『バベル』は米・メキシコ国境、モロッコ、そして東京が舞台になっている。ところで、なぜ東京なのだろう?
1発の銃弾が3つの地域の3つのストーリーをつないでゆくこの映画で、発端が米・メキシコ国境なのはよく分かる。監督のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、脚本のギジェルモ・アリアガはじめ、主なスタッフはメキシコ人あるいはメキシコ在住で、『バベル』はハリウッド資本のメキシコ映画といってもいいくらいだからね。
カリフォルニアのメキシコ国境近い街に住む中産階級のアメリカ人夫婦(ブラッド・ピットとケイト・ブランシェット)。彼らの2人の子供を生まれたときから育てている乳母は、国境を超えて働きに来ているメキシコ女性だ。彼女は息子の結婚式に出席するため、2人の子供を連れて、迎えに来た甥(ガエル・ガルシア・ベルナル)の車に乗って国境を超えて故郷に帰る。
アメリカ人とメキシコ人。国境の北の豊かさと、南の貧困。裕福なホワイトと、不法入国している不安定なメキシカン。英語とスペイン語。北の郊外的秩序と、南の祝祭的な混乱。第1の場所では、そんなことが印象づけられる。
3番目の子供の死で心に隙間ができたブラッド・ピットとケイト・ブランシェットの夫婦は、その傷を癒すためにモロッコ・ツアーに出かけている。
モロッコの砂漠地帯に山羊を飼っている一家がいる。父親が手に入れたライフルを、山羊の番をする兄弟が好奇心からバスを狙って試し撃ちし、その弾丸が偶然ケイト・ブランシェットの肩を貫いてしまう。彼女は近くの村に運び込まれるが、アメリカ人ツアー客は異民族の村で異教徒に囲まれパニックを起こしてしまう。
第2の場所の構図もはっきりしている。9・11以後のアメリカ人とイスラム教徒。ショック状態のケイト・ブランシェットは、日干し煉瓦の家やチャドルで顔を覆った老婆に拒絶反応を示し、言葉がまったく通じないツアー客はテロリストに狙われると青ざめる。異文化と異教徒に対する無知と恐怖。
第1の場所、米・メキシコ国境の南北と、第2の場所、アフリカのイスラム教国が映画の舞台として選ばれた理由は、だからはっきりしている。でもなぜ第3の場所が東京なのだろう?
事件を引き起こした銃は、モロッコへハンティング旅行に来た役所広司が世話になった礼にガイドにプレゼントしたことになっている。銃の持ち主が日本人でなければならない必然性はない。ということは、イニャリトゥ監督は、別のなんらかの理由によって東京を撮りたかったのだろう。
役所広司は娘(菊地凛子)と2人でリバーサイドの高層マンションで豊かな暮らしをしている。どうやら妻は自殺したらしい。娘の菊地凛子は聾唖の女子高生。彼女は聾唖学校の仲間と町へ繰り出して遊びたわむれるけれど、健常者から異物を見るような視線を受けたりする。彼女は自分でも自覚していないらしい孤独から、幼い肉体で男を誘惑しようとする。
役所広司・菊地凛子親子が住む豪華なマンションの居室から見る、同じような高層マンションが立ち並ぶ東京のきらめく夜景。原色に彩られた渋谷や歌舞伎町のネオン街。光と音楽が洪水のように氾濫するクラブ。
ここには、第1と第2の場所にあったような異なる民族や文化がなく、異文化を背負った者同士が接触することによる発火もない。また富める者と貧しい者の対立もない。
いや、もちろん僕らはこういう風景のなかで、いま「階層化」が進行し貧富の差が拡大していることを知っている。でもそれはまだ外からは可視化していないし、ここが今でも世界でもっとも豊かな国のひとつであることは確かなのだ。
そんな風景のなかで、菊地凛子はひとり「傷」を負った者として存在している。彼女の聾唖という設定は、いわば豊かさのなかで人々が背負わなければならない内面の「傷」を象徴しているのだろう。異民族や異文化や多言語の衝突が見えない場所、貧富の対立が見えない場所。均質で豊かで言葉も通ずるけれど、人は他人と通じあうことができない。そういう第3の場所として、東京は設定されている。
もっとも、3つの場所が持つ意味を(それが当たっているかどうかはともかく)、こんなふうに取り出して図式化できること自体が、この映画の強みと弱みを同時に示している。ブラピはじめスターを使ったハリウッドの大作としての大がかりな構想。そこで必要とされるのは、誰にも理解しやすい「典型」だろう。
実際、米・メキシコ国境の第1の挿話は、いわば監督たちのホームグラウンドでの話にもかかわらず、僕らが知っている以上のことを伝えてこない。端的に言って、『アモーレス・ペロス』のリアルと衝撃はない。とはいえ、ハリウッドの大作の中で、自分のテーマを貫き、しかも完成度の高い作品を作ったのはさすが。
『アモーレス・ペロス』『21グラム』につづいて、イニャリトゥ監督の見事な映像感覚にはまいってしまう。アメリカの郊外も、メキシコの土臭い乱雑さも、モロッコの砂漠も、東京の都市風景も、ため息が出るほど官能的。3作とも撮影は監督と同じくメキシコ出身のロドリゴ・プリエト。彼は『8miles』や『ブロークバック・マウンテン』でもそれぞれタイプの違う見事な画面をつくっていて、いま、ハリウッドでいちばん魅力あるカメラマンだね。
3つの場所のドラマを同時進行ではなく微妙に時間をずらしながら、動と静、静と動をテンポよくつないでいく編集のスティーブン・ミリオンは、『21グラム』やソダーバーグの『トラフィック』を手がけていると知れば、これも納得。
菊地凛子は、映画のなかで確かにいちばん輝いている。猫背気味な背、上目遣いに見上げる猫のような目。幼い肉体を使った男への挑発。言葉を奪われた役だけに、身体全体で彼女が背負った「傷」を表現している。
ラスト。「バベルの塔」最上階のベランダでひっそり手をにぎる父親と娘からカメラが引いていき、2人が都会の夜景に溶け込んでしまうショットにはため息が出る。
そういえば、この映画で何人もの人間が肉体的にも精神的にも傷ついていくのに、見終わってみれば誰も死んでいなかった。それもまた、イニャリトゥ監督が『バベル』に込めたメッセージだろう。
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