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October 31, 2008

NYの記憶・11 トイレ地図(2)

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(ミッドタウン。カーネギー・ホール前で)

僕がニューヨークで日々行動した範囲は偏っていて、ミッドタウンの一部とダウンタウンに限られます。観光客が必ず行く5番街のブランド・ショップなど、日本から来た知人を案内して1年間で2度行っただけ。ですから実用の役に立つとは思えませんが、面白半分に地域ごとの極私的トイレ地図をつくってみました。

<ミッドタウン>

○西34丁目
地下鉄34丁目駅は8本のラインが交差する大きな駅で、近くにエンパイア・ステート・ビル、デパートのメイシーズ(MACY'S)、ペンシルバニア駅、コリア・タウンがあります。学校にいちばん近い駅だったので、毎日のように利用しました。

地上に出るとユニオン・スクエアという小さな公園があり、ここはニューヨークには珍しくコインを入れる有料トイレが設置されています。でも故障の赤ランプがついていることが多く、あてにできません。近くに無料トイレがあるので、結局、一度も使いませんでした。

駅からいちばん近い無料トイレは6番街に面したショッピング・センター、マンハッタン・モールの地下です。ファスト・フード店が並ぶフード・コーナーにあり、特にきれいではないけれど不潔でもなく、ABCで採点すれば平均的なBランクでしょうか。

モールから1ブロック北にメイシーズがあります。デパートだけあっていつも清潔で、フロアごとに数も多く(特に女性用)、お勧めです。Aランク。

モールの西隣にペンシルバニア・ホテルがあります。古い建物である上に、ホテルもAクラスとはいえず、地下のトイレは不潔です。しかも、個室ドアの下から脚が4本(!)のぞいていたり、スーツにネクタイの白人ビジネスマンがアフリカ系兄ちゃんに金を渡してそそくさと出ていくのを目撃したり、なにやら怪しげなことが行われている気配です。

個室に長時間入ったままの誰かさんもいて、ドアの下に海賊版DVDのパッケージを並べてるのは商売(?)してるのか、なにか別のサインなのか。ときどき警備員が追い立てていましたが、よく分かりません。ホテルのなかに語学学校があったのでよく使ったトイレですが、なんとも怪しげで、それが面白くて通いました。でもお勧めできないので、Cランク。

ホテルと7番街をはさんでペンシルバニア駅があります。東京駅や新宿駅に当たるニューヨークの玄関口で、2カ所にトイレがあります。トイレも広くて、まずまず清潔。採点はB。駅ビルには書店のボーダーズが入っており、2階にカフェとトイレがあります。

結論として、このあたり無料で使えるトイレがたくさんあり、トイレ環境は上々、と申せましょう。

○タイムズ・スクエア周辺
このあたりマリオット、クラウン・プラザ、ヒルトン、シェラトンなど大きなホテルがありますから、そこのトイレを使えば問題ありません。どこも清潔で、もちろんAランクです。

近くのロックフェラー・センターは、ショッピング・エリアにトイレがありますし、展望台にも(入場料を払えば)もちろんあります。センターの南には紀伊国屋書店の古い店舗があり、日本の店らしく、ちゃんとトイレがあります。いずれもB。

○東42丁目
ここは市立図書館や紀伊国屋書店の新店舗があるので、ときどき通いました。HISの支店やブック・オフ、シュークリームやケーキがおいしい店など、日系企業も多い地域です。

特筆すべきは、地下鉄駅の上にあるブライアント・パークのトイレでしょう。いつ行っても掃除がゆきとどきていて清潔、静かなクラシック音楽が流れ、その上、生花まで飾られています。

僕の経験では、ニューヨークでここ以上にきれいな公衆トイレを知りません。なんでも、どこかの企業(シティ・バンクだったかターゲットだったか)が費用を出してメンテナンスをしているとのこと。こういうやり方がもっと広まればいいのにね。ランク特A。トイレってわざわざ行くところじゃありませんが、一度は出かけてみる価値あり、です。

ブライアント・パーク隣の市立図書館にもトイレがあります。ただ、玄関を入るときに荷物チェックがあるので面倒かも。ここは建築も素晴らしいし、グーテンベルクの聖書や大航海時代の地球儀なども展示されており、トイレだけ使って出てくるのではもったいない。ランクはA。

ブライアント・パークに向かい合った紀伊国屋書店にもトイレがあり、小さいけれど、今年開店したばかりなのできれいです。ランクA。

○5番街
51丁目からセントラル・パークにかけて、有名ブランド・ショップが並ぶ買い物ゾーンにはあまり行かなかったので、正直、よく分かりません。

でもティファニーにはトイレがありましたし、高級デパート、バーグドルフ・グッドマン(BERGDORF GOODMAN)にもありますから、遠慮せずどちらかを使えば問題ありません。ティファニーに入って、さすがに美しく清潔なトイレだけを使って出てくる、なんてのもいいかも。少し北に行けばデパートのバーニーズ(BARNEYS NEW YORK)もあります。いずれもAランク。

<アップタウン>

○セントラル・パーク
セントラル・パークには数カ所のトイレがあり、ところどころ立っている案内ボードを見れば分かります。広大な芝生で、いつも人がいっぱいのシープ・メドウ脇には移動式簡易トイレがありますが、不潔です。特に女性は使う気になれないでしょうね。公園の南西角コロンバス・サークルに面してタイム・ワーナー・センターがあり、きれいなトイレがあります。

○アッパー・イーストサイド
メトロポリタン、ホイットニー、グッゲンハイムなど美術館、博物館が多い地域です。ここへ行くには地下鉄4・5・6ラインを使うのですが、駅から目的地まで高級住宅街を歩くことになるので、公共トイレはまずありません。僕はいつも駅周辺のスターバックス、あるいは美術館のなかと決めてました。

○ハーレム
ここも公共トイレはまず見つかりません。近くのセントラル・パーク北端にあるトイレくらいでしょうか。スターバックスかマクドナルドを使うのが無難ですね。アポロ・シアター近くにはソウル・フードの店、マナズ(MANNAS)があり、デリ形式で気軽に入れるので、僕はいつもここを利用してました。

