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May 26, 2007

『フランドル』 焚き火の残り火

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フランス映画『フランドル』の男たちは、徴兵されて戦場へ駆り出される。

彼らが連れて行かれるのは、荒れ果てた砂漠と岩山と、椰子の茂る密林が混在している場所。中東か北アフリカのイスラム教国らしい。でも、周知のようにフランスはブッシュの「イラク戦争」に反対したから軍を派遣してはいない。僕の知る限りフランスが中東・北アフリカのイスラム教国へ派兵したのは1990年の湾岸戦争と、はるかに遡って1950年代のアルジェリア独立戦争くらいではないだろうか。

『フランドル』の時代設定ははっきりしないけど、登場人物の服装や車からして現在の物語には違いない。でも、フランスは今、この地域へ軍を出していない。そのことを踏まえておかないと、この映画を誤解することになる。つまりこれは現実に沿ったリアルな物語ではないのだ。

フランス人がこの映画を見たら、ここに描かれた戦場をどう感ずるのだろうか。過去の湾岸戦争や、とりわけフランス人に深いトラウマを刻んだアルジェリアを思い出すだろうか(ロケはチュニジアだから、その風景は隣国アルジェリアを思い起こさせるに違いない)。あるいは、ひょっとしたら「イラクの戦場にいたかもしれない自分」を連想するだろうか(親米のサルコジ政権が成立した今となっては、なおさら)。

だからこの映画は、「9.11以後の世界の寓話」と考えればいいのだろう。

ほとんど何の感情も快楽もなく、次から次に男を求める女・バルブ(アンドレイ・ルルー)。バルブの幼なじみで、「セックスするが恋人ではない」デメステル(サミュエル・ボワダン)は、戦場で友を見捨て、裏切って生き延びる。デメステルと同郷の仲間たちは、戦場で村人を殺し、女性を強姦し、逆に捕らえられ復讐されて、死んでゆく。戦場の男たちの狂った神経にシンクロするように、バルブも精神を病んでゆく。

となれば、ブリュノ・デュモン監督の故郷だというフランドル地方の麦畑が広がる美しい農村風景や荒涼とした戦場の風景も、そこに在るありのままの風景ではなく、ほとんど登場人物たちの心を映したものに見えてくる。

雪が降りはじめた草地で、バルブと出征前のデメステルたちが焚き火をしながら言葉少なに座っている。彼らが見つめる、燃え尽きようとする枝の白い灰と赤い残り火はこの世界の寂しさそのもののようだ。

過酷な世界と、その世界に翻弄されながら最後に確かめられるささやかな愛。言葉にしてしまうと陳腐な「寓話」かもしれないけれど、この風景があるからこそ、それが五感に訴える豊かな、でも痛い物語として感じ取ることができる。

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May 21, 2007

ギドクはギドク ~『鰐』など

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初期のキム・ギドクの映画を3本まとめて見ることができた(ユーロスペース)。処女作の『鰐』(1996)、2作目の『ワイルド・アニマル』(1997)、そして5作目の『リアル・フィクション』(2000)。

彼はかつてインタビューに答えて、自分の映画はそれぞれが長い1本の映画の一部なのだといった意味のことを語っていたと記憶する。商業的要請に応じて映画を撮ったことがないギドクにとって、たしかに1本1本が少しずつテイストを変えながら同じテーマ系を変奏し、全体として「ギドク・マンダラ」を形づくっていることが、全作品を見ると納得できる。

3本のなかでいちばん興味深かったのは『鰐』だった。処女作にはその作家のすべてが詰まっている、とよく言うけれど、『鰐』の場合も例外ではなかった。

ファースト・シーンからうなってしまう。夜、ソウル市内を流れる漢江の水面に、ネオンや車のライトが映ってゆらめくショット。男(チョ・ジェヒョン)が服を脱いで岸辺に立ち、水中に飛び込んでまるで水棲動物のように自在に泳ぎまわる。

ギドクのファンなら先刻承知のことだけど、「水」は映像的にもテーマ系としてもギドクが最もこだわっているもののひとつ。彼の作品の大半は海辺、川岸、湖といった「水」の周辺で展開されるし、屋内シーンでも水槽をはじめとする「水」が印象的に使われている。固定した形も色ももたず、それを入れる器の条件に応じてさまざまな形と色の間で揺れうごく「水」の流動性が、ギドクを引きつけるんだろうか。

