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February 24, 2007

『不機嫌な男たち』の妄想世界

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『キムチを売る女』が面白いと聞いて渋谷のイメージ・フォーラムに行ったら3日前に終わってて、同じ「韓国アート・フィルム・ショーケース」シリーズの『不機嫌な男たち(英題:Possible Changes)』がかかってた。

ここから他の映画館は遠いし雨も降ってきたから、どんな映画なのか何の情報もないまま見ることにした。こういうとき「当たり」にぶつかると、不見転で買った本やCDが面白かったのと同じで、自分の選択は間違ってなかったと、ちょっとだけ得をした気分にひたれる。

で、結果はといえば、うーん、はずれでしたね。「アート・フィルム」シリーズの1本だからそれなりの仕掛けがあって、何をやりたいか分からないわけじゃないんだけど、映画としては楽しめなかったな。

主人公は2人のくたびれたインテリ中年。作家志望の無職男ムノ(チョン・チャン)と、研究所勤めのジョンギュ(キム・ユソク)。ムノは家族と無為な日々を過ごしながら、ネットで知り合った女に変てこりんな手紙を書いて誘い出す。独身のジョンギュは、初恋の相手で大学で教えている女性講師に、理由をつけて会いにいく。

そこから映画は現実と夢(というか妄想)が交じり合い、現実はそうならないのに、妄想のなかで2人はそれぞれ相手の女性と会ってあっという間にセックスすることになる。

現実と妄想の境界ははっきりしないんだけど、現実はブルーがかった冷たい色調で、妄想は赤みのある暖かい色調で撮影されている。でも最初のうちそのことに気づかないから、あっけないほど簡単に寝てしまう女たちを見て、え、これなんなの? って感じになってしまう。映画も後半になって、どうもこれ現実じゃなく妄想なんだなとやっと気づいたのは、見る側の目がないせいか。

監督はミン・ビョングク。ホン・サンスの助監督をしていたらしいけど、どちらかというとパク・チャヌクや初期のキム・ギドクのテイストに近いみたいだ。

でも、パク・チャヌクのような粘着質な悪意の昇華はなく、キム・ギドクみたいな風俗描写の冴えもない。主人公2人の性的妄想が妄想のままにとどまっていて、それが彼らの精神的危機とどう結びついてくるのかよく分からないから、ラストシーンが見ている側に響いてこない。まあ処女作だから、奇妙な作品ということだけで十分に評価できる。蛹が蝶になるように、いずれ突然変異することを期待しよう。

かつての日活ロマン・ポルノを見てるみたいに、唐突に過激なセックス・シーンになるのがおかしかったな。

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February 17, 2007

『善き人のためのソナタ』とメロドラマ

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蛍光灯の青白い光に照らしだされた灰白色の壁と青ざめた顔。この映画を貫いているのは、そんな冷たい色彩だ。無骨な机があるだけの尋問室。飾り気のまったくない無機質なオフィス。闇の中に青白く浮かぶ盗聴装置。目を射る鮮やかな色彩は皆無で、隅から隅までどんよりした曇り空のような世界。人気もなく、音もなく、不気味に静まりかえった街路と建物のなかで物語が展開する。

崩壊以前の旧東ドイツで、「社会主義」を標榜した独裁国家に疑問をもつ反体制市民を監視する役割をになったのがシュタージ(国家保安省)だった。市民の日常を監視し、反国家的とされた市民は「others(あちら側の人間)」として排除される。局員9万人。密告協力者17万人。旧東ドイツの総人口1700万人に対して17万人ということは、国民100人に1人が密告者だったことになる。

『善き人のためのソナタ』は、日常生活のどこに密告者が潜むかわからない監視社会に生きるとはどういうことなのかを、肌身に沁みるように描きだしている。皮膚の内側が粟立つような恐ろしさ。激しい恐怖というより、じわっと重い霧のように不安な空気を醸しだすのに、旧シュタージ本部など当時の建物を使ってのロケが効いている。

主な登場人物は3人。反体制の疑いをかけられた劇作家のドライマン(セバスチャン・コッホ)。ドライマンの恋人で、権力者とも関係をもち密告を強いられる女優のクリスタ(マルティナ・ゲデック)。ドライマンの盗聴を命じられたシュタージの局員、ヴィースラー(ウルリッヒ・ミューエ)。

この3人を中心に、一方に大臣やシュタージ幹部といった権力者、他方に反体制派として活動を禁じられた演出家を配して、いわば東ドイツという国全体の見取図を10人足らずの登場人物で描きだしている。