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October 28, 2008

NYの記憶・10 トイレ地図

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(アパートのあるブルックリンのウィロビー・ストリート)

ニューヨークに公共のトイレ(こちらではレスト・ルーム rest room)が少ないことは有名ですね。

町歩きする観光客がいちばん頭を悩ますのがトイレですが、ニューヨークの住民だって同じ悩みを抱えています。

なにしろニューヨークは鉄道の駅にトイレがない。グランド・セントラル駅とかペンシルバニア駅とか、ニューヨークの玄関口にあたる大きな駅にはもちろんありますが、市内を縦横に走っている19ラインの地下鉄駅にはほとんど見かけません。たまにあっても、たいてい鍵がかかっていて使えません。

ニューヨークの地下鉄は、かつてのように危険な目にあうことはまずないし、東京や大阪のJRと地下鉄と私鉄をあわせたような存在で、市内のどこへ行くにも利用しますから、これは困ります。

鉄道だけでなく、公園も似たような事情です。さすがにセントラル・パークには何カ所もトイレがあるけれど、街角の小さな公園にはまずありません。あったとしても金網に囲まれた子供専用グラウンドのなかで、子供とその保護者しか使えない。それも暗くなると鍵をかけられてしまいます。

なぜこうなったかというと、1960~80年代にかけて治安が悪化した時代に、トイレは絶好の犯罪の舞台になったからですね。考えてもみてください。トイレでホールド・アップなどされた日には、どうにも抵抗できませんもんね。というわけで、その時代に地下鉄や公園のトイレは次々に撤去・閉鎖されてしまった。その状態が今にいたるまで続いています。

ニューヨークに1年間住むことを決めたとき、まず頭を横切ったのもそのことでした。自慢じゃありませんが、ジジイはトイレが近い。東京ならば、自分の普段の行動範囲のどこにトイレがあるか、だいたい分かってますが、知らない町ではそうはいきません。

去年の8月、ブルックリンのアパートに入居してまずやったことは、自分の行動半径内のトイレ地図をつくることでした。アパートのあるブルックリンのダウンタウン。語学学校のあるマンハッタンのミッドタウン。その間にあって毎日のように途中下車してはぶらついたマンハッタンのダウンタウン――ヴィレッジ、ソーホー、チャイナ・タウンといったあたりです。

まずは、タダで、しかも誰にもとがめられずに使えるトイレを探すことから始めました。デパート、ショッピング・モール、大きなホテル、大きなスーパーといったあたりがそれに当たります。ホテルとスーパーに「大きな」とつけたのは、例えば中小のホテルだとトイレの入口に鍵がかかっていて、宿泊客がカード・キーを差し込んで開けるシステムになっているところがあるからです。

スーパーもターゲット(TARGET)みたいに大きなスーパーには必ずありますが、ちょっと小さなところだとまずありません。ニューヨークではいまホール・フーズ(WHOLE FOODS)というオーガニック・スーパーが人気ですが、ここは必ずカフェが併設されていて、ということはトイレもあって、カフェを使わなくともトイレは使えます。僕はユニオン・スクエアやソーホーのホール・フーズを買物がてらよく使いました。

もうひとつ、意外だったのは書店です。市内のあちこちに店があるバーンズ&ノーブル(BARNES & NOBLE)とかボーダーズ(BORDERS)といった大きなチェーン書店は、店内にたいていカフェとトイレがあります。ニューヨーカーもトイレには困っていると見えて、こうしたチェーン書店はトイレがありることを売りものに客を呼んでいる、と聞いたことがあります。

ついでに言うと、日本だと複数のテナントが入って出入り自由の雑居ビルにはたいていトイレがありますが、ニューヨークではまず間違いなくトイレ入口のドアに鍵がかかっています。それぞれのテナントが鍵を持っていて、利用者はその鍵を持っていくわけです。

さて、無料トイレがどうしても見つからなかったら、お金を払ってトイレを使うしかありません。そこでいちばん役に立つのはスターバックスです。

スターバックスは市内のいたるところにあって、にぎやかな通りなら5分も歩けばたいてい見つかります。ある人は、ニューヨークのトイレ事情はスターバックスが進出して劇的に改善された、と言います。たしかに、もしスターバックスがなかったら、ニューヨークの町歩きはけっこうシビアなことになるでしょう。

もっとも、スターバックスを見つけてほっとするのはまだ早い、んですね。場所によっては、僕の観察によれば人通りが多いのに公共トイレが少ない場所、例えばチャイナタウンやアスター・プレイスのスターバックスは、いつ行ってもトイレの前に数人、多いときは5、6人が並んでる。スターバックスには余裕をもって、が肝心です。

さらに悲惨なのは、10軒か15軒に1軒くらい、トイレのないスターバックスがあることです。カプチーノを買って席に着き、さてと思ったら、トイレはありませんと言われては泣くに泣けません。1年間で2度、そういう体験をしました。そういうときは一口飲んで店を飛び出し、切迫した目で次なるマクドナルドなりディーン&デルーカ(DEAN & DELUCA)なりを探し、もう一度金を払うことになります。

もっとも、席に座って眺めていると、さっと店に入ってきて店員と目を合わさず一直線にトイレに向かい、出たらまた店員とは絶対に目を合わさずさっさとドアを開けて出ていってしまう剛の者もいます。目的の場所がどこにあるかを知っているわけですから、トイレ常連なんだろうなあ。

以上、概論でした。次に各論として極私的ニューヨーク・トイレ地図を紹介しましょう。

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October 26, 2008

『ワイルド・バレット』はアメリカ地獄巡り

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若い映画監督にとってクエンティン・タランティーノの存在はこんなにも大きいのか、と改めて思い知らされるなあ。

これが3作目というウェイン・クラマー監督の『ワイルド・バレット(原題:RUNNING SCARED)』は、エンド・ロールでプライアン・デ・パルマやウォルター・ヒルに捧げられてるけど、どう見ても『レザボア・ドッグス』をクラマー流に料理しなおした作品だなあ。しかもそれがパクリにとどまってなく、面白い。興奮する。

