『叫』の妖しい色
黒沢清の『CURE』とか『回路』『ドッペルゲンガー』『LOFT』なんかは通常ホラーとかサイコ・ミステリーにジャンル分けされてる。でも黒沢清の映画を見ていつも感ずるのは、ふつうにホラーやサイコと言われる映画とはなにかが決定的に違うことだ。それは、ひとことで言えば謎が謎のままにとどまり、謎が遂に解決されないことだろう。
古典的なホラーやミステリーならば、まず登場人物(とそれを見ている観客)を恐怖におとしいれる事件があり、事件をめぐる謎が提示され、主人公が手がかりを追い、最後にすべての謎が解かれることによって、事物が収まるところに収まって登場人物が納得し、それを見届けた観客が「ああ、こわい映画だったね」と安心して過去形で語りながら席を立つことができる。
ところが黒沢清の映画は、謎が謎として提示されたまま解決されない。あるいは一見解決されたようなエンディングであっても、解かれない謎や不安がエンドマークが出た後でも現在形のまま白いスクリーンに漂っている。説明できない非合理が非合理のまま放置される。もちろんこういう映画のつくり方はほかにも例があるけど、ホラーやサイコのジャンルでそれをやったのが黒沢清の映画の新しさで、それを楽しめるかどうかがこの監督を好きになれるかどうかの分かれ目なんだろう。
『叫(さけび)』もまた黒沢清の映画らしく、謎が謎のまま解決されずに映画が終わる。とはいえ、『叫』は過去のどの黒沢映画よりもホラーやサイコといったジャンル映画の骨格、もっといえば日本の古典的な怪談の枠組みを意識的に使っているように見えた。
廃屋。成仏できない死者の怨念。幽霊の出現。霊に取り憑かれた者たちの犯罪。霊による廃屋への導き。朽ちた骨の発見。骨を拾うことによる鎮魂。
(以下、ネタバレです)古くからある日本の怪談の典型的なストーリーを、この映画はなぞってゆく(葉月里緒奈の幽霊が上下動なしに移動したり飛んだりするのは「足がない」ことを示していて、思わず笑ってしまったりするけど、その意味でも日本の由緒正しい幽霊であることを暗示している)。
そして古典的な怪談の筋書き通り、主人公の刑事、吉岡(役所広司)は最後に霊に「許される」。でも『叫』では、本当なら和解であるはずの「許し」のあとに、もうひとつの謎が仕掛けられている。赤い服を着た幽霊(葉月里緒奈)の骨が、吉岡のもとを去った恋人・春江(小西真奈美)の骨のイメージを呼び起こしてしまう。
ラストに近い「許し」のシーンの前に登場する春江が実在の春江だったとすれば、「許し」の後の春江は吉岡と彼女との危うい関係を反映した吉岡の幻視であり、「許し」以後の春江の骨が実在だとすれば、春江はこの映画の最初から死者として吉岡の幻視のなかで登場していたことになる。霊に取り憑かれた吉岡は春江(小西真奈美)を殺したのか? あるいは自分が彼女を殺すかもしれないことを予感して彼女を遠ざけたのか? 1度見ただけでは、どちらとも分からない。多分、どちらとも解釈できる。
もうひとつ、謎が残される。吉岡の同僚で彼を殺人犯と疑った宮地(伊原剛志)が吉岡の留守宅を訪れる。部屋には海水(多分)を張った洗面器がおいてあり、その表面がざわざわと波立つ。伊原がそれをのぞきこんだ瞬間、赤い布が落ちてきて彼は「向こう側の世界」に拉致される。
なんともショッキングなショット。霊に取り憑かれた伊原は、どうなったのだろう? それについては何も描写もなく、一切の説明をしないまま映画は終わってしまう。というより、黒沢清はともかくこの美しいショットを撮りたかったので、それに辻褄を合わせることなんかどうでもよかったのだろう。
前作『LOFT』のエントリーで、「黒沢清はショットの監督」と書いたことがある。この映画でももちろん鮮やかなショットがあり、例によって水や鏡や窓やカーテンへの偏愛を楽しめるけど、今回は色彩へのこだわりに引きつけられた。
連続殺人の舞台となる湾岸地帯の、冬枯れた葦と剥きだされた地面の黄土色がこの映画の基調をなす。その黄土色の水たまりに横たわる、殺された女の赤い服。幽霊の葉月里緒奈が常にまとっている、これも赤い服。小西真奈美も最後に赤い服を着る。宮地を「向こう側」へと連れ去る赤い布も異様なオブジェのようだ。
さらに、黒くすすけた廃屋のセットの内も外も、いかにも黒沢好み。吉岡のアパート内部も茶色く、時代がかっている(アパート内部が廃屋の内部と似たトーンで色彩設計されているのは、春江が実は死者であることを暗示しているのかもしれない)。アパートの内(死者のいる世界?)と外界をへだてる青い扉。黄色いコードの束。鈍く光る水面。すべてがつくりものめいて妖しい。撮影は『LOFT』に続いて芦澤明子。
黒沢清の映画はいつもディテールにこだわり、ディテールこそ命で、1本の映画としてのプロポーションや整合性や説得力をさほど気にしていないようにも見える。その印象は『叫』でも変わらず、今回もディテールを楽しんだ。
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