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January 10, 2009

浦和ご近所探索 文化住宅

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(和風建築の玄関脇に洋間がある「文化住宅」)

ニューヨークにいたとき、ブルックリンの我がアパート周辺を散歩してはブログに「ブルックリンご近所探索」を書いていた。それにならって、今度は自宅のまわりを徒歩と自転車で散歩しながら「浦和ご近所探索」を書いてみたい。

浦和には30年以上も住んでいるから、町をよく知っているつもりだけど、しかしそれは普段の行動範囲のなかだけで、行ったことのない場所もたくさんあるから、その実、よく知らないとも言える。1年間不在だったことで、見慣れた風景を新鮮な目で見ることができるといいんだけど。

僕は旧浦和市の住民だけど、旧大宮市などと合併して「さいたま市」になったことで旧市域は4つだか5つだかの区に分割された。その結果、中心部の浦和区以外は桜区だの緑区だの知恵のないネーミングで「浦和」の地名がはずされた地域が多い(区名を決める過程も、住民参加を装いながら予め決めていたらしくインチキだった)。

そもそも「埼玉」とは稲荷山鉄剣で知られる埼玉(さきたま)古墳群のある県北地域を指す地名だから、浦和や大宮を埼玉とは呼べないし、呼びたくもない。平仮名で「さいたま」と書かせるセンスも最悪だ(住所を書くたびに怒りがこみあげる)。僕がふだん散歩するのは旧浦和市(と旧与野市の一部)なので、行政的には浦和でなくなった場所もあるけれど、せめてもの抵抗の意思を込めて「浦和ご近所探索」とした。

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(玄関は洋間の向こう側にある)

10年くらい前まで、これらの写真のような家がそこらじゅうにあった。和風住宅の玄関脇に1間の洋間。大正から昭和前期に盛んにつくられた「文化住宅」と呼ばれる建築だ。どこかレトロなエキゾティシズムを感じさせる建物で、宮崎駿のアニメにもこういう家がよく出てくる。

僕は1950年代後半まで浦和に住んでいたので(その後引っ越し、1970年代に戻ってきた)、ガキのころ友達の「文化住宅」によく遊びに行った。

洋間にはたいてい絨毯が敷かれ、テーブルとイスが置かれている。壁には油絵がかかり、暖炉(もどきだったかも)のある家もあった。わが家は純和風住宅だったので洋間で遊ぶのが珍しかったし、うらやましくもあった。もっとも、大きな家具が詰め込まれ物置のようになっている家もあって、生活空間としてうまく利用されていたとは思えない。

70年代に浦和に戻ってきたとき、町はまだ昔の面影をとどめていた。自宅から歩いて5分の半径のなかに、こういう「文化住宅」が10軒はあったと思う。それが80年代のバブル時代以降に1軒消え2軒消え、今ではこの写真の2
軒だけになってしまった。

浦和は産業らしい産業もなく、戦前から東京へ通勤する中流階級の住宅地だった。そのためこういう「文化住宅」がたくさんつくられ、戦後も町の変化が少なかったためにそのまま残っていたんだろう。

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小沢朝江・水沼淑子『日本住居史』(吉川弘文館)によると、あらゆる面で近代化・西洋化を目指した明治政府は住宅についても洋風化を推進した。日本人を畳の生活から椅子の生活に変えようとした。そのモデルとして、洋風の外観を持ち、椅子で生活する洋間からなる「文化住宅」のプランを考えた。

でもそれは性急すぎた机上の空論で、日本人は畳を捨てられなかった。洋間だけの「文化住宅」が建てられたのは一部の上流階級の家のみで、実際には洋間と日本間が混在する「文化住宅」や、さらには玄関脇に1間だけ洋間が残った「文化住宅」が普及していった。呼び方は同じでも実態は純洋風から和洋折衷へと変化していったわけだ。わが家の周辺に残っているのは、この最後の段階の「文化住宅」ということになる。

戦後の典型的な住宅プランは団地の2DK、2LDKというやつだ。これは洋間のダイニング(リビング)に畳敷きの2間という、和洋折衷の「文化住宅」を集合住宅のなかに押し込めたもので、これが今の僕らの生活様式の基本になっている。

もっとも、新聞に折り込まれる最近のマンション広告の間取り図を見ると、すべて洋間か、せいぜい畳敷きの間が1室というタイプが多い。同じ和洋折衷でも「1室だけ洋間」とは逆の「1室だけ和室」の「文化住宅」になってしまったわけで、明治政府の意図は1世紀半たって実現に近づいている。

今でも築80年の古びた純和風住宅に住んでいる僕としては、残った「文化住宅」にエールを送りつつ孤塁を守っている心境だ。

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Comments

私の祖父母の家(横浜)もまさにこの文化住宅というスタイルでした。玄関横の一室だけが洋間で、そこにはどっしりとしたソファーのセットと一応機能する暖炉とマントルピースがありました。そうそうゴッホもどきのひまわりの油絵もありましたっけ。あの部屋は幼心にすごくレトロながらもちょっと異国の香りなんかがしてとても居心地がよかったものです。唯一、暖炉横の大理石の棚の上の人形の顔だけが怖くていつも後ろ向きにしていた記憶も蘇りました。笑

Posted by: yucca | January 10, 2009 at 03:13 PM

横浜あたりもたくさんの文化住宅があったんでしょうね。東京でも昔は住宅地でよく見かけましたが、最近はほとんどなくなったようです。

もう一度、こういう洋間に入ってみたいと思ってるんですが。

Posted by: | January 10, 2009 at 09:18 PM

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