冒頭でまず結末を見せておいて18時間前に遡るという、時間がくるっとひとまわりする構造もそうだし、最後に互いに拳銃を突きつけあっての銃撃戦も、『レザボア・ドッグス』以後のお約束みたいなもの。

夜の艶っぽさを強調するざらざらした映像もタランティーノふうだったり、発射された弾丸の薬夾が画面手前でスローモーションで回転し、画面奥では撃たれた人間が壁に向かってぶっ飛んでゆく、凝りに凝った映像がデ・パルマふうだったりしながらも、うまい。

脇役のひとりがジョン・ウェインの熱狂的ファンで、背中に彼の入墨を入れ、いまわの際に大好きな『11人のカウボーイ』のジョンのセリフをつぶやくなんてのも、ちょっとオタクな「映画へのオマージュ」だね。

イタリア・マフィアのチンピラ、ジョーイ(ポール・ウォーカー)が、麻薬取引現場で警官を撃ってしまった銃の後  始末を任されるが、ジョーイの息子ニッキーと隣家の息子オレグ(キャメロン・ブライト)がそれを盗み、家庭で虐待されていたオレグがその銃で義父を撃ってしまう。ジョーイは、逃げたオレグと銃を発見することをボスから命じられ、夜のニュージャージーを駆けめぐる、というのが大筋。

この映画の面白さは、主人公ジョーイというより、むしろオレグとニッキーの2人の少年に大きく視点がおかれていることじゃないかな。

少年たちは、次から次に怪しげな人間がたむろする危険な場所に放り込まれる。少年たちを追うイタリア・マフィア。オレグの義父が関係するロシア・マフィア。娼婦とヒモ。汚職警官。凶暴なホームレス。小児愛好のサイコ・キラー夫婦。

オレグは逃げる先々で酷い現実を見せつけられ、あるいは自ら危機に陥っては脱出する。そんな短いエピソードがスローモーションやデジタル・エフェクトを使ってテンポよく積み重ねられる。なかでも、オレグが善良な白人夫婦を装ったサイコ・キラーに誘い込まれるあたりは、全体がハードボイルドな雰囲気のなかでそこだけキッチュなアクセントになっている。

この映画は、いわば少年たちの地獄巡り。その舞台がニューヨークと川ひとつへだてたニュージャージーという設定になっているのがまた憎い。

ニュージャージーといえば思い浮かぶのは、ここで生まれ育ったブルース・スプリングスティーンの数々の名曲。「都市のエッジ」と彼が歌うように、郊外の一軒家と貧困層の集合住宅と工場地帯と田園が混在する、ニューヨークとはまた違った風景のなかで逃亡劇が展開する。追いつ追われつのなかで繰り返し登場するダイナーがまた、ちょっと野暮ったくていい。

サイコキラー夫婦の住むホーボーケンはじめニュージャージーのあちこちを巡った映画はやがて川を越えてニューヨークに舞台を移し、ロシア・コミュニティーがあるブルックリンのブライトン・ビーチでクライマックスを迎える。

映画のなかで「アメリカ人」というセリフと星条旗が一度ずつ出てくる。セリフは、ロシア人少年オレグがロシアの音楽が好きだと言ったことに対して、ジョーイが、それじゃあアメリカ人とはいえない(だったか? うろ覚え)とかしゃべる車のなかのシーン。旗のほうは、ラストのどんでん返し(それも2重の。あまり効果的じゃないけど)で、棺を包む星条旗として登場する。

この「アメリカ人」というセリフと星条旗、僕には意図的に感じられ、少年たちの逃亡劇がどこでもないアメリカの地獄巡りであることを強調しているように印象された。

ところでひとつだけ分からないことがある。

オレグはいつも「NJ RAZORS」とロゴの入ったトレーナーを着てる。ジョーイと息子との会話でも、「レイザーズのチケットがある」というセリフが出てくる。でも僕の知るかぎり、NJ RAZORSって野球チームもバスケットボールもアイス・ホッケーのチームもないんだな。ニュージャージーでバスケットといえばネッツだし、アイスホッケーはデビルスだ。野球の地元マイナー・チームかなと思ってグーグルを引いたけど出てこない。ニュージャージーの人間ならすぐ分かるんだろうけど、さて?

もうひとつの可能性は、野球にしろバスケにしろNJ RAZORSというチームはそもそも存在しなくて、架空のチームだということ。万一それが本当なら、これは意味を持ってくるね。

この映画は少年の地獄巡りだと言ったけど、NJ RAZORSが架空チームなら、もう一歩踏み込んで、この映画はニュージャージーを舞台にリアルを装ったブラック・ファンタジー、ひっくり返されたお伽話と言うこともできるかもしれないな。リアルなようでいてリアルでない、現実と架空が入れ子になった映画。

エンド・ロールのアニメーションがそれを暗示しているようにも、また(安価な)チェコで撮影され、現実のニュージャージーやニューヨークとは微妙に空気感が違うのも意味ありげに思えてくる。


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October 21, 2008

『ボーダータウン 報道されない殺人者』のフアレス

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『ボーダータウン 報道されない殺人者』を見に行ったのは、映画の舞台になったメキシコのシウダー・フアレス(Ciudad Juarez)に3カ月ほど前、ちょっとだけ行ったことがあるからだ。

シウダー・フアレスは国境であるリオグランデ河をはさんで、米国側のエル・パソと向かい合っている。シウダー・フアレスとエル・パソはもともとひとつの町だったけれど、100年前の米西(メキシコ)戦争で町の真ん中を流れるリオグランデ河に国境線が引かれ、両国に別れてしまった。

シウダー・フアレスは名うての犯罪都市だ。米西両国間に自由貿易協定が結ばれたことで関税がかからなくなり、国境の町・フアレスには米国向け製品をつくる工場がたくさんできた。そこでは、メキシコ各地から集まった貧しい先住民の少女が安い賃金で働いている。そんな少女たちが15年間で500人以上、行方不明になったまま、いまだに真相が解明されていないという。

