『binran』の妖しい光
1年間、日本にいなかったので、その間にどんな写真集が出たか知りたくて新宿の写真専門書店「蒼穹社」に出かけた。島尾伸三の中国ものを集大成した『中華幻紀』とか、何冊か気になる写真集があったけど、特に目を惹かれたのが瀬戸正人の最新刊『binran』(リトルモア)だ。
binranは漢字で書けば檳榔。台湾語で「ビンラン」、日本語だと「びんろう」になる。
15年ほど前、仕事と遊びの両方で頻繁に台湾に出かけた一時期がある。車で台北郊外の道路を走っていて、「檳榔」という看板の出た粗末な小屋をたくさん見かけた。檳榔の売店だった。
檳榔はヤシの一種で、果実の種にはある種の覚醒作用がある。まあ、噛みタバコみたいなものと思えばいい。口のなかでくちゃくちゃやったあと、ぺっと吐くと、真っ赤な血のような唾が路上に散る。当時、台北の町の近代化を進めていた市当局にとっては悩みの種だったらしい。
台湾人の友人に「一度、やってみたいな」と言ったら、「やめてください。台湾の恥です」と言われたことがある。
その檳榔の売店を50店近く撮影したのがこの写真集だ。
びっくりしたのは、僕が見た1990年代には掘っ建て小屋みたいだった売店が、最新のこの写真集では派手なネオンが彩るガラス張りに変わり、おまけにガラスの奥には必ずミニスカートの若い売り子が太ももを露わに座っていることだった。檳榔の売店が今でもしぶとく残っているばかりでなく、こんな姿になっているとは!
写真集のなかで闇に浮かぶ檳榔店は、まるで深海の底で照明を当てられた水槽か、夜の誘蛾灯みたいな妖しい光を放っている。誘蛾灯というのはこの場合比喩じゃなく、檳榔を買う客のほとんどは男だから、蛾ならぬ男を誘惑するための装置がこのネオンとガラス張りとミニスカートの女性というわけだ。
瀬戸正人はすべてを一定のスタイルで撮っている。必ず夜。「水槽」をやや角度をつけて画面の大部分に取り込み、周囲の建物や道路の様子もさりげなく写し込む。スナップではなく、ミニスカートの女性にポーズしてもらう。
中判カメラ(多分。最新のデジタル一眼レフは中判並みの描写をするけど、画面縦横の比率は35ミリでない)の細密な描写がそこにある細々としたものまで写しとり、見る者はまるで誘蛾灯に誘われるように(僕も男だし)それらに目をこらすことになる。
額縁みたいにガラス窓を飾る原色のネオン。そのなかにいるミニスカートの女性たちの、いかにも水商売ふうなチープな衣装。そばに置かれたブランドものバッグや化粧道具、鏡。飲みかけのペットボトル。ミッキーマウスのぬいぐるみ。金色の招き猫。檳榔を入れたプラスチック籠。ビニール貼りのピンクのイス。立てかけられたビニール傘。古ぼけた扇風機。入口に置かれた女戦士のフィギュア。錆びた鉄骨。
そんな台湾のマーメイドたちや町のたたずまいを、画面の隅々まで楽しんでいると、1枚の写真に4分も5分も滞留してしまう。見ることの快感を実に感じさせてくれる写真集だね。
なお「biinran」は写真集に先立って昨年、写真展が開かれ、瀬戸正人はそれによって日本写真協会賞を受賞している。
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