権力者と反体制派の演出家が、正反対ではあるがそれぞれ固い信念に貫かれているのに対して、主役の3人はいわば「普通の人々」だ。

反体制派の演出家に共鳴するドライマンも、映画の前半では自作の劇の成功に酔い女優の恋人との生活を楽しむ、才能はあるけれどごく当たり前の男にすぎない。女優のクリスタも、権力者の誘いを拒めず密告せざるをえない立場へと自ら墓穴を掘っていく弱い人間。

ドライマンを盗聴するヴィースラーも、拷問すれすれの尋問の専門家なのだけれど、ドライマンとクリスタの24時間を監視し、彼らの自由な考え方や奔放なセックスを闇のなかでひとり耳をそばだてて「聞く」うちに、彼らの言葉に引き寄せられ、少しでも弱みを見せたら自らも破滅する国家の一歯車として固く鎧った心が揺らぎはじめる。

ドライマンが強権的な国のあり方を告発する文章を西側に発表し、ヴィースラーがそんなドライマンに密かに共感を寄せるきっかけとなるのが「善き人のためのソナタ」。反体制派の演出家がドライマンの誕生祝いに楽譜を贈ったこの曲を、演出家の自殺を聞いたドライマンがピアノの前に座って弾きはじめ、傍らでクリスタがドライマンに寄り添って耳を傾け、その音をヴィースラーが闇のなかで盗聴しているシーンは素晴らしく美しい。

この曲だけでなく、登場人物が語る声以外ほとんど静寂が支配しているこの映画で、音楽が重要な役割を果たしている(音楽はガブリエル・ヤレド)。さまざまなシーンで、登場人物の感情を物語るようにプラハ交響楽団が演奏する音楽が、時にやりすぎじゃないかと思えるほどに画面の背後に流れている。

この映画はメロドラマなんだな、と思う。広辞苑によると、メロドラマとは「もと、18世紀イタリアに起こった音楽を伴奏として台詞の朗読を行う劇。人物や場面の心理的内容を器楽の伴奏によって表現する。現代では一般に、感傷的な通俗劇の意に用いる」とある。

ここでは確かに「人物や場面の心理的内容」が「器楽の伴奏によって表現」されている。33歳のフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督の演出はデビュー作とは思えないほど巧みで、どこにもとんがった表現を見せない。そしてクリスタの運命や、人は変わりうるという希望をほのかに感じさせるエンディングも含めて「感傷的な通俗劇」であることを恐れていないように見える。

というよりも、かつて存在した東ドイツという国の、すべての市民がこの映画の登場人物のように生きざるをえなかった国民的体験を描き、それを国民的記憶として共有するために、監督はこの映画のメロドラマというスタイルを積極的に選んだように思える。

シュタージ局員のヴィースラーは、シュタージの記録上では名前ではなく「HGW XX/7」という記号で表されている。ラストシーン。東ドイツの崩壊後に活動を再開したドライマンは、自分を救ったヴィースラーの名前にではなく「HGW XX/7」という記号に感謝を捧げる。それは、ヴィースラーだけでなかったに違いない彼のような匿名的存在に対する、ドナースマルク監督の共感をこめた挨拶なのだった。


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February 12, 2007

『はこだて 記憶の街』とMoleの復活

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路上の人と風景を一瞬で切り取るスナップショットという写真の技法は、小型カメラ、特にライカの出現によって可能になったと言われる。

1925(大正14)年に発売されたライカA型は、小さなボディに高性能レンズをつけ、映画用の35ミリ・フィルムを使うことで、三脚を使わず、手持ちのまま素早く連続して何枚もの撮影ができるカメラだった。日本では1930(昭和5)年に木村伊兵衛がライカA型を手に入れ、東京の下町のスナップショットを撮って評判になっている。スナップショットは、カメラの小型軽量化という技術革新が新しい表現のスタイルを生み出したひとつの例といえるだろう。

ところで熊谷孝太郎の写真集『はこだて 記憶の街』(Mole刊・2940円)を見ていると、木村よりも一時代前に、地方都市のアマチュアがたくさんのスナップショットを試みていて、その質の高さにびっくりさせられる。

舞台は大正末から昭和初期の函館。撮影した熊谷は函館近郊に住む豊かな地主で、カメラに熱を上げるアマチュアだった。

春浅い季節だろうか。雪解けのぬかるんだ通りを、髷を結った着物姿の女性たちが歩いている。まだ寒いのだろう。みな肩にショールをかけ、すぼめたばかりの蛇の目傘を濡れないよう逆に持っている人もいる。髷に雪がかかったままの人もいる。カメラに向かって微笑んでいる美しい女性は知り合いなんだろうか。