映画はこの事実を基にしたミステリーになっている。

少女たちは乱暴され殺されるが、犯罪にはフアレスの上流階級や企業家、アメリカ、メキシコ双方の政治家が絡む設定になっている(現実に、そのように噂されている)。警察も犯罪者や企業家に買収され、事件をむしろ隠そうとする。事実を追及するジャーナリストのジェニファー・ロペスやアントニオ・バンデラスは命を狙われる。

映画は社会派サスペンスとしてそれなりに面白かった。ボーダーレスになった経済が、いまだにボーダーで仕切られた国家間の格差を利用して、その最前線であるボーダータウンでどんなふうに利益を上げているのか。その結果、底辺で働く少女たちにどんな酷い事態をもたらしているか。隠された事実を世に知らしめる意味は十分にある。

ただ、僕は社会派映画があまり好きじゃないという偏見を承知の上で言えば、告発や啓蒙という枠を超えた深いところまで映画が届いていなかったのは、ジェニファー・ロペス主演のハリウッド映画として仕方ないというか、残念。

もっとも、夜のシウダー・フアレスの映像はリアルだった(僕も訪れたグアダルーペ・ミッションが映っていたから、実際にロケしてると思う)。うす暗い町と、それを切り裂くヘッドライトの光。丘上のスラム。闇の砂漠と惨劇の現場となる廃品置き場。僕は昼間に短時間訪れただけだったから、夜のこの町を知らないけど、うーん、暗くなったシウダー・フアレスはこういう空気に包まれるのか。

以前やっていたブログ「不良老年のNY独り暮らし」の「エル・パソの旅 2」でもアップしたことがあるけど、エル・パソへ旅行したとき、半日だけ国境を超えてシウダー・フアレスを歩いた。

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エル・パソから見たシウダー・フアレス。画面手前がエル・パソで、奥のひときわ明るい部分がフアレス。明るいのは人口密度がエル・パソよりずっと高いから。

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フアレス側から見たアメリカ・メキシコ国境。

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シウダー・フアレスは麻薬組織がはびこっていることでも知られる。エル・パソのホテルで新聞を読んでいたら、シウダー・フアレスで1人の警官と2人の州調査官が麻薬密輸組織の手で殺された、という記事が載っていた。警察署のドアに殺人予告リストが貼られていたそうだ。

今年、シウダー・フアレスでは400件以上(!)の殺人が起きていて、その大部分が麻薬組織がらみだという。この町ではアメリカへの麻薬密輸が最大の「産業」で、組織にかかわっている警察官や公務員も多いらしい。

国境までホテルのシャトルバスで送ってもらったときも、運転手氏が、「メキシコ人は皆いい奴だけど、麻薬組織の人間だけは危険だ」「警官に話しかけられても信用するな」と言っていた。

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昼間にメインストリートを歩いただけだったから犯罪都市の匂いは感じられなかったけど、エル・パソの観光案内所で、フアレスに行くなら人通りのない細い道に入り込まないようにと注意された。

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October 18, 2008

NYの記憶・9 生徒たち(6)

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(学校そばの公園。空を見上げると、エンパイア・ステート・ビルの先端が見える)

あまり深いつきあいはなかったけれど、ワン・シーンだけ鮮やかに記憶に残っている生徒もいる。

トルコから来たBは彫刻家だった。頬から顎にかけて髭面だから歳を取っているように見えたけれど、ある日、髭を剃ってきたのを見たら若々しい青年だった。

彼とはJのクラスでなく、別の会話クラスで一緒だった。2年ほど在籍しているから英語力はあって、授業は熱心でなく、時間中、ずっと隣の生徒の姿をスケッチしている。そして自分に興味のある話題になったときだけ発言する。

彫刻家といっても昔ながらの彫刻だけでなく、公共の場所にモニュメントなどもつくっている。ホームページを持っているというので見せてもらったら、トルコでつくったモニュメントがあった。細い金属で人間をかたちどったもので、それが「見ざる言わざる聞かざる」のような姿勢をしている。

トルコはイスラム教国だけど近代化してEC加盟を目指している国であり、その一方、クルドなど少数民族問題もあって、国内にいろんな緊張を抱えこんでいる。

「この作品からはあなたのメッセージを感ずるね」と言ったら、Bは「アートは時に社会的な力を持たなきゃいけないと思う」と答えた。日頃、おだやかで政治的な話題は聞いたことがなかっただけに意外な気がした。

僕が最後に授業に出た日、記念にBにスケッチを描いてもらおうと思ったんだけど、残念ながらその日、Bは欠席した。それがちょっとした心残りになっている。

Jのクラスの生徒であるMもアーチストだった。チリから来ている彼女は20代後半。眼がぱっちりと大きい美人。長身で、いつもセンスのいい格好をしている。

一度、ニューヨークの地下鉄パスやいろんなチケットや自分で撮った写真をコラージュして貼った日記風の「作品」を見せてもらったことがある。

BはJの「お気に入り」の生徒だった。ゲイであるJから見ても彼女は魅力的だったんだろうし、それだけでなく、授業でBは性的なことも平気でしゃべるので、ほかの若い生徒がはやしたて、授業に活気が出てやりやすいという理由もあったかもしれない。

一度、Bが教室にアナイス・ニンの単行本を持ってきたことがある。カバーがヌードだったので、Jが「Bがポルノを読んでいる」とからかうと、周りの若い子たちが「見せて」「見せて」と大騒ぎになった。Bが「違う、これはポルノじゃない」と言っても収まらない。そこで僕が「アナイス・ニンはポルノじゃない。ちゃんとした小説だよ」と助け船を出したことがあった。

それがきっかけで話してみると、映画や音楽の趣味もけっこう合う。彼女はシャーディが大好きで、いつもipodで聞いている。僕が、「シャーディのコンサートに行ったことがあるよ」と言ったら、「え、ほんと?」と、なんとも羨ましそうな顔をして、「あなたと私は同じ資質を持っているみたい」と言う。若い美人のアーチストにそう言われてもちろん悪い気はしなかったなあ。

