« February 2007 | Main | April 2007 »

March 30, 2007

『デジャヴ』 はリアルSF

Photo_24

『デジャヴ』はネタバレなしで語れそうもないので、ご承知おきを。

で、はじめっからネタバレだけど、この映画、実は「タイムトラベル」ものだったなんて、途中まで思いも及ばなかった。

トニー・スコット監督、デンゼル・ワシントン主演というほかに予備知識なしで映画館に入った。この2人、以前に『マイ・ボディーガード』(良くできた映画でした)で組んでいたから、あの映画みたいなリアルなタッチのサスペンスなんだろうな、ただ「デジャヴ」というタイトルからすると、少しサイコがかってるのかも、などと思いながら。

出だしはまさにリアルなアクション映画。ハリケーン・カトリーナで壊滅した後のニューオリンズ。マルディグラのお祭り当日に、ミシシッピ川をゆく満員のフェリーが爆破される。

手持ちだったりフィックスだったりのカメラ、早送りやスローモーションを駆使し、短いカットを重ねて、登場人物と状況を簡潔に説明する鮮やかな手並みはトニー・スコットならでは。この段階では、リアルなサスペンスものであることを疑いもしなかった。

おや? どうもこれはリアルな話じゃないんだなと思い始めたのは、捜査官のダグ(デンゼル・ワシントン)が特別捜査班に組み入れられ、政府が秘密裏に開発したタイム・ウィンドウという監視装置のある部屋に導かれたあたりから。

タイム・ウィンドウは、いま地球の上空を回っている偵察衛星による監視をもっと高度化して、家のなかに自在に入り込み、3次元のヴァーチャルな映像を再現できるという設定。ただし、その映像は現実の時間から4日と6時間後でないと見られない。そのタイムラグが、この映画のミソになっている。

この映画のアイディアはネットのチャットから生まれたというけど、たしかにグーグル・マップで自宅や知り合いの家を上空からながめていると、もっと近づいて人が識別できないものか、家のなかに入り込めないものか、なんて空想をしてしまう。

ダグは爆破事件の手がかりを求めて、殺されたクレア(ポーラ・ハットン)の部屋のなかへタイム・ウィンドウで入り込み、4日前の、まだ生きているクレアの姿を追う。

この町のシンボル、フレンチ・クォーターの薄暗い部屋で、わずかな照明だけで彼女を映し出す映像がなんともリアル。特殊カメラと高感度フィルムを使ったらしいけど、見られていることを知らない彼女を追って、部屋から部屋へ素早く移動するカメラは覗き見感覚を刺激するね。そんなクレアの姿を追ううちに、彼女をどこかで見たという「デジャヴ」を感ずるダグは、次第にクレアに惹かれていく。

事件が起こってしまった現在と、4日前の、事件に向けていろんなことが起こりつつある映像。現在と過去、現実とヴァーチャルな映像の落差を縫ってサスペンスが進行する。なかでも、片目で4日前の映像を追い、片目で現実の高速道路を逆走しながら犯人を追うカー・チェイスは迫力たっぷり。さらに、ハリケーンで破壊された無人の家が立ち並ぶ荒廃したダウンタウンのリアリティには息を飲む。

そして映画の後半になってタイムマシーンが登場する。ダグはクレアの命を救うために4日前の世界にタイム・トラベルしてゆく。ま、ここから先はエンディングまで、これまで数えきれないほどつくられた「タイムトラベルもの」と大差ないんだけど、SF的なおとぎ話のタッチではなく、前半と同様にリアルな映像で押し通すのが新鮮だ。

ハリケーン後のニューオリンズにロケしたり、監視衛星を素材にしたり、テロの犯人が右派ファンダメンタリストだったりと、現実にアメリカで進行していることをうまく映画に取り込んでいるのもさすがだね。リアルSFとでも言ったらいいか。

トニー・スコットの映画は見終わってずっしり重いものが残ったり、考えさせられたりすることはないけれど、貴重なお金と時間を使って映画を見ている間だけは、こちらをたっぷり楽しませてくれる。そんな期待がはずれることがほとんどないという意味では、いまハリウッドで最高の職人かもしれないな。

| | Comments (3) | TrackBack (1)

