどんでん返しが用意されているが、それを明かしてはルール違反になる。でもそこで読者は、これは『転落』の物語ではなく『解放』の物語だったのだと、改めて気づくことになるだろう」

ここで「転落」という言葉は、名門女子高を卒業した登場人物たちが一流企業に就職したりモデルになったりした末に娼婦になったことが、通常社会的にはそう受けとめられる、という意味で使っている。一方、「解放」という言葉についてはまったく説明しなかった。

『out』もそうだけれど、彼女の小説を読み終わって『グロテスク』の解放感に近いものを感ずることがしばしばあるのに気づいた。そのことについて考えてみたい。

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