ペルーから来たDは小柄で黒髪、色黒の肌にきりりとした目と眉。ひとめでインディオの血を引いていると分かる風貌をしていた。

彼はクラスに顔を出したり、休んだり、あまりほめられた出席率ではなかった。教室に出てきても、授業中ほとんどしゃべらず、周りを冷笑するような表情を浮かべていつも貧乏揺すりをしている。隣に座っているとかすかにその振動が伝わってきて、何かにいらだっているらしいDの気持ちまで感じられるようだった。

授業ではときどき、さまざまなテーマを生徒が3人1組になって議論することがある。あるとき、Bとイタリアから来たEと僕の3人が組んで討論したことがあった。

確かエコロジーがテーマだったと思う。Eと僕とがイタリアと日本のエコロジーの取り組みについて話した後、Dの番になった。Dはひとこと、「あなたがたの国はもう豊かになったから、それでいい。でも僕の国は貧しい。エコロジーを考えるような余裕はないんだ」とだけ言った。Eも僕も、Dの言葉をうまくフォローしてあげるだけの英語力を持っていなくて、議論はそこで終わりになってしまった。

Dはアルバイトが忙しくなったのか、その後、クラスから姿を消した。

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October 15, 2008

NYの記憶・8 生徒たち(5)

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(学校の近く、ブロードウェーと西32丁目角の公園。3ドルのピザを買って、よくここで昼食を食べた)

学校には韓国人も多かったけど、わりと長いことクラスで一緒だった生徒が2人いた。

Kはいつもおしゃれなストリート・ファッションで授業に来ていた。レアものスニーカー、村上隆のイラストをプリントしたTシャツ、アフリカ系若者が好んでかぶる鍔の真っ平らなキャップ(鍔がカーブした普通のキャップは主に白人中高年のもの)。これはもちろんKの趣味なんだけど、それだけでなく彼の商売でもあった。

Kは法律を勉強しにニューヨークに来てるんだけど、カレッジと語学学校の合間にアルバイトをやっていた。韓国では手に入らないレアものスニーカーやTシャツ、スケートボードなどを買っては韓国に送り、それを仲間が高値で販売している。「今日はこういうのを見つけたよ」と言って、よくスニーカーやスケボーを教室に持ってきた。特に村上隆のTシャツやスケボーが人気なんだって。

Kは明るくて気持ちのいい男で、今どきの若者らしく日本に対して屈折した感情をまったく持っていない。僕より英語力があったから、授業で日本や韓国、アジアの話題になって僕が話に詰まると、よく助け船を出してくれた。

そんなKの悩みは、商売がうまくいっていることだった。もともとアルバイトで始めたのに、彼が韓国に送ったアイテムが売れて、けっこう金になっているらしい。これを本気で商売にしていくのか、それとも本来の目的である法律の勉強に立ち戻るのか。韓国でにしろ、アメリカでにしろ、弁護士その他法律で飯を食うんだったら、そっちも本格的にやらなきゃいけない。

僕が学校へ行くのをやめた7月には、Kはまだ結論を出していなかった。さて、どう決めたんだろう? 人ごとながら気になる。

Hは、僕が学校へ通いはじめて4、5日目に隣に座った女性。僕がハングルを読める程度の初歩的な韓国語の知識があったことから話がはずみ、その後もよく話すようになった。

20代半ばのHは、韓国でファッション関係の仕事を数年やったあと、ファッション・ビジネスの専門学校へ留学するためニューヨークに来た。仕事柄、彼女のファッション・センスはクラスでも目立つ存在だった。その上に可愛いくて東洋的な上品さを感じさせるから、クラスの若い男の子たちの注目を浴びていたと思う。

もっとも外見はしとやかだけど芯の強い韓国女性らしく、「ボーイフレンドとけんかして別れた」なんて話してくれたこともある。

Hは半年ほどしてクラスを変わり、顔を合わせることも少なくなった。そんな彼女に久しぶりに会ったのは今年の6月、学校近くの路上だった。

歩いていると、後ろからぺたぺたと足音が聞こえ、女性が携帯でしゃべっている声が近づいてくる。聞きおぼえのある声だなと思って振り返るとHだった。Hはトレーナーの上下を着て、素足にサンダル、髪はひっつめで、化粧っけもない。おまけに、半年前よりかなりふっくらしている。記憶にある、おしゃれなHとはだいぶ違うなあ。

こっちの思いを察したのか、Hは「20ポンド(9キロ)太っちゃった」と言った。こんなことは口が裂けても言えないけど、タイムトラベルして40歳のおばさんになったHに会ってしまった、ような気がした。

後で、そのことを日本人女性のクラスメートSに言ったら、「ニューヨークに慣れると緊張感がなくなって、女性はそうなりやすいの。私も気をつけなきゃ」と人ごとではない顔をした。

この言葉には注釈がいる。まず、ニューヨークでは肥満の女性は掃いて捨てるほどいる。それも超肥満といっていい太りようだから、日本人や韓国人が少し太ったくらいでは誰も気にかけないし、本人も気にならない。

さらに、ニューヨークの路上で流行のモードを身につけているおしゃれな女性はむしろ少数派に属する。東京では女性(特に若い女性)はみなおしゃれだけど、ニューヨークの大半の女性は普段履きのジーンズに安もののTシャツで平気で町を歩いている。男も同様で、僕も日本ではそんなことしないけど、部屋着のままちょっと外に出るのにまったく抵抗なかったもの。

Sが「気をつけなきゃ」と言ったのは、背後にそういう事情があるからだった。

ところでHよ、少しは減量したかい? おしゃれをしてるかい?