March 26, 2007

『絶対の愛』 心地よい裏切り

Zettainoai_1

キム・ギドクはいつも観客を裏切ってゆく。見る側としては、裏切られるのが楽しい。そして心地よい。

『春夏秋冬そして春』以降、キム・ギドクは変わったと言われている。そう、キム・ギドクは確かに変わった。まず、彼がそれまで好んだ都会や農漁村の人臭いドラマではなく、人里離れた場所を舞台に、自然の風景が大きな要素を占めるシンプルなお話を好むようになった(『春夏秋冬』『弓』)。そして、キリスト教や仏教といった宗教的な匂いが画面に立ちこめるようになった(『春夏秋冬』『サマリア』『うつせみ』『弓』)。

それまで人間の内に潜む「悪」をぎとぎとした手法で塗り込めてきた初期の作品にくらべると、これらの作品はより静かな眼差しで人間を見つめるようになり、風俗的な次元から寓話的あるいは宗教的次元へと映画が昇華している。キム・ギドクも年を取り、円熟したのか──と僕も考えてきた。

ところが、キム・ギドクはやっぱりキム・ギドク。そんな思い込みを軽やかに裏切り、『絶対の愛(原題は「時間」)』は整形の流行という韓国の風俗を素材に、自然から遠く離れた都会・ソウルのどまんなかで、宗教的でも寓話的でもない、かつての彼の映画を思い出させるようなどろどろした作品に仕上がっている。ただ、かつての泥臭さ(僕の個人的受け止めで言えば日活ロマンポルノの匂い)はなく、画面はおしゃれな喫茶店やマンションや彫刻公園を舞台に、『サマリア』『うつせみ』に似た都会的なセンスで一貫している。

無論、ギドクらしいこてこてのショットは多い。「整形前」「整形後」の女性の顔の半分ずつを左右のドアに配した整形医院の入り口。「整形後」の主人公・スェヒ(ソン・ヒョナ)が身にまとう、まっ赤なワンピースと顔の大部分をおおう紫のマスク。口に当たる部分には赤い唇が描かれた、エロチックで異形な姿。繰り返し出てくる、白いシーツで顔をおおうことで主人公が不気味なオブジェに見えてくるシーン。整形前の写真を仮面につけて恋人の前に現れるスェヒ。

そんなふうに自分が自分でなくなる瞬間が、手を変え品を変えて映像化されている。

学生のころ見た、安部公房原作・脚本、勅使河原宏監督の『他人の顔』を思い出しましたね。テーマ系としては似たところがある。『他人の顔』は、やけどで顔を失った主人公が他人の仮面をつけて、妻を誘惑する話だった。仮面をつけることによって主人公は自分を離れて「他人」になり、誰でもない「透明人間の自由」を獲得する。仲代達也が「仮面」の気色悪い感じをねちっこく演じていたのが記憶に残ってる。

一方、『絶対の愛』では、恋人のジウ(ハ・ジョンウ)に飽きられたと思いこんだセヒ(パク・チヨン)が全身を整形して他人になり、スェヒとしてジウの前に現れる。ジウはスェヒと愛し合うようになるが、姿を消した恋人セヒが忘れられない。セヒは整形してスェヒとなった「新しい自分」を愛してほしいのに、ジウはセヒ=「古い自分」が忘れられない。彼女は「新しい自分」と「古い自分」の間で引き裂かれてゆく。

整形する(仮面をつける)ことによって、外見と内面が一致していた「自分」のアイデンティティが揺らぎはじめる。その揺らぎと、そこから生まれるドラマを、2本の映画は見せてくれる。

キム・ギドクがキム・ギドクらしいのは、物語も画面も常に過剰なことだろう。アイデンティティを失ったスェヒが狂おしくジウに迫る。彼女に迫られて、今度はジウまでが過激な行いに出てしまう。ネタバレは避けるけど、いかにもギドクらしい。

ジウの前に整形したセヒ(スェヒ)が現れる。スェヒ以外にも何人もの女がジウの前に現れ、だからしばらくは観客には誰が「整形したセヒ」なのかが分からない。そんなサスペンス・タッチで見る者を混乱させながら、キム・ギドクは韓国の整形の流行について、「実はこれって、けっこうやばい問題を孕んでるんじゃないの?」と言ってるみたいだ。

整形は、外見と内面が一致しているのが当たり前と思われている「自分」のアイデンティティを揺るがしてしまう。外見が「自分」なんだろうか。内面が「自分」なんだろうか。そんなふうに「自分」が分からなくなり、自分が誰でもあり、誰でもありえないように漂流してしまうさまを、ファーストシーンとラストシーンの円環が暗示しているように思えた。

血だらけになり、涙と鼻水を垂らしたソン・ヒョナが色っぽい。

年とって丸くなったなぞと考えたこっちを見事に裏切るキム・ギドクが頼もしい。

| | Comments (9) | TrackBack (6)