そして水棲動物のような「鰐」を演ずるチョ・ジェヒョン。『悪い男』でギドク映画の究極のヒーローとなる彼が、そこに至る序章のように、短髪で短気で突っ張らかっていて、そのくせ喧嘩にからきし弱い、『悪い男』のハンギと同一人物といっても通るようなキャラクターで登場する。

「鰐」と呼ばれるジェヒョンは、漢江に身投げする男女から水中で財布をかすめとって生きているホームレスのチンピラ。身投げした女(ウ・ユンギョン)を助けて乱暴し、強引に自分の女にしてしまうあたりも、『悪い男』そっくりだ。さらに、自分の女にした瞬間から、逆に女に手を出せなってしまうあたりも共通している。これは多分ギドクの女性に対する思いを反映していて、女性に対するアンビヴァレントな欲望と憧憬が隠されているんだろうか。

僕がギドクの映画を見ていていちばん興奮するのは、リアルな映画のふりをして始まった物語が、あるとき突然にリアルを通り越して非現実へと反転してゆく瞬間だ。

この映画なら、「鰐」が人間とは思えないほど長時間水中に潜り、ある男から奪った写真を、壁に見立てた水中の橋桁にかけ、そこに安息の空間をつくりだすシーンがそれに当たる。そこにはやがてソファも据えられる。地上に居場所のない「鰐」は、この水中の空間ではじめて安息を得ることができる。

(以下、ネタバレです)この水中の空間が、やがて素晴らしいラスト・ショットとして最後に登場する。さざ波の揺らめきを通して展開される、「鰐」がソファで意識を失った女と自分の手首を手錠でつないで心中(?)してゆくショットの美しさは長く記憶に残るだろう。

いったんはめた手錠を気が変わってはずそうとジタバタし、それができずに死んでゆくあたりも、『鰐』から『悪い男』へと重なるチョ・ジェヒョンのキャラクターにふさわしい。僕は、いったん火をつけた爆薬をあわてて消そうとしてかなわず、青い海を見ながら乾いた爆発音を残して死んでいった『気狂いピエロ』のJ.P.ベルモンドを思い出してしまった。

ほかにも青く塗られた亀の甲とか、水中でふくらませる風船の艶っぽさとか、ホームレス疑似家族の住まいの背後に描かれた絵の好みとか、「鰐」をスケッチする女とか、水に映ったエロティックなラブシーンとか、いかにもギドクらしい小道具や設定があちこちに出てくる。『悪い女』や『魚と寝る女』で自分のものとする彼のスタイルはまだ途上で、部分的に画面の露出不足が目についたりもするけど、ここには早くも「ギドク印」がしっかりと刻印されている。

一方、『ワイルド・アニマル』では、チョ・ジェヒョンがややコミカルな役どころを演じている(からきし喧嘩に弱いのはおんなじ)。ギドク監督のパリ放浪時代を素材にしたこの映画で、ジェヒョン演ずる小心でドジでこすからい主人公はギドク監督の自画像にいちばん近いのかもしれない。

とすると、『鰐』や『悪い男』のジェヒョンはギドク監督の、こうありたい内面の欲望なのかもしれない。この映画は、冷凍した鯖を腹に突き立てるなど、ところどころにギドクらしさはあるけど、2人の男の友情物語やノワールふうな展開など、全体として「普通の映画」に近い。

もう1本の『リアル・フィクション』は、フィルムとデジタルのカメラ18台を使い4時間弱ですべてを撮ったという実験映画。ほとんどドキュメンタリーのように撮った劇映画(リアル・フィクション)だから、ギドクらしい美術に凝った画面は少なく、彼には珍しく手持ちカメラのぐらぐらした映像が多用されている。ストーリーはギドクらしい妄想の復讐物語なんだけど、いつもと違うスタイルで撮られているので、ほかの作品のように濃密な「ギドクを見てしまった」という満足感は薄い。

