昭和天皇の母子関係
原武史の天皇論は、いつも従来の政治権力論的な見方では見過ごされがちなところにスポットを当ててみせる。
『大正天皇』(朝日選書)は、存在そのものが希薄だった大正天皇の、帝国議会の開院式で証書を丸めて覗いたみたいなレベルでしか知られていなかった実像を追って、天皇として初めて一夫一婦制を取るなど意外に近代人だったり、地方へ出かけたとき気軽に外を出歩くなど昭和期に神格化される以前の天皇の知られざる側面を描いていた。
今年の司馬遼太郎賞を受けた『昭和天皇』(岩波新書)でなんてったって面白いのは、大正天皇の妻であり昭和天皇の母である貞明皇后と昭和天皇の母子関係について書かれた部分だね。なにせ大日本帝国の最高権力者のことだから、母子の葛藤は単に家庭内の問題ではすまず、帝国の運命にまで絡んでくる。
大正天皇の病が重くなるにつれて、妻の貞明皇后は「神(かむ)ながらの道」という新興神道にのめりこみ、夫の死後、息子が即位した昭和期に入るといよいよ神がかりの傾向を強めたという。
一方、息子の昭和天皇は、皇太子時代にヨーロッパ訪問をしたこともあってゴルフを楽しんだり生物学に熱中したり、イギリス王室を手本に皇室の近代化をめざして大奥のような女官制度を改革したりしている。
天皇は、新嘗祭など月に何度もの宮中祭祀をこなさなければならない(祭祀の多くは古いものでなく明治になって新たに定められた「創られた伝統」だった)。ところが明治天皇も大正天皇も必ずしも宮中祭祀に熱心でなく、それは昭和天皇も変わらなかった。そのことが、神がかりの貞明皇后(皇太后)には大いに不満だったらしい。
昭和天皇の宮中祭祀への態度について貞明皇太后は、「御正坐御出来ならざる(正坐もできない)」とか「形式的ノ敬神ニテハ不可ナリ、真実神ヲ敬セザレバ必ズ神罰アルベシ」と、なんとも強い言葉で批判している。「神罰があるぞ」と告げる母親は、息子にとってかなり支配的・抑圧的な存在だったにちがいない。しかも時代は「現人神」として天皇の神格化が着々と進んでいたから、母に異を唱えるわけにもいかない。
一方、昭和天皇と2人の弟、秩父宮、高松宮との兄弟関係も微妙だった。秩父宮は2・26事件を起こした陸軍皇道派と近く、「秩父宮様帝位簒奪」との噂も立った。事件後の青年将校への処罰について、温情を期待された昭和天皇が冷たかったのは、秩父宮との関係も影響していたらしい。もうひとりの弟、高松宮は近衛文麿ら宮中グループと近く、敗色が濃くなった太平洋戦争末期に戦争継続を考える昭和天皇を批判し、以来、2人の間には溝ができた。
貞明皇太后は秩父宮と高松宮を「秩父さん」「高松さん」と呼んで可愛がった。家族のなかで孤立し、帝国が太平洋戦争へ突き進むなかで、独り言が目立つようになった昭和天皇はかつてとは様変わりして宮中祭祀に熱心になってゆく。月に何度もある祭祀をこなし、「神の御加護」を求め、伊勢神宮に戦勝を祈願した。
戦局の悪化に反比例して貞明皇太后の神がかりはいよいよ強くなった。敗戦の2カ月前、天皇は皇太后に会いに行く。恐らくは勝利の見通しが立たないことを母に説明した後、息子は嘔吐して2日間寝込んだという。
貞明皇太后の神がかりは、戦後、皇太后が亡くなってからも、「魔女」と呼ばれた皇太后側近のひとりの女官に引き継がれた。1970年、昭和天皇が遂に「魔女」の罷免を決意したとき、「言ふことをきかなければやめちまえ」ときわめて激しい口調で侍従長に告げている。「やめちまえ」という感情をあらわにした言葉からも、貞明皇太后の影が「魔女」を通して死後もいかに大きく昭和天皇にのしかかっていたかを推測できる。
想像をたくましくすれば、敗戦は昭和天皇にとって皇太后の告げる「神罰」が下りたと受けとめられたかもしれない。
昭和天皇は戦後も宮中祭祀に熱心だった。その理由について原は、「天皇は少なくとも『神』に対しては戦中期の過ちを自覚するがゆえに、戦後も一貫して宮中祭祀に努めてきた」「天皇が責任を痛感していたのは第一に皇祖皇宗に対してであり、国民に対する責任観念を意味するはずの『戦争責任』という言葉には、にわかに反応できなかったのではないか」と言っている。
宮中祭祀という視点から見るかぎり、戦前も戦後もそのありようはほとんど変わっていない。昭和天皇にとって敗戦時の最大の関心は「万世一系」の天皇家の維持だった。マッカーサーの政治的決断でそれが果たされ、戦後も亡くなるまで皇祖に祈りつづけた昭和天皇の姿を見ていると、天皇が統治者であり主権者でもあった大日本帝国から国民主権の日本国への大転換は、彼にとってさほどの意味を持たなかったのではないかと思えてくる。
原武史はさまざまな資料を当たり、側近や侍従の日記・手記を読みときながら、昭和天皇の宮中祭祀と家族関係という、天皇家の外からはうかがいしれない部分に光を当てた。
最近の新書は岩波も含めて内容が薄く失望することが多かったけど、久しぶりに充実した新書を読んで本を読む喜びを味わったな。
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