当時の函館にはかなりの数の亡命ロシア人も住んでいて、毛皮のコートと帽子といういでたちの彼らも何人もスナップされている。大陸に向かって開けた港町には洋風の建物も多く、彼らもその風景のなかでまったく違和感がない。

そのうちの何枚かに、撮影する熊谷自身の影が写りこんでいる。頭をかがめ、胸の前に持ったカメラを上からのぞきこんでいる。むろんライカは発売されていない。残された原板はフィルムではなくガラス乾板だというから、小型の蛇腹カメラなんだろう。シャッターを一押しするごとに乾板を交換しなければならない。

ライカみたいな高性能のカメラではないから、速いシャッターは切れない。きっちりしたフレーミングもできない。いちいち乾板を交換するのも面倒だ。だからこのころ路上でスナップショットを撮るアマチュアはほとんどいなくて、絵画みたいに静かな風景を撮るのが大流行だった。

熊谷が当時の流行に背を向けて、なぜスナップショットを撮ろうと思ったのかはわからない。でも彼の写真を見ていると、スナップショットには不向きなカメラの技術的マイナスが、この場合、逆にいいほうに結果したんじゃないかと思えてくる。

この町で顔を知られていたにちがいない名士が、小さなカメラをもって路上に立っている。カメラが趣味であることを知っている人も多かったろう。写真館の技師や新聞社のカメラマンみたいな大げさな器械でもなく、機敏に動き回るわけでもなく、ゆったりとカメラを操作しては通りがかる人々を撮影している。裕福な旦那らしく、人の良さそうな笑顔(セルフポートレートによる)を浮かべた彼に、人々は思わず笑顔を向けてしまう。

そんなふうに熊谷孝太郎は、手にしたカメラとともにすんなりと町の空気に溶けこんでいるように見える。写す側の自然なふるまいは、写される側の自然さをも引き出す。だからこそ、80年前の町と人がこんなにも生き生きと感じられるんだろう。

発売元のMoleは、かつて東京・四谷にギャラリーを持ち、意欲的な写真展と出版を手がけていた。函館に拠を構えての復活を喜びたい(函館市豊川町9-23)。


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February 09, 2007

『それでもボクはやってない』のど真ん中

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『それでもボクはやってない』は、日本映画のど真ん中に位置する映画である。……などと言っても、なにがど真ん中なのか、説明しなきゃわからないよね。もっとも、そう言っている僕自身にしてから、ちゃんとわかってるのかどうか。きちんと説明できるのかどうか。

こんな見事な日本映画を久しく見たことがない。「見事な」と、細部の説明ぬきに言っても何を語ったことにもならないけど、ここがいい、あそこがいいというより、部分ではなく全体が、1本の映画として素晴らしく完成度の高い世界をつくっているんだと思う。

もちろんひとつひとつの要素を拾い上げることはできる。

痴漢冤罪事件という、今の時代の色んな問題や矛盾が集中する題材に目をつけた着想の面白さ。綿密な調査によって、脚本は緻密に練られている。逮捕された後の拘留や検事の調べ、そして裁判がどう進行していくのかを教えてくれる how to 映画になっているのもいい。

拘置所や裁判所といった狭い閉鎖空間を、あらゆる角度から切り取ったカメラワークもすごい。痴漢に間違えられる若いフリーターを演ずる加瀬亮のナチュラルさが,、今日ただいまの空気を感じさせる(竹中直人が一瞬、全体のアンサンブルを崩しそうになるけど)。たまに入ってくる音楽が、逆に音楽が入らないほとんどの場面のリアルさを際立たせている。

この映画は脚本も演出もカメラも演技も、すべてがオーソドックスにつくられている。長回しがあるわけではない。据えっぱなしだったり、奇妙な位置にカメラが置かれたりすることもない。意表をつくカットのつなぎもない。ふつう「作家的」と思われるこだわりが見事なくらい捨てられているように「見える」。

僕は「作家的」な映画が好きだから、このブログもそういう作品に偏り、しかも「作家的」にこだわったショットやシーンやモンタージュに出会うと、つい興奮してしまう。でもこの映画は、そういうことでは何も語れないように思うのだ。実は大変な個性があるのに一見個性的な顔をしてない映画とでも言ったらいいのか。