ただ、主人公を追ってデジタル・カメラを回す女性が登場する。このカメラを持った女性はいわばキム・ギドク監督の分身と考えていいんだろうけど、その女を最後に殺してしまうあたりに、ギドクの過激な実験への意志が見てとれる。

2作目の『ワイルド・アニマル』と、『魚と寝る女』と『受取人不明』の間に撮られた『リアル・フィクション』は、見ていてキム・ギドクが意識して自分のスタイルを変えようとした気配を感ずる。それは完成度ということでは、必ずしも成功しなかった。

つまり、ギドクは処女作の『鰐』で、すでに自分の「質(たち)」に出会っていたということだろう。『リアル・フィクション』を間奏にはさんで、以後のギドクは『悪い女』から『悪い男』へと、自分のスタイルにこだわって次々に傑作を連発してゆく。

この初期の2本の試行錯誤に比べれば、『春夏秋冬そして春』以後の変貌は、成熟したギドクの自然な変化と見ていいような気がする。

キム・ギドクは最初からキム・ギドクだったのだ。


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May 13, 2007

ハリウッド映画としての『バベル』

Babel

『バベル』は米・メキシコ国境、モロッコ、そして東京が舞台になっている。ところで、なぜ東京なのだろう?

1発の銃弾が3つの地域の3つのストーリーをつないでゆくこの映画で、発端が米・メキシコ国境なのはよく分かる。監督のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、脚本のギジェルモ・アリアガはじめ、主なスタッフはメキシコ人あるいはメキシコ在住で、『バベル』はハリウッド資本のメキシコ映画といってもいいくらいだからね。

カリフォルニアのメキシコ国境近い街に住む中産階級のアメリカ人夫婦(ブラッド・ピットとケイト・ブランシェット)。彼らの2人の子供を生まれたときから育てている乳母は、国境を超えて働きに来ているメキシコ女性だ。彼女は息子の結婚式に出席するため、2人の子供を連れて、迎えに来た甥(ガエル・ガルシア・ベルナル)の車に乗って国境を超えて故郷に帰る。

アメリカ人とメキシコ人。国境の北の豊かさと、南の貧困。裕福なホワイトと、不法入国している不安定なメキシカン。英語とスペイン語。北の郊外的秩序と、南の祝祭的な混乱。第1の場所では、そんなことが印象づけられる。

3番目の子供の死で心に隙間ができたブラッド・ピットとケイト・ブランシェットの夫婦は、その傷を癒すためにモロッコ・ツアーに出かけている。

モロッコの砂漠地帯に山羊を飼っている一家がいる。父親が手に入れたライフルを、山羊の番をする兄弟が好奇心からバスを狙って試し撃ちし、その弾丸が偶然ケイト・ブランシェットの肩を貫いてしまう。彼女は近くの村に運び込まれるが、アメリカ人ツアー客は異民族の村で異教徒に囲まれパニックを起こしてしまう。

第2の場所の構図もはっきりしている。9・11以後のアメリカ人とイスラム教徒。ショック状態のケイト・ブランシェットは、日干し煉瓦の家やチャドルで顔を覆った老婆に拒絶反応を示し、言葉がまったく通じないツアー客はテロリストに狙われると青ざめる。異文化と異教徒に対する無知と恐怖。

第1の場所、米・メキシコ国境の南北と、第2の場所、アフリカのイスラム教国が映画の舞台として選ばれた理由は、だからはっきりしている。でもなぜ第3の場所が東京なのだろう?

事件を引き起こした銃は、モロッコへハンティング旅行に来た役所広司が世話になった礼にガイドにプレゼントしたことになっている。銃の持ち主が日本人でなければならない必然性はない。ということは、イニャリトゥ監督は、別のなんらかの理由によって東京を撮りたかったのだろう。

役所広司は娘(菊地凛子)と2人でリバーサイドの高層マンションで豊かな暮らしをしている。どうやら妻は自殺したらしい。娘の菊地凛子は聾唖の女子高生。彼女は聾唖学校の仲間と町へ繰り出して遊びたわむれるけれど、健常者から異物を見るような視線を受けたりする。彼女は自分でも自覚していないらしい孤独から、幼い肉体で男を誘惑しようとする。