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October 13, 2008

サッカー全日本ユース選手権

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ニューヨークにはコンパクト・デジカメを持っていったので、一眼レフには1年以上触ってない。そもそもあんまり使ってなかったので、操作をすっかり忘れてしまった。カンを取り戻さなきゃと思っていたら、埼玉スタジアムでサッカーの全日本ユース選手権決勝があることを知ったので、トレーニングかたがた出かけることにした。

埼玉スタジアムは市内にあるのに、アクセスがものすごく悪い。

電車でもバスでもチャリでも1時間以上かかり、混んでいると千駄ヶ谷の国立競技場へ行くほうが早かったりする。駅からは遠く、W杯から何年もたつのに駐車場もまだ整備されず、利用者のことを考えず器だけつくった典型的なお役所仕事。熱狂的なレッズ・サポーターはアクセスの悪さなどものともしないのかもしれないけど、ひどすぎるよ。

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決勝は浦和レッズ・ユース対名古屋グランパス・ユース。僕は旧浦和市の住民なので、熱狂的ではないけど一応浦和サポーターということになっている。ユースの大会というのに1万5000人の観衆で、言うまでもなくスタンドは真っ赤。

ゲームは9対1と、サッカーのスコアとは思えない点差で浦和の圧勝でした。

勝敗の興味は早々に薄れたけど、サポーターとしては見てて気持ちいいゲーム。浦和はワンタッチでスピードあるパス回しから、相手を崩してはシュート、あるいは遠目からミドル・シュートで次々に点を重ねる。

特に2点目、FW原口元気がボレーでゴール左上隅に決めたミドル・シュートは鮮やかでしたね。MF山田直輝がハット・トリック、FW高橋峻希も2点。高橋は小柄だけどよく動いて、あらゆる局面に顔を出す。

この3人は既にトップ・チームのゲームにも出たことがあるらしく、それも納得の動きでした。こういう若い選手を見てるのは嬉しい。このユース・チーム、ひょっとしたらアジア・チャンピオンを目指しているトップ・チームより面白いんじゃないかな。

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高橋峻希の7点目。キーパーの逆をつく見事なシュート。

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阪野豊史の8点目。キーパーが止めたけど、こぼれたボールがころころとゴールへ。

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October 12, 2008

NYの記憶・7 生徒たち(4)

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(イタリアから来たクラス仲間)

ポーランドから来た女性、Cのしゃべる英語はとにかく聞きづらかった。

学校に通いはじめたころ、教師のJがしゃべる英語の半分ほどしか聞き取れなくて愕然としたけれど、それ以上にショックだったのは、生徒たちの英語がもっと聞き取りにくかったことだ。

スペイン語訛りだったり、中国語訛りだったり、ロシア語訛りだったりして、簡単な日常会話はともかく授業での討論になると、最初の1カ月、生徒のしゃべる言葉のほんの一部しか意味が取れないことが多かった(そのときは分からなかったけど、彼らの英語は文法的にもけっこうひどかった)。

なかでもCが話はじめると、母語がポーランド語という日本人になじみの薄い言語でこちらにカンが働かないせいか、口のなかでくぐもったようにごにょごにょ音を出す発音のせいか、とても英語をしゃべっているとは思えない。

彼女はクラスのちょっとした「困ったちゃん」で、すべてのことにシニックで否定的な発言をする。授業中、Jが彼女に発言を振ると、眉間に皺をよせ、身振り手振りを交えてなにやかやとすべてに文句をつけはじめる。Cがしゃべりだすと、クラスには、またか、といった苦笑まじりの空気が流れた。

そんなパーソナリティが彼女のどんな生まれ育ちのなかで培われたものかは分からないけど、幸いそのネガティブな発言が他人に、特にクラス仲間と彼らの出身国に向かうことはなかった。

Jが話してくれたところでは、以前、クラスには本当の「困ったちゃん」がいたそうだ。ロシア女性で、彼女の発言はいつも他の国、他の人間を攻撃するのが常だったという。Jはたまりかねて、「明日からクラスに来るな」と彼女を「キック・アウトした」という。

Cは「困ったちゃん」といってもクラスの空気を少し乱す程度で、ロシアの「困ったちゃん」のようなことはなかった。20代後半の若さなのにいつも悲しげな目をしていて、授業中になんとなし彼女を眺めていると、どんな人生を送って今、ここニューヨークにいるんだろうとつい想像してしまう。

どんな事情があったか知らないが、Cはそのうちクラスに姿を見せなくなってしまった。彼女はポーランド人コミュニティがあるブルックリンのグリーンポイントに家族と住んでいた。彼女が学校を欠席している間に一度だけ、グリーンポイントの地下鉄通路で足早に歩いて人混みに消える彼女を見かけたことがある。

3カ月ほどして、Cがクラスに戻ってきた。彼女が久しぶりに授業でしゃべりはじめたとき、以前にはほとんど聞き取れなかったCの発言が意外にもよく理解できるのに気がついた。おや、けっこう聞き取れるじゃん、知らないうちに少しはリスニングの腕が上がったのかと嬉しくなったのを覚えている。

最初の数カ月は、「ハーイ」と挨拶してもしかめ面でかすかにうなずくだけだったCが、クラスに戻ってからはにっこり笑って挨拶を返してくれるようになっていた。

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October 11, 2008

NYの記憶・6 生徒たち(3)

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(イタリアから来たクラス仲間)

学校に通いはじめた去年の秋、クラスにはアフリカから来た生徒が2人いた。

2人ともガーナの出身だった。Mはやや太め、眼鏡をかけ、言葉数が少ない。クラスの仲間とはあまりしゃべらず、教室にいつも携帯型のDVDプレイヤーを持ち込んで、休み時間にはたいていひとりでアメリカ映画を見ていた。

半年を過ぎたころから、Mは僕の隣の席が空いていると、そに座ることが多くなった。

教室は壁に沿ってコの字型に椅子が並べられ、入ってきた者から自由に席を取れることになっている。仲のいい同士は並んで座ることが多いから、誰がどこに座るかを観察していると、あの2人は仲がいいんだな、ひょっとしてこの2人はできちゃったのかな、なんぞと見当がつく。

生徒の大多数は20代、30代で、僕は彼らの親の世代に当たるからちょっと別扱いという感じで、隣の席には少数いる40代50代や家庭を持っている者、あるいはクラスに友達が少ない生徒が座ることが多かった。