March 20, 2007

『パフューム』の奇っ怪

Photo_20

最初の10分でこれはすごいぞと思い、でも続く30分でどうにも乗れず、最後に至って思わず笑い出してしまった。『パフューム』はなんとも奇っ怪な映画だったなあ。

冒頭のすごさは、18世紀パリの汚物と汚臭に満ち満ちた細密描写。香りと香水を主題とした映画に、それとは正反対の汚物と汚臭から入るのがいい。

汚れた屋台がひしめくパリの魚市場。魚をさばいた後の臓物が無造作に捨てられ、ネズミやウジがうごめく屋台の下で、売り子の父なし子として主人公のジャン=バティスト(ベン・ウィショー)が産みおとされる。250年前のパリの街並みを再現したセットと、そこで繰り広げられる人々やら生き物やらのおぞましくもグロテスクな姿が、その後の展開を期待させてぞくぞくさせる。これは自分好みの映画かもしれないな。

(以下、ネタバレです)皮なめし職人の下で働くジャンは、街ですれちがった少女のふくよかな体臭に惹かれ、彼女の跡をつけて遂には殺してしまう。「ある人殺しの物語」(サブタイトル)の最初の殺人。このパリの薄暗い裏町での犯罪のシーンも、ジャンがやがて同じような手口で次々に処女を殺して裸にし、その匂いを奪うことを予想させて緊迫している。いよいよ、面白くなりそう。

でもその後、異常に鋭敏な嗅覚をもっていることを自覚したジャンが調香師(ダスティン・ホフマン)に弟子入りし、師をしのぎ、究極の香水を求めて連続殺人に手を染める展開がいかにもかったるい。

ひとつには、ナレーションを多用したことがあるかもしれない。第三者の視点からのナレーション(ウィリアム・ハート)が、ほんとなら映像やセリフで見せるべきところをナレーションで代用してしまい、物語を説明する以上の役割を果たしていないように感じられる。

いまひとつは、追う者と追われる者というミステリーの基本の対立構造をつくらなかったこと。そんな対立構造がないのは原作も同じだったけれど、原作では作者がジャンの内面に深く入り込むことによって小説の緊張を維持していたように記憶している(20年近く前に読んだきりなので確信はない)。

そしてラスト。ここでは原作から大きく離れた結末(と思う)が用意されている。エロチックなテイストが命の映画に、エロチシズムのかけらもない裸の乱舞とは、そのあまりの唐突さに思わず失笑してしまった。この70年代のLOVE & PEACEふうなラストはどこから来たんだろう? 

香りというフィルムに映らないものをテーマにし、映像に映らないものがすべてを支配するさまを映像化するむずかしさは分かるけど、だからってこれかよ? って気がする。昔、アントニオーニの映画にこんなのがなかったっけ?

20年ほど前に読んだ原作は、この映画の冒頭10分のグロテスクでエロチックなテイストを最後まで保った傑作だった。ディテールは忘れてしまったけれど、小説の官能的な空気は今でもこの手で触れるように覚えている。

250年前のパリ。裸にされた処女の連続殺人という猟奇的犯罪。都市の腐臭と、それを隠そうと貴族階級が専有する香水。あまりにも魅力的な素材で、スピルバーグやスコセッシが映画化を望んだというのもよく分かる。

トム・ティクバ監督の『ラン・ローラ・ラン』は不思議な面白さのある映画だったけど、ひねったつもり(?)のあのラストはないよな。冒頭のエロチックなグロテスクさを押し通してほしかった。

 

| | Comments (5) | TrackBack (8)

March 12, 2007

『松ケ根乱射事件』の脱臼具合

Photo_18

雪山に囲まれた信州の、なんの変哲もない田舎町。派出所の警察官、光太郎(新井浩文)が業務用の白い自転車に乗ってゆらーりゆらりとペダルを漕いで巡回するシーンが、映画のなかで3度繰り返される。

住宅と空き地と畑が入りまじった、日本のどこにでもある風景。坂道で光太郎は一生懸命漕いでいるのに、ほとんど歩いているのと変わらない。そんなまったりしたシーンが間延びすれすれのタイミングでつながれてゆき、そのゆる~い感じが、この映画の空気を象徴しているみたいだった。

ゆるいけれども、ダルではない。セリフも演技もカメラも、カットとカットのつなぎも、ことごとくツボをはずしている。だからあらゆる関節が脱臼したみたいな感じの映画なのに、見ているうちにそんなリズムや間が快感に変わってくる。うーむ、これはただものじゃないな。