役所広司・菊地凛子親子が住む豪華なマンションの居室から見る、同じような高層マンションが立ち並ぶ東京のきらめく夜景。原色に彩られた渋谷や歌舞伎町のネオン街。光と音楽が洪水のように氾濫するクラブ。

ここには、第1と第2の場所にあったような異なる民族や文化がなく、異文化を背負った者同士が接触することによる発火もない。また富める者と貧しい者の対立もない。

いや、もちろん僕らはこういう風景のなかで、いま「階層化」が進行し貧富の差が拡大していることを知っている。でもそれはまだ外からは可視化していないし、ここが今でも世界でもっとも豊かな国のひとつであることは確かなのだ。

そんな風景のなかで、菊地凛子はひとり「傷」を負った者として存在している。彼女の聾唖という設定は、いわば豊かさのなかで人々が背負わなければならない内面の「傷」を象徴しているのだろう。異民族や異文化や多言語の衝突が見えない場所、貧富の対立が見えない場所。均質で豊かで言葉も通ずるけれど、人は他人と通じあうことができない。そういう第3の場所として、東京は設定されている。

もっとも、3つの場所が持つ意味を(それが当たっているかどうかはともかく)、こんなふうに取り出して図式化できること自体が、この映画の強みと弱みを同時に示している。ブラピはじめスターを使ったハリウッドの大作としての大がかりな構想。そこで必要とされるのは、誰にも理解しやすい「典型」だろう。

実際、米・メキシコ国境の第1の挿話は、いわば監督たちのホームグラウンドでの話にもかかわらず、僕らが知っている以上のことを伝えてこない。端的に言って、『アモーレス・ペロス』のリアルと衝撃はない。とはいえ、ハリウッドの大作の中で、自分のテーマを貫き、しかも完成度の高い作品を作ったのはさすが。

『アモーレス・ペロス』『21グラム』につづいて、イニャリトゥ監督の見事な映像感覚にはまいってしまう。アメリカの郊外も、メキシコの土臭い乱雑さも、モロッコの砂漠も、東京の都市風景も、ため息が出るほど官能的。3作とも撮影は監督と同じくメキシコ出身のロドリゴ・プリエト。彼は『8miles』や『ブロークバック・マウンテン』でもそれぞれタイプの違う見事な画面をつくっていて、いま、ハリウッドでいちばん魅力あるカメラマンだね。

3つの場所のドラマを同時進行ではなく微妙に時間をずらしながら、動と静、静と動をテンポよくつないでいく編集のスティーブン・ミリオンは、『21グラム』やソダーバーグの『トラフィック』を手がけていると知れば、これも納得。

菊地凛子は、映画のなかで確かにいちばん輝いている。猫背気味な背、上目遣いに見上げる猫のような目。幼い肉体を使った男への挑発。言葉を奪われた役だけに、身体全体で彼女が背負った「傷」を表現している。

ラスト。「バベルの塔」最上階のベランダでひっそり手をにぎる父親と娘からカメラが引いていき、2人が都会の夜景に溶け込んでしまうショットにはため息が出る。

そういえば、この映画で何人もの人間が肉体的にも精神的にも傷ついていくのに、見終わってみれば誰も死んでいなかった。それもまた、イニャリトゥ監督が『バベル』に込めたメッセージだろう。


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May 07, 2007

ネットのない生活

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毎日、こんな散歩道を歩いていた。

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東伊豆町水神社の神木。

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あたりは一面の夏みかん畑。

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新緑が美しい。

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すっくとした鶏を久しぶりに見た。

ゴールデンウィークの10日間、ネットにつながらない場所にいた。といって、別に辺鄙な山奥でもなんでもない、伊豆の小さな町。特急も止まる駅があるのに、ネット環境が整備されてない。そんなもんなんだ、と改めて感じる。

最初の数日、ネットを見ないと欲求不満になるかな、記事をアップしないと忘れられてしまうかな、なんて思ったけど、なに、そんなことはない。そのうち、ネットのことなどすっかり忘れてしまった。小生、根っからのネット人間ではないと改めて確認した次第。

写真のような風景のなかに10日いて、身も心もゆるんでしまった。そろそろ映画も見たくなってきた。


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