桐野夏生浸り・3
それまでジュニア小説を書いていた桐野夏生が初めてミステリーを書いて江戸川乱歩賞に応募し、見事に賞を獲得したのが『顔に降りかかる雨』(1993)だった。主人公は女探偵の村野ミロで、以後、桐野はミロ・シリーズの続編やミロの父親を主人公に据えた作品で「女流ハードボイルドの旗手」と呼ばれる存在になる。
そんな評判にもかかわらず、彼女はハードボイルドの世界に長くはとどまらず、もっと広い場所へ出てゆく(ずっと後にミロ・シリーズが書き継がれるが)。そこで生まれたのが『out』(1997)、『柔らかな頬』(1999)といった傑作ミステリーだった。
日本のミステリーとして初めてエドガー賞にノミネートされ(『out』)、直木賞を受賞し(『柔らかな頬』)、高い評価とたくさんの読者を得たにもかかわらず、しかし桐野の小説はさらに変貌をとげて、もはやミステリーとも呼べないような作品へと変わってゆく。それは『玉蘭』(2001)を経由して、『グロテスク』(2003)で花開くことになる。『グロテスク』は見方によってはミステリーとも言えるし、そうでないとも取れる境界線上の作品かもしれない。
前のエントリーで、桐野夏生の小説が不安や嫉妬や憎悪に満ちているのに、読後にある種の解放感があるのはなぜかを考えてみたいと書いたけど、そこへ至る回り道として、彼女の書く作品がジャンルからジャンルへと移り行く、その経過を見てみる。
ハードボイルドはミステリーの一ジャンルだけど、ひとことで言えば「お約束」の世界である。
主人公は私立探偵か警官。事件が起き、主人公が調査に乗り出す。謎がある。ファム・ファタールを思わせる魅力的な女性が登場する。疑似恋愛。やがて謎が解かれ、真相が明らかになり、意外な犯人が判明する。残るのは、主人公の苦い思い。
ざっとこんなところが基本的な「お約束」だろうか。物語が主人公の一人称で語られることも多い。しゃれた会話と、舞台装置として都会的なファッションやジャズ。どの作家も、こういう「お約束」をベースに、そのなかでなんとか新味を出そうと知恵をしぼる。
時に「お約束」を裏切ったり、パロディにしたりするのも、あくまで「お約束」の掌のうちにある。読者も「お約束」を承知しているからこそ安心して、快く小説に身をゆだねることができる。
桐野夏生の『顔に降りかかる雨』や『天使に見捨てられた夜』『水の眠り 灰の夢』も、こういう「お約束」の上に成り立っている。彼女の場合、書き手も主人公も女性で、「お約束」の男女の役割がひっくり返されるのが新鮮だった(アメリカではたくさんあるけど)。読者にも女性が多かったらしい。
僕が読んだ3作はどれもよくできた、楽しめる小説に仕上がっている。主人公の村上ミロが魅力的だし、事件も1990年代の社会風俗をうまく取り入れている。『水の眠り』では資料を調べて1963年の東京、オリンピックと高度経済成長を目前にした東京(とりわけ銀座)の雰囲気が鮮やかに再現されている。いま読んでも上等のエンタテインメントだね。
ところで、ハードボイルドの「お約束」の上に成り立つ快さの正体をずばっと指摘した人が、僕の知るかぎり二人いる。
一人は『要塞都市LA』(青土社)を書いたマイク・デイヴィス。この本はロサンゼルスという都市を生成史、建築、都市社会学、セキュリティ論、文学、映画といった多角的な視点から論じた刺激的な一冊だ(読みにくいけど)。このなかでハードボイルドとノワールがロサンゼルスの都市文学として読み解かれている。
彼は言う。ハードボイルド作家が描く「彼らのプチブル・アンチヒーローは、まさに自伝的感情の表現であり」、「チャンドラーのマーロウも同じように、ギャング、悪徳警官、働かずにぶらぶらしている金持ちとの闘いに閉じこめられたちっぽけな自営業店主を象徴している――スタジオの大物や三流ライターと作家との関係の、ロマンチックなシミュラクラである」。要するにハリウッドに雇われたインテリ(作家)の嘆きと反抗のポーズ、つまりプチブル・アンチヒーローにすぎないと、さんざんな言われようだ。
もう一人は斎藤美奈子サンで、彼女はもっと分かりやすく簡潔だ。曰く、ハードボイルドは男のハーレクインロマンスだ、と。
うーん。苦笑しながらうなずくしかないね。
実は小生、ハードボイルド大好きである。もっとも読むのはアメリカの小説ばかりで、だから桐野夏生も発表時には読んでない。ハメット、チャンドラーの古典からジェームズ・クラムリー、ローレンス・ブロックといった70~80年代のネオ・ハードボイルド、ジェームズ・エルロイやマイクル・コナリーなどノワールふうな90年代以降の小説まで、けっこう追いかけてきた。