Mが僕の隣によく座るようになったのには訳がある。彼が親しかったもうひとりのアフリカ人学生、Lがいなくなってしまったからだ。

LはMと対照的に細身の長身。陽気で冗談好きなところもMと正反対で、誰にも気軽に話しかけてくる。僕にも笑顔で、決まって「ハーイ、コンニチハ」とひとつだけ覚えた日本語で挨拶してくる。

LもMもアルバイトをしていたけれど、2人がどんなビザを持っていたのかは分からない。そのLが、タクシードライバーになると言いはじめたのだ。Lは教師のJに相談したが、Jはそれを止めようとした。Jはこう言ったそうだ。

タクシードライバーになれば、朝から深夜までの仕事だから学校には来られないだろう。いま学校を止めたら、英語力はそれ以上上がらない(僕と同じクラスだから、日常会話はなんとかできても、それ以上むずかしいビジネスの専門的な話はできない)。ということは、君は今後、もっといい職につくことができないということだ。アメリカでそれ以上の生活はできないということだ。それでいいのか。

別の機会に、教室で欠席者や遅刻が目立つとき、Jはこうも言ったことがある。

この学校に来ているということは、それだけで、学校へ来ていない(英語ができない)人間よりひとつ上の生活ができるチャンスをつかんだということだ。英語ができなければ、この国で就ける職業は肉体労働か、せいぜいレストランのウェイターまでだ。君たちはいい暮らしをしたくてこの国に来たんだろう。休んだり遅刻する者が多いけど、学校へ来るのはそういう意味を持っていると考えなきゃいけない。

これは、僕のようにニューヨークで遊び暮らしている人間や、多くの日本人学生がそうであるようにカレッジや専門学校に留学するために来ている人間、あるいはニューヨーク生活を楽しみながら英語を勉強して国に帰ろうと思っている生徒に対して言ったのじゃあない。たいていは貧しい国から来て、なんとかこの国で生きていこうとしている生徒に向かって、Jは言ったのだった。

アメリカは豊かな者と貧しい者がくっきり分かれ、1950~70年代には多数いた中産階級もその上層と下層が上下に(どちらかといえば下に)分解しかけている階級社会だ。そのなかで、語学もまた階級を決める重要な要素であることを改めて知らされた。

LはJが止めたにもかかわらずタクシードライバーになり、その後、学校に戻ることはなかった。そのことがはっきりした翌日、Jは教室で「Lはタクシードライバーになった」とだけ短く報告した。

 


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October 06, 2008

NYの記憶・5 生徒たち(2)

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(クラスの仲間)

語学学校は普通の学校とちがって生徒の出入りが激しい。

僕のいるALCCは1週間単位で生徒を受け入れていた。外国からくる生徒の大半は観光ビザで、3カ月以内の短期留学というかたちをとる。彼らは顔なじみになったかと思うと、いつの間にかいなくなっている。

僕のように学生ビザを持っていた人間は長期に在籍することが多いけれど、彼らも本来の目的であるカレッジや専門学校が忙しくなったり、語学に自信がついたり、あるいは何らかの事情があって顔を見せなくなる。だから1年を通して同じクラスにいたのは、ほんの数人にすぎない。

生徒のほとんどは僕の息子や娘より若くて互いに遠慮や敬遠もあったし、語学力の問題もあったから、授業が終わってから学校の外でもつきあいのあった生徒は少ない。でも、ほんの数週間一緒にいただけなのに記憶に残っている子たちも何人かいる。

イタリアから来たAは、初めて授業に出た日に隣り合わせ、クラスで最初に会話を交わした生徒だった。20代後半、目がくりくりっと大きい長髪の大学生。最初の授業で僕がまだテキストを用意していなかったのを見て、隣に座ったAが見せてくれた。授業が終わって英語がよく理解できず自信を失いかけた僕が、「授業についていけない」と言うと、「ともかく何日か来てみたら」と、その後、教師のJが言ったのと似たことを言ってくれた。

Aは授業では活発に発言し、クラスを明るくリードしていた。そんなAを見習って、授業ではできるだけ発言するようにした。授業はいわば「言った者勝ち」で、自分から発言しないと3時間の授業に1度も発言しないで終わってしまうこともある(Jはできるだけ多くの学生に発言させるよう話題を振るのだが、いつも黙ったままの生徒もいる)。

Aは3カ月の観光ビザでアメリカに来ていた。ハーレムに部屋を借り、学校が終わると毎日のようにニューヨークのあちこちを歩き回っていた。僕が国際写真センター(ICP)のロバート・キャパ展の話をしたら興味を持って、クラスメートと一緒に行ったこともある。ハーレムで日曜にゴスペルを聞ける教会を教えてくれたのもAだった。

どんな機会だったか、60歳を過ぎてNYで独り暮らししている僕に、「あなたは勇気がある」と言ってくれたことがある。こっちも体調が万全でないので、たまに独り暮らしが心細くなることもあったけれど、そんなとき、Aがああ言ってくれたな、と考えて自分を励ましたりした。

2カ月後、Aは、これからパリに行って(観光ビザで)3カ月暮らし、その後、NYに戻ってまた3カ月暮らすつもりだ、と言って去っていった。また会えるのを楽しみにしてるよ、と言って別れたけれど、結局、Aは帰ってこなかった。自分の子供より若い学生だったけれど、NYに来てとまどっている僕に、こうすればいいんだというロール・モデルの役を果たしてくれた。


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October 02, 2008

NYの記憶・4 生徒たち

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(クラスの仲間)

いつだったか、クラスでニューヨークに住む外国人について議論することになったときだったと思う。教師のJが、あらかじめこう言った。「ただし、他の国の人間の悪口を言わない。ビザについては話さない」。

