映画がはじまってすぐ、乱れた髪に特徴的な額から鼻にかけての線で、あ、ジャック・ニコルソンだなとすぐに分かる横顔のシルエットがアップになる。
カメラは逆光のなかのシルエットを横移動で追いながら、ニコルソンのナレーション(だったと思う)で、これから物語られる人物たちがアイルランド系で、アフリカ系ばかりでなくカソリックのアイリッシュもまたプロテスタントのWASPから差別されていたんだと、映画の背景を簡潔に語る。
と同時にこのナレーションは、香港ノワール『インファナル・アフェア』のリメークであるこの映画が、ただのリメークではなく、マーチン・スコセッシが過去何本もの作品でこだわってきた移民たちの物語へと換骨奪胎した、独立した作品なのだという宣言とも受け取れる。
横移動していたシルエットのニコルソンが縦に移動し光のなかへ進み出ると、そこではじめて、年季のはいった凄みを感じさせるマフィアのボス、コステロ(ニコルソン)の顔が大写しになる。コステロの視線に相対するかたちで、少年時代と成年したコリン(マット・デイモン)のアップになった顔が重なる。
このあたり畳みかけるようなテンポのいい演出で、おお、スコセッシの昔のリズムだね、って感じ。このところ『ギャング・オブ・ニューヨーク』『アビエイター』と、いささかもったりした作品がつづいたけど、『タクシードライバー』前後のスコセッシ作品は全編息つく間もない緊張感を漂わせていた。その張りつめたテンポとまではいかないけれど、ギャングものを得意としたかつてのリズムとノワールな映像を思い出させて、心地よく映画に身をゆだねることができる。
舞台をニューヨークではなくボストンのダウンタウンに設定したのも、ボストン訛りがどの程度使われているのか僕には分からないけど、大都市ながら摩天楼のスカイラインがない古い街のローカルな雰囲気をうまく出している。
もっとも、スコセッシと脚本のウィリアム・モナハンがいくらこの映画の独自性を強調しても、『ゴッドファーザー』に匹敵する香港ノワールの傑作『インファナル・アフェア』と比べたくなってしまうのはどうしようもない。
大枠のプロットが同じであるだけでなく、取引の現場、映画館、ビルの屋上といった香港版の名場面がほとんどそのまま再現されているから、『ディパーテッド』を見て改めて『インファナル・アフェア』の脚本の緻密さと映像感覚の冴えを再確認することになる(ただ、ラスト近くでトニー・レオンとアンディ・ラウが互いに銃を突きつけあう有名なシーンは、この映画にはない。それがタランティーノ以来の流行りであることを考えると、スコセッシの矜持、だろうか)。
『ディパーテッド』が香港版と違っているひとつは、女性の描き方。ここではヒロイン役の女医、マドリン(ビーラ・ファミーガ)がコリンと同棲し、一方、ビリー(レオナルド・ディカプリオ)とも信頼しあっているという、いわば香港版のⅠとⅢを合体させたような設定になっている。
マドリンをはさんでビリーとコリンが三角関係になるわけだけど、そこからくる3人の葛藤に映画は深入りせず、男女の愛憎に関してはあっさり処理されている。せっかくこういう設定にするならもっと魅力的な女優をもってきて、ビリーとコリンが互いにスパイであることを暴こうとするだけでなく、マドリンを巡ってどろどろと絡みあう構図にしても面白かったかもしれないな。
(以下、ネタバレです)もうひとつ香港版と違うのは、ボスのコステロもまたFBIの内通者だったという設定。コリンはコステロに向かって、お前もFBIに内通していたのか、となじって彼を殺す。香港版で、アンディ・ラウはマフィアの一員である自分の素性を知る者としてボスを殺したけど、マット・デイモンはボスもまた裏切り者だったことで彼を殺し、結果として、「ねずみ」である自分の素性を知る者を抹殺した。
コステロを内通者に設定したことは、コリンの性格ともかかわってくる。香港版で、アンディ・ラウは「俺は善人になりたいんだ」と何度もつぶやいていた。マット・デイモンはそんなことは口にしない。警察組織のなかでのし上がる野心のおもむくままに人を裏切り、殺す。
アンディ・ラウは善人になりたい思いと、裏切り者である現実との葛藤に苦しめられ、それが『Ⅲ』のテーマになっていたけど、マット・デイモンは裏切り者である自分に苦しむことはないだろう。裏切り者であるボスを殺し、自分が「ねずみ」であることを知っているディカプリオや同僚を殺し、裏切りを重ねてのし上がっていく。どっちがいいということじゃなく、一方はセンチメントを好む東洋の映画で、一方はハードなアメリカ映画ということだろうか。
ただ、そこから生まれてくるものは違う。アンディ・ラウとトニー・レオンが画面いっぱいに漂わせていたのは哀しみの感情だった。これは設定だけでなく役者の違いでもあるけれど、特にトニー・レオンが潜入捜査官として神経を研ぎすまして生きることから身体全体で発している哀しみは、『インファナル・アフェア』全体のトーンを決めていた。無論、同じ東洋人として感情移入しやすいこともある。でも、それ以上にトニー・レオンとディカプリオでは役者の力量の差が歴然。
スコセッシ映画のいいところ──時にはそれが欠点にもなるけど──は、くだくだしい内面描写を嫌うことだろう。思い入れたっぷりに登場人物の心理を描くことをせず、テンポの速いセリフと一瞬の表情としぐさでそれを示そうとする。1970年代のデビュー当時、それは新鮮だった。だからスコセッシが『インファナル・アフェア』のそういう部分を切り落としたのは分からないわけじゃない。
ところが長所は裏返しの欠点でもあって、演出の失敗や役者のせいでそれがうまくいかないと、観客は登場人物に感情移入できずに映画から取り残されてしまう。スコセッシの失敗作は、たいていこのパターンだった。
ちょっとしたセリフと一瞬の表情で内面を伝えるスコセッシの演出をスクリーン上で見事に体現していたのがロバート・デ・ニーロであるのは、誰もが知るところ。でも逆に言えば、デ・ニーロのような役者がいてはじめてスコセッシの意図する映画ができあがるのかもしれない。
ディカプリオはちょっと荷が重いな。この映画がかつてのスコセッシを思い出させたのは、デ・ニーロに代わってジャック・ニコルソンが主役の2人を掌の上であやつる人物として画面に陰影を与えているからだろう。ちょっとやりすぎって気もするけどね。
ところで、この映画、音楽がなんだか不思議だ。
携帯が重要な小道具を果たすわけだから、時代は現代なんだろうけど、背後にはストーンズやビーチボーイズといった60~70年代の曲が流れている。また全編を通じて、アイリッシュの話であるにもかかわらず、ラテン・テイストの憂いに満ちたアコーステッィク・ギターが流れている。
それらの音楽がいかにもマフィアもの映画のノワールな空気に合ってるんだけど、そういう意図的なミスマッチが、この映画にどこか非現実的な空気を与えているように思えた。
『ディパーテッド』は香港版のリメークを離れて、スコセッシのギャングものとしてたっぷり楽しめ、興奮する作品だった。ただ、全編を通しての哀しみの深さにおいて、『ディパーテッド(死者たち)』より『インファナル・アフェア(無間地獄)』のほうが、いつまでも僕の記憶に残るような気がする。
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