これ見よがしの作家の「印」を見せることをしないのに、またさしたるアクションもなく、ほとんどが狭い空間で展開されるのに、140分間、一瞬もゆるむことなく映画をドライブさせてしまう凄さ。映画が持っている直截なメッセージから「社会派」などと言われるけど、リアリズムで(時にセンチメンタルに)社会悪を告発したかつての「社会派」からは、この映画の空気は遠い。この映画の面白さは誰にでも届くし、それでいてコアなファンも満足させる。

去年、日本映画の興行収入が洋画を上回ったというニュースを読んだ。日本映画は再び活力を取り戻したように見える。お客さんが入ったのは、僕はほとんど見ないけど、「感動」を売り物にしたエンタテインメントで、その代表が『フラガール』だろう。

その反対側には、ミニシアターで公開されたり、早朝や深夜に上映される(時には公開の機会すら持てない)たくさんのマイナー系の映画がある。それをひとことで「作家的」と言っては大雑把すぎるけど、とりあえず「作家的」映画と言うならば、その代表が『ゆれる』だろう。

『フラガール』も『ゆれる』も、2本ともそれぞれによくできた映画だけれども、日本映画のど真ん中にあるという感じはない。

10代の僕が夢中になっていた1950年代後半から60年代の日本映画は、一方の極に5社の圧倒的に多数のプログラム・ピクチャーがあり、他方に独立プロや5社内部の異端である新藤兼人や大島渚や吉田喜重がいて、その両極の真ん中に心棒のようにして黒澤明や小津安二郎がいた。僕はそういう時代に映画を見て育ったから、どうしても今の日本映画には真ん中が不在だという感じを持ってしまう。

『それでもボクはやってない』は、あるいは周防正行は、長いこと不在だった日本映画のど真ん中に位置する、あるいは位置する可能性をもった作品であり監督であるという気がしたんだけど、どうだろう。

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February 02, 2007

『ディパーテッド』 スコセッシ快調

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映画がはじまってすぐ、乱れた髪に特徴的な額から鼻にかけての線で、あ、ジャック・ニコルソンだなとすぐに分かる横顔のシルエットがアップになる。

カメラは逆光のなかのシルエットを横移動で追いながら、ニコルソンのナレーション(だったと思う)で、これから物語られる人物たちがアイルランド系で、アフリカ系ばかりでなくカソリックのアイリッシュもまたプロテスタントのWASPから差別されていたんだと、映画の背景を簡潔に語る。

と同時にこのナレーションは、香港ノワール『インファナル・アフェア』のリメークであるこの映画が、ただのリメークではなく、マーチン・スコセッシが過去何本もの作品でこだわってきた移民たちの物語へと換骨奪胎した、独立した作品なのだという宣言とも受け取れる。

横移動していたシルエットのニコルソンが縦に移動し光のなかへ進み出ると、そこではじめて、年季のはいった凄みを感じさせるマフィアのボス、コステロ(ニコルソン)の顔が大写しになる。コステロの視線に相対するかたちで、少年時代と成年したコリン(マット・デイモン)のアップになった顔が重なる。

このあたり畳みかけるようなテンポのいい演出で、おお、スコセッシの昔のリズムだね、って感じ。このところ『ギャング・オブ・ニューヨーク』『アビエイター』と、いささかもったりした作品がつづいたけど、『タクシードライバー』前後のスコセッシ作品は全編息つく間もない緊張感を漂わせていた。その張りつめたテンポとまではいかないけれど、ギャングものを得意としたかつてのリズムとノワールな映像を思い出させて、心地よく映画に身をゆだねることができる。

舞台をニューヨークではなくボストンのダウンタウンに設定したのも、ボストン訛りがどの程度使われているのか僕には分からないけど、大都市ながら摩天楼のスカイラインがない古い街のローカルな雰囲気をうまく出している。

もっとも、スコセッシと脚本のウィリアム・モナハンがいくらこの映画の独自性を強調しても、『ゴッドファーザー』に匹敵する香港ノワールの傑作『インファナル・アフェア』と比べたくなってしまうのはどうしようもない。

大枠のプロットが同じであるだけでなく、取引の現場、映画館、ビルの屋上といった香港版の名場面がほとんどそのまま再現されているから、『ディパーテッド』を見て改めて『インファナル・アフェア』の脚本の緻密さと映像感覚の冴えを再確認することになる(ただ、ラスト近くでトニー・レオンとアンディ・ラウが互いに銃を突きつけあう有名なシーンは、この映画にはない。それがタランティーノ以来の流行りであることを考えると、スコセッシの矜持、だろうか)。