ハードボイルドの始祖であるハメットもチャンドラーも、1930年代にロサンゼルスにやってきて、ハリウッド映画の原案作者や脚色家として生計を立てながら、パルプ・マガジンと呼ばれる大衆的な雑誌に小説を発表していた(今の日本でいえば『アサヒ芸能』か『日刊ゲンダイ』という感じか)。
彼らの関係する映画(その多くはノワールと呼ばれるギャングもの)も小説も多くの人に見たり読んだりしてもらわなければ成り立たない大衆的商品だから、かつての東映やくざ映画や寅さんがそうだったようにパターン化し、「お約束」の世界になってゆく。
作家としての意欲や矜持と「お約束」の間にねじれが起こり、そのねじれが作品に反映して、ハードボイルドやノワールの陰影という隠し味になる。デイヴィスが「アンチヒーロー」と言うのは、小説家が「お約束」にのっとってヒーローを描こうとして、そのねじれが否応なく単純な「正義の味方」でないアンチ・ヒーローを生みだしてしまったのだと僕は解する。
しかし一方でそのヒーローはあくまで大衆(ほとんどが男)に受け入れられるものでなければならないから、男の通俗的な夢をなぞった「ハーレクインロマンス」ともなる(ここからイデオロギー的な「フェミニズム批評」というやつなら、女性が男の差別的視線を倒錯的に内面化したものとしてミロ・シリーズを批判するかも)。
デイヴィスが言うようにハードボイルドはロサンゼルスの都市小説(もう少し一般化すればアメリカの都市小説)とも読める特殊なものだから、それを日本に移し替えようとすると色んな困難がある。そもそもアメリカのような私立探偵はいないわけだし。
大藪春彦や生島治郎の先駆的な小説の後、五木寛之や船戸与一、佐々木譲、逢坂剛あたりを読んだ1970~80年代に、日本のハードボイルドもこの国の風土に合わせて成熟したなあと思った記憶がある。
僕はその後、日本のミステリーをあまり読んでないけれど、今度読んだ桐野夏生の小説も明らかにそういう流れの上に成り立っている。
ハードボイルドの「お約束」をちゃんと踏まえ、それが日本の現実のなかで不自然さを感じさせないように消化されている。ハードボイルド小説の魅力のひとつは風俗小説としての面白さだと思うけど、死体愛好や異装といった倒錯世界やアダルト・ヴィデオ業界、ネオ・ナチなんかをからませるのもうまい。主人公・村上ミロ(この名前はクラムリーの主人公・ミロドラゴビッチから取ったもの)の服装や音楽の趣味もいい。
それにしても桐野夏生は、はじめっから文章がうまかったんだなあ。その艶っぽさと、イメージの鮮やかさにはうなる。いちばん印象に残ったのは『顔に降りかかる雨』、ミロが雨の鎌倉の邸宅で、裏世界の顔役が首を吊っているのを発見するくだり。
「一瞬、白いものが目に留まった。雨によって新緑の緑が冴え、だから白いものが目にとまったのだろう。何か布が風に煽られて揺れたかのようだった。
私は濡れ縁に出て、ガラス戸越しに庭を眺めた。またちらっと白いものが見える。あれは着物のような、と思った瞬間、ぞっとするものが背筋を走った。……
私は顔に雨を受けながら、庭石づたいにその白いもののそばに近づいていった。椿の木の裏。その横の大きな馬酔木の陰。青桐のすべすべした木の枝に何かがぶら下がっている。毛のない真っ白な脛がいきなり目に入った。ひらひらと白麻の着物の裾がはためいている」
雨中の緑と白の対照。風に揺られる着物の動き。読む者にも感じられる、顔に受ける雨の冷たさ。椿、馬酔木、青桐と映画のカメラのように移動してゆく視線。その先に現れる白い脚の不気味な感触。とてもミステリー作家としてのデビュー作とは思えない。
ミロ・シリーズは好評だったし、新しいハードボイルド・ヒロインの誕生として期待された。でもシリーズは、長編としてはひとまず2作で終わってしまう。どんなにうまく処理されていても、「お約束」が桐野にとっては不自由に、拘束として感じられたのだと思う。想像するに、「お約束」の上に成り立つ世界では自分の書きたいことが十分に展開できない、と考えたんじゃないかな(しばらくしてミロ・シリーズの続編が書かれたのは、もっと広い小説世界を確立し、「お約束」を楽しむ余裕ができたからだろう)。
船戸、佐々木、逢坂といった小説家がハードボイルドだけを書いたのではないように、日本の風土でアメリカ生まれの「お約束」の上に小説世界を展開するのはどこかで無理が生ずる。
桐野夏生は、ひとまずハードボイルドを離れ、もっと広いミステリーの世界へと転進してゆく。
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