なるほど。確かに、両方とも微妙な問題に触れることになるからな。

ニューヨークはアメリカではない、とよく言われる。その理由は政治経済から文化的な問題にまで及ぶけれど、単純な事実として、ニューヨークは他の都市に比べて外国人が圧倒的に多い。世界中のあらゆる国からたくさんの人間が合法非合法に集まってきている。ロスアンゼルスやマイアミにも外国人は多いけれど、その数と国籍の多様さはニューヨークの比ではない。

それをかつては「ニューヨークは人種のるつぼ」と表現したけれど、今は「ニューヨークは人種のサラダ・ボウル」と呼ぶ。

るつぼのなかで金属(人種)は溶けて融合する。でもサラダ・ボウルのなかで、どんなに混じりあってもレタスはレタスであり、トマトはトマトであるように、ヒスパニックはヒスパニックとして、中国人は中国人として(ヒスパニックや中国系のなかでもさらにそれぞれの国と民族に分かれて)暮らしている。そこには融合ではなく棲み分けと区別があり、それは時として対立や差別にもつながる。

僕のいるクラスは仲がよくて対立こそなかったけれど、多様性という意味ではニューヨークの縮図のようなものだった。

クラスは少ないときで十数人、多いときは名簿上で30人を超えることもあった。その時々で出入りが激しいけれど、おおざっぱな印象で言えば、いちばん多いのは中南米から来たヒスパニックだった。スペイン語でなくポルトガル語を話すブラジル人を加えれば、その数はさらに多くなる。クラスの3分の1を超えるだろうか。

南米のコロンビア、ベネズエラ、ペルー、ブラジル、カリブ海のドミニカ、中米のメキシコから来た生徒が多かった。白人と先住民の血が混じる典型的なヒスパニックの容貌を持った生徒だけでなく、金髪碧眼や東洋系(ベネズエラ、コロンビアには中国移民が多い)の女姓もいた。

彼ら彼女らの多くは学校が終わるとパートタイムのアルバイトをしていて、できればちゃんとした仕事を見つけてアメリカに永住したい希望を持っていた。あるいは英語を勉強にして国に帰り、語学を生かして有利な職につきたいと願っていた。

中南米のヒスパニックに次いで多いのは、ヨーロッパ各国から来た学生だろう。特に多かったのはイタリアとスペイン。他にスイス、ポーランド、フランスといったところ。アイスランド、アルバニア、マケドニアから来た生徒もいて、それらの国の人間に会ったのは初めてのことだった。

ヨーロッパから来た生徒は観光ビザを持っていることが多く、学校や職場の休暇を利用してビザの期限である3カ月だけ滞在して学校に通ってきていた。ほかに留学してカレッジに通う準備で語学学校に来ている生徒や、この町で仕事を見つけてアメリカで暮らしていこうとしている生徒もいる。

もうひとつのグループは東洋人。中国系がいちばん多く、次いで韓国系と日本人といったところか。他にバングラデシュ、ウズベキスタンから来た生徒もいた。中国系は本土、香港、台湾から来た生徒がそれぞれにいた。留学してカレッジに通っている生徒、観光ビザで短期間だけ在籍する生徒、どういうビザを持っているかは分からないがニューヨークで働きながら通ってきている生徒と人それぞれ、さまざまだった。

少数だけどアフリカから来ている生徒もいる。出身はガーナ、ナイジェリア、セネガルなど。概して裕福な家の子どもという感じの生徒が多かったが、難民収容所にいたことがある、という子もいた。

生徒たちはさまざまなビザ、さまざまな資格を持って(あるいは持たずに)学校に通ってきていた。教師のJが「ビザについては話題にしない」と言ったのは、なかには公にできない事情を抱えている生徒もいたからだろう。

クラスの出入りを見ての印象だけど、いちばん多かったのは観光ビザで入ってきた生徒だろうか。国によって期限が違うようだけど、観光ビザは日本人がそうであるように3カ月というのが一般的だ。だから学校や職場の休暇を利用してニューヨークに来て語学学校に通っている、というケースが多い。短期の留学だから、やっと顔なじみになったと思うと、いつの間にか姿が見えなくなっている。

でもその3カ月を過ぎても帰らないと、不法滞在ということになる。どのくらいの数かは見当がつかないけれど、クラスにも学校にも、こういう生徒がいたことは確かだ。ビザが切れてもそのまま滞在し、アルバイト的な仕事をして生活費をかせぎながら、いずれきちんとした仕事を見つけて就労ビザやグリーンカードを取りたい、というのが彼らの希望だ。

僕は学生ビザを持っていたけれど、同じように学生ビザを持っていたのはクラスの4分の1程度だろうか。学生ビザの有効期間は5年。だから授業料を払い、決められた出席率を維持していれば、最長5年は滞在できる。学生ビザを持っている生徒の大半は、カレッジに、あるいはアートやビジネスなど専門学校に留学するためにニューヨークに来て、語学力をつけるために学校に来ている、というケースだ。

でも学生ビザを持ちながらカレッジや専門学校には行かずに仕事をしたり(むろん不法)、自分でビジネスをしている生徒もなかにはいた。彼らは、70%以上と定めれた出席率をクリアし、ビザを維持するためにだけクラスに顔を出す。2、3年滞在している場合が多く英語力はついているから、授業にはあまり関心を示さないし、しばしば遅刻早退する。担任のJは、こういう生徒を授業のじゃまになると嫌っていた。

ほかにきちんとしたビザやグリーンカードを持っている生徒も少数ながらいた。勤め先や公的機関からニューヨークへ派遣されて語学を学んでいるケース。アメリカ人と結婚したけれど、まだ英語で十分に会話できないので、というケース。

いずれにしても、僕のように働かずに遊んでいる生徒は少数だった。たいていの生徒がなんらかの形で働いている。

彼らが合法的に働いているのか、非合法に働いているのかは、親しくなった人間を除いてはよく分からなかった。でも観光ビザや学生ビザでは就労できないから、かなりの数の学生が非合法で働いていたんじゃないかと思う。深夜まで、時には朝まで仕事をしている彼らが遅刻したり、授業中に居眠りしているのを見ると、少しばかりの後ろめたさと、若さへのうらやましさを同時に感じたものだった。


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