光太郎と双子の兄の光(山中崇)を中心に、兄弟の一家をめぐる出来事が語られる。

冒頭は俯瞰ショットで、雪の原に横たわる赤いコートの女の死体(?)。タイトルが「乱射事件」だから、最初っから事件か、と思うと、小学生が近づいてきて、女のコートに手を差し込んで胸を,まさぐり、次の瞬間、あろうことか股間に手を突っ込んでしまう。おいおい、なんだこれは? と思ってると、次のシーンで女(川越美和)は裸にされて検視室に横たわっている。と思う間に、彼女は息を吹き返してしまう(死んでいなかった)。

「美女の全裸死体」というのはミステリーの定番だけど、まずその定番を示しておいて(定番そのものが痴漢小学生をからめて脱臼させられてるけど)、次にそれを裏返してみせる。そんなふうに山下敦弘監督は、「ありそうな設定」をつくっておきながら「ありそうな展開」にはもちこまず、こっちの思い込みや予想を次々にずらしていく。その独特のずらし方が、この映画をブラックなコメディにしているんだな。

彼女は強奪殺人犯(木村祐一)の愛人で、彼女を車ではねた光はそれをネタに脅されてしまう。と書けば、サスペンス調に聞こえるけど、引きの画面を重ねて、田舎の平和で日常的な風景のなかでストーリーが進む。2人は光を脅して、空き家になっていた光の家の別宅に入り込んでしまう。

光一家が居間でくつろぐシーンが繰り返されながら、日常的な会話から一家の人間関係と彼らがかかえている問題が少しずつ明らかになってくる。祖父は呆けている。父親(三浦友和)は家を出て、愛人の床屋に居候している。父は愛人の娘も孕ませてしまったらしい。母は「恥ずかしくて外を歩けない」と泣く。

このあたり、脚本と役者と演出家と編集、それぞれの間の取り方、タイミングのずらしかたがなんとも絶妙でおかしい。その語り口がこの映画のすべてといってもいいくらい。

地方の小都市を舞台にした群像劇ということで思い出したのは、阿部和重の傑作小説『シンセミア』。映画ならば『ツインピークス』。小説は山形県東根をモデルに2代にわたる数家族の年代記で、荒廃する地方都市に住まう人々を通してこの国の現在の姿がリアルに浮き彫りにされていた。『ツインピークス』も、一見平和な村の生活も一皮剥けば、というリンチお得意のパターン。

一方こちらの映画は、もちろんリアルであることは変わらないけどユーモアの衣にくるみ、生首をかかえた強奪殺人犯である木村祐一すら「根は善人」ふうなオチになっている。

そんななかで、いちばんまともに見えた光太郎が、誰も知らぬ間に静かに狂ってゆく。映画の冒頭からラストまで繰り返し出てくる、駐在所の天井にうごめくネズミのエピソードがうまく使われてる。

そして最後の「乱射事件」も含めてなお、「松ケ根は今日も平和」という感じで終わるのが山下監督流のブラックユーモアなんだろう。

山下監督、僕は『リンダ リンダ リンダ』しか見たことなかったので、2本のあまりのタッチの差に驚いてしまった。他の作品も見なくては。今年の邦画ベスト候補の1本だね。新井浩文(『ゲルマニウムの夜』は作品の出来が悪かったけど)と木村祐一(『ゆれる』は明らかにミスキャストだったけど)は絶品。

| | Comments (6) | TrackBack (6)

March 01, 2007

『叫』の妖しい色

Photo_17

黒沢清の『CURE』とか『回路』『ドッペルゲンガー』『LOFT』なんかは通常ホラーとかサイコ・ミステリーにジャンル分けされてる。でも黒沢清の映画を見ていつも感ずるのは、ふつうにホラーやサイコと言われる映画とはなにかが決定的に違うことだ。それは、ひとことで言えば謎が謎のままにとどまり、謎が遂に解決されないことだろう。

古典的なホラーやミステリーならば、まず登場人物(とそれを見ている観客)を恐怖におとしいれる事件があり、事件をめぐる謎が提示され、主人公が手がかりを追い、最後にすべての謎が解かれることによって、事物が収まるところに収まって登場人物が納得し、それを見届けた観客が「ああ、こわい映画だったね」と安心して過去形で語りながら席を立つことができる。

