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September 30, 2008

NYの記憶・3 担任教師Jの肖像

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(右端が担任教師のJ。教室でのパーティーで)

語学学校ALCCに入学するとまず簡単な会話テストがあって、どのクラスに振り分けられるかが決まる。僕はレベル1からレベル8までの8段階のうち、上から3番目のレベル6クラスに入ることになった。

いくつかあるレベル6クラスのひとつ、15人ほどの生徒がいる教室の担任がJだった。

初日。何十年かぶりに学校の授業を受ける(しかも英語の)ことになり恐る恐る教室へ行ったら不安は的中した。授業でJのしゃべる英語のせいぜい半分くらいしか理解できない。学生たちのしゃべるスペイン語訛りや中国語訛りの英語はもっと分からない。

クラス振り分けのテストは一問一答だった。1960年代に英語教育を受けた僕らの世代はヒアリングやスピーキングの授業がゼロだったかわり、文法はけっこうたたき込まれており、試験官の簡単な質問に文法的には正しい答えをしたんだと思う。それで実力より高いクラスに放り込まれてしまったんじゃないだろうか。後で知ったけど、日常会話は僕よりずっと自由にしゃべれても文法はデタラメな学生がけっこういて、彼らは下のレベルのクラスに入っていた。

初日、2日目と3時間の授業を受けて絶望的な気持ちになってしまった。で、Jのところに行って「授業が分からない。もっと下のレベルに変えてほしい」と頼んだのがJとの最初の会話だった。「でも君はしゃべってるじゃないか(なんとか理解できる部分で2、3回発言したので)。ともかく1週間クラスにいて、それから相談しよう」というのがJの答えだった。まあ、初めてクラスに入った生徒がよく陥る心理で、またこいつもか、と思ったんじゃないかな。

ともかく1週間、あと1週間と思って授業に出ているうちにクラスメートとも親しくなり、しばらく頑張ってみるかという気分になった。

Jの授業はなかなか面白かった。決められたテキスト以外に、アメリカの近代詩や現代小説をテキストに討論したりする。なにしろ「ケチな学校」(J曰く)でコピー代も教師持ちだったから、Jは自費を持ち出して授業していたわけで、意欲が感じられない教師が多いなかでは異色の存在だった。もっとも、詩や小説に興味がなく、実用英語を求める学生のなかにはクラスを移る子も多かったけれど。ともあれ、なんとか授業についていくうちに、Jとはけっこう気が合うことが分かってきた。

なにより、映画の好みが一致する。Jはハリウッドの大作がともかく嫌いで、クセのあるアメリカ映画を選んでは毎週のように見に行っていた。僕も英語の勉強と称して週に1本は見ることにしていたから、授業前にたびたび情報交換をするようになった。彼が『ヴィレッジ・ヴォイス』のJ・ホバーマンの批評は信頼できるよと言うので、毎週、『ヴォイス』の映画欄を見るようにもなった。

最初に、これはいいと2人の意見が一致したのはデヴィッド・クローネンバーグの『イースタン・プロミセズ』だったと思う。ガス・ヴァン・サントの『パラノイド・パーク』はJの勧めで見に行って面白かった映画だったし、逆に僕が勧めてJも面白いと言ったのがシドニー・ルメットの『ビフォア・ザ・デビル・ノウズ・ユウ・ア・デッド』だった。アメリカ映画ではないけれど『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』は、僕がこれは絶対にお勧めと言い、Jも「素晴らしい」と感激した作品だった。

Jは日本映画もけっこう見ており、『砂の女』を「自分が見たモノクロ映画のベスト」と言っていた。授業の合間に大江健三郎『個人的な体験』の英訳本を読んでいたこともある(そんなこともあったので、Jが学校を辞めるときは安部公房『砂の女』の英訳本をプレゼントした)。

Jはブラッド・ピットに似ている、と女の子たちは噂していた。別のクラスには、Jに思いを寄せている生徒もいたらしい(こういうことは、どの時代、どこの国でも起こる)。でもJは見向きもしなかった。なぜなら彼はゲイだったから。

Jの雰囲気や興味の持ち方から、ゲイかもしれないね、と親しいクラスメートと話したことがあった。教室でそのことに触れることはなかったけれど、今年の初夏、僕が南部へ旅行して授業を休んでいるときに、Jは自らゲイであることを教室でしゃべったそうだ。

彼は授業でも、意外なほど率直に自分の内面をさらけ出す。「人格教育」が求められる中学や高校ではない、外国人ばかりで出入りの激しい、誰もが通りすがりのような学校でそこまでするか、と思うこともあった。

授業以外にも映画や小説について雑談するうち、互いに気心も知れてきた。授業中に、20代、30代が多いクラスのなかで僕が飛びぬけて高齢であることをからかって、「ワイズ・マンの意見を聞こう」とこちらに振ってくれるようにもなった。

Jはユタ州出身の30歳。ユタといえば、モルモン教徒が多いことで知られる。Jの一家も、周囲もすべて敬虔なモルモン教徒だという。ユタのモルモン教徒は戒律に従って禁欲的な日常生活を送っている。「いい人ばかりだけど息苦しい」空気のなかで育ったJは、高校時代にゲイであることをカミング・アウトした。その日、Jの母親のところへはたくさんの電話がかかってきたという。

Jはユタのそんな環境がいやでニューヨークにやってきた。今はルームメートとブルックリンのウィリアムズバーグに暮らしている。何回かクラスのメンバーと食事をしたとき、Jはルームメートを連れてきた。Jと同じようにアメリカ人にしては小柄で、無口で温厚な男だった。

この学校で教師の給料は安く、「時給はウェイター以下」というのがJの口ぐせだった。実際、長いこと学校にいる教師もいないではないが、半分くらいは腰掛けという感じがした。J以外に習った教師のなかにも、本職はミュージシャンで生活費稼ぎにやっているとか、ヨーロッパへ移住するための資金稼ぎ、という教師がいた。

Jも、今年の春ごろから「ちゃんとした学校で教えたい」と就職活動を始めた。いくつかの学校のインタビューを受けたけれど、望む結果は得られなかったらしい。それでも、もうALCCにはいたくないといって、6月、学校を辞めてしまった。クラスの皆でお別れパーティをしたとき、Jは涙ぐんでいた。

先月、クラスメートから来たメールでは、Jはいま、教師としてのより高い資格を得るために勉強している日々とのことだ。

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