少年や少女の時代だけにあり、大人になるとそんな感性があったことすら忘れてしまうような、小さなことささいなことに宇宙全体を見、感ずる力。そんな奇跡的な力や瞬間を再現してみせた映画として、例えばサタジット・ライ監督の『大地のうた』があり、ホウ・シャオシェン監督の『冬冬の夏休み』がある。
『天然コケッコー』も、そんな映画の一本として記憶されるにちがいない。主人公のそよ(夏帆)と広海(岡田将生)は中学2年生として登場し、年齢からいえばホウ・シャオシェン監督のもう1本の青春映画の傑作『恋恋風塵』の主人公たちに近い。でも、この映画の感性は青春映画のそれではなく、まぎれもなく少年少女の映画だよね。
ホウ・シャオシェンの名前を出したのは、もうひとつ別のことを感じたからでもある。この映画のゆったりと淡々としたリズム。そして田舎の変哲もない風景の細部に目をこらし、道端の小さな花や田圃の一本道に、あふれるほどの色彩と匂いと空気を感じさせる山下監督に、ホウ監督の感性に近いものを見たからだ。
小学校3人、中学校は女子ばかり3人の全校生徒6人という田舎の学校。そこにやってきた都会育ちの「イケメンさん」の少年という、いかにもの設定。
ふつうなら男の子と3人の女の子をめぐる幼い恋物語になりそうなものだけど、そして確かにそれがストーリーらしいストーリーもないこの映画の軸にはなるんだけど、いつも彼らと一緒にいる小学生の子供たちや、彼ら彼女らの親の世代が主人公の背景以上の重みをもっていて、ただ「泣ける」「爽やかな」ラブストーリーではなく、海辺の村に住む人々がひとつの宇宙をかたちづくっているような存在感をもって見る者に迫ってくる。
ただ「泣ける」映画ではないということは、山下敦弘監督の傑作『松ケ根乱射事件』(間違いなく今年の邦画best1)に発展する要素があちこちにちりばめられてもいるということでもある。『天然コケッコー』の主人公たちの兄姉世代・親世代を描いたのが前作『松ケ根』だったと言ってもいいかも。
例えば、かなり年下のそよを思っている郵便局員のシゲちゃん(廣末哲万。『ある朝スウプは』でも怪演)。思い詰めた目でそよや広海を見つめているシゲちゃんは、そよに失恋してどうなってしまうのだろう? 映画はそのことをなにも語らないけど、シゲちゃんが失恋の悔しさから妄想をふくらませれば、たちまち『松ケ根』の怪しい世界になる。
また例えば、そよが目撃してしまった、そよのお父ちゃん(佐藤浩市)と広海のお母ちゃん(大内まり)の抱擁。かつて恋人同士だったらしい2人の今も危ない関係に、そよのお母ちゃん(夏川結衣)は気づいているようでもあり、いないようでもある。映画はそれ以上踏み込まないけど、それもまた語りはじめれば『松ケ根』の世界になってしまうだろう。
そのようなショットを見せる。でもそれ以上は踏み込まない。というのがこの映画で山下監督が選んだスタイル。そのことによって、そよと広海の子供でも大人でもない年代の、恋とも言えない恋の無垢がいっそう引き立つことになる。くらもちふさこの原作。監督より先に、渡辺あやの脚本がまずあったらしい。僕は原作を読んでないから、「松ケ根」的要素が原作にもあったのか、山下監督がつけ加えたのかは分からない。
「もうすぐ消えてなくなるかもしれんと思やあ、ささいなことが急に輝いて見えてきてしまう」。映画の終わりちかくで、そよのナレーションがつぶやく言葉は、この映画のいちばん大事な部分を伝えてくれる。
それを映像で支えているのが、真正面からのショット、そして真正面から横移動していくショットの多用。クローズアップが少なく、対象を斜めから捉える角度をつけたショットが少ないのはいつもの山下監督のスタイルだけど、それはこの映画でも同じ。一本道を正面から捉える。線路に平行に横移動する。フレームから人が出入りする。そのシンプルさの組み合わせが、この映画のゆったりした、「天然」のぬるーいリズムをつくりだしているね。
1カ所だけ、修学旅行で東京に行ったそよが空の中を横移動しながら、東京タワーや都庁が空を舞う幻想シーンが生きている。もうひとつ、ラストで、そよと広海が卒業した無人の教室をカメラが横移動し、すると光が変わって明るくなり、カーテンが風に舞い、カメラが窓に移動すると高校の制服に身をつつんだそよが中を見ている、その外には子供たちがいるという長いショットがいい。
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