ところが黒沢清の映画は、謎が謎として提示されたまま解決されない。あるいは一見解決されたようなエンディングであっても、解かれない謎や不安がエンドマークが出た後でも現在形のまま白いスクリーンに漂っている。説明できない非合理が非合理のまま放置される。もちろんこういう映画のつくり方はほかにも例があるけど、ホラーやサイコのジャンルでそれをやったのが黒沢清の映画の新しさで、それを楽しめるかどうかがこの監督を好きになれるかどうかの分かれ目なんだろう。

『叫(さけび)』もまた黒沢清の映画らしく、謎が謎のまま解決されずに映画が終わる。とはいえ、『叫』は過去のどの黒沢映画よりもホラーやサイコといったジャンル映画の骨格、もっといえば日本の古典的な怪談の枠組みを意識的に使っているように見えた。

廃屋。成仏できない死者の怨念。幽霊の出現。霊に取り憑かれた者たちの犯罪。霊による廃屋への導き。朽ちた骨の発見。骨を拾うことによる鎮魂。

(以下、ネタバレです)古くからある日本の怪談の典型的なストーリーを、この映画はなぞってゆく(葉月里緒奈の幽霊が上下動なしに移動したり飛んだりするのは「足がない」ことを示していて、思わず笑ってしまったりするけど、その意味でも日本の由緒正しい幽霊であることを暗示している)。

そして古典的な怪談の筋書き通り、主人公の刑事、吉岡(役所広司)は最後に霊に「許される」。でも『叫』では、本当なら和解であるはずの「許し」のあとに、もうひとつの謎が仕掛けられている。赤い服を着た幽霊(葉月里緒奈)の骨が、吉岡のもとを去った恋人・春江(小西真奈美)の骨のイメージを呼び起こしてしまう。

ラストに近い「許し」のシーンの前に登場する春江が実在の春江だったとすれば、「許し」の後の春江は吉岡と彼女との危うい関係を反映した吉岡の幻視であり、「許し」以後の春江の骨が実在だとすれば、春江はこの映画の最初から死者として吉岡の幻視のなかで登場していたことになる。霊に取り憑かれた吉岡は春江(小西真奈美)を殺したのか? あるいは自分が彼女を殺すかもしれないことを予感して彼女を遠ざけたのか? 1度見ただけでは、どちらとも分からない。多分、どちらとも解釈できる。

もうひとつ、謎が残される。吉岡の同僚で彼を殺人犯と疑った宮地(伊原剛志)が吉岡の留守宅を訪れる。部屋には海水(多分)を張った洗面器がおいてあり、その表面がざわざわと波立つ。伊原がそれをのぞきこんだ瞬間、赤い布が落ちてきて彼は「向こう側の世界」に拉致される。

なんともショッキングなショット。霊に取り憑かれた伊原は、どうなったのだろう? それについては何も描写もなく、一切の説明をしないまま映画は終わってしまう。というより、黒沢清はともかくこの美しいショットを撮りたかったので、それに辻褄を合わせることなんかどうでもよかったのだろう。

前作『LOFT』のエントリーで、「黒沢清はショットの監督」と書いたことがある。この映画でももちろん鮮やかなショットがあり、例によって水や鏡や窓やカーテンへの偏愛を楽しめるけど、今回は色彩へのこだわりに引きつけられた。

連続殺人の舞台となる湾岸地帯の、冬枯れた葦と剥きだされた地面の黄土色がこの映画の基調をなす。その黄土色の水たまりに横たわる、殺された女の赤い服。幽霊の葉月里緒奈が常にまとっている、これも赤い服。小西真奈美も最後に赤い服を着る。宮地を「向こう側」へと連れ去る赤い布も異様なオブジェのようだ。

さらに、黒くすすけた廃屋のセットの内も外も、いかにも黒沢好み。吉岡のアパート内部も茶色く、時代がかっている(アパート内部が廃屋の内部と似たトーンで色彩設計されているのは、春江が実は死者であることを暗示しているのかもしれない)。アパートの内(死者のいる世界?)と外界をへだてる青い扉。黄色いコードの束。鈍く光る水面。すべてがつくりものめいて妖しい。撮影は『LOFT』に続いて芦澤明子。

黒沢清の映画はいつもディテールにこだわり、ディテールこそ命で、1本の映画としてのプロポーションや整合性や説得力をさほど気にしていないようにも見える。その印象は『叫』でも変わらず、今回もディテールを楽しんだ。


  

| | Comments (0) | TrackBack (2)

« February 2007 | Main | April 2007 »