『ディパーテッド』が香港版と違っているひとつは、女性の描き方。ここではヒロイン役の女医、マドリン(ビーラ・ファミーガ)がコリンと同棲し、一方、ビリー(レオナルド・ディカプリオ)とも信頼しあっているという、いわば香港版のⅠとⅢを合体させたような設定になっている。

マドリンをはさんでビリーとコリンが三角関係になるわけだけど、そこからくる3人の葛藤に映画は深入りせず、男女の愛憎に関してはあっさり処理されている。せっかくこういう設定にするならもっと魅力的な女優をもってきて、ビリーとコリンが互いにスパイであることを暴こうとするだけでなく、マドリンを巡ってどろどろと絡みあう構図にしても面白かったかもしれないな。

(以下、ネタバレです)もうひとつ香港版と違うのは、ボスのコステロもまたFBIの内通者だったという設定。コリンはコステロに向かって、お前もFBIに内通していたのか、となじって彼を殺す。香港版で、アンディ・ラウはマフィアの一員である自分の素性を知る者としてボスを殺したけど、マット・デイモンはボスもまた裏切り者だったことで彼を殺し、結果として、「ねずみ」である自分の素性を知る者を抹殺した。

コステロを内通者に設定したことは、コリンの性格ともかかわってくる。香港版で、アンディ・ラウは「俺は善人になりたいんだ」と何度もつぶやいていた。マット・デイモンはそんなことは口にしない。警察組織のなかでのし上がる野心のおもむくままに人を裏切り、殺す。

アンディ・ラウは善人になりたい思いと、裏切り者である現実との葛藤に苦しめられ、それが『Ⅲ』のテーマになっていたけど、マット・デイモンは裏切り者である自分に苦しむことはないだろう。裏切り者であるボスを殺し、自分が「ねずみ」であることを知っているディカプリオや同僚を殺し、裏切りを重ねてのし上がっていく。どっちがいいということじゃなく、一方はセンチメントを好む東洋の映画で、一方はハードなアメリカ映画ということだろうか。

ただ、そこから生まれてくるものは違う。アンディ・ラウとトニー・レオンが画面いっぱいに漂わせていたのは哀しみの感情だった。これは設定だけでなく役者の違いでもあるけれど、特にトニー・レオンが潜入捜査官として神経を研ぎすまして生きることから身体全体で発している哀しみは、『インファナル・アフェア』全体のトーンを決めていた。無論、同じ東洋人として感情移入しやすいこともある。でも、それ以上にトニー・レオンとディカプリオでは役者の力量の差が歴然。

スコセッシ映画のいいところ──時にはそれが欠点にもなるけど──は、くだくだしい内面描写を嫌うことだろう。思い入れたっぷりに登場人物の心理を描くことをせず、テンポの速いセリフと一瞬の表情としぐさでそれを示そうとする。1970年代のデビュー当時、それは新鮮だった。だからスコセッシが『インファナル・アフェア』のそういう部分を切り落としたのは分からないわけじゃない。

ところが長所は裏返しの欠点でもあって、演出の失敗や役者のせいでそれがうまくいかないと、観客は登場人物に感情移入できずに映画から取り残されてしまう。スコセッシの失敗作は、たいていこのパターンだった。

ちょっとしたセリフと一瞬の表情で内面を伝えるスコセッシの演出をスクリーン上で見事に体現していたのがロバート・デ・ニーロであるのは、誰もが知るところ。でも逆に言えば、デ・ニーロのような役者がいてはじめてスコセッシの意図する映画ができあがるのかもしれない。

ディカプリオはちょっと荷が重いな。この映画がかつてのスコセッシを思い出させたのは、デ・ニーロに代わってジャック・ニコルソンが主役の2人を掌の上であやつる人物として画面に陰影を与えているからだろう。ちょっとやりすぎって気もするけどね。

ところで、この映画、音楽がなんだか不思議だ。

携帯が重要な小道具を果たすわけだから、時代は現代なんだろうけど、背後にはストーンズやビーチボーイズといった60~70年代の曲が流れている。また全編を通じて、アイリッシュの話であるにもかかわらず、ラテン・テイストの憂いに満ちたアコーステッィク・ギターが流れている。

それらの音楽がいかにもマフィアもの映画のノワールな空気に合ってるんだけど、そういう意図的なミスマッチが、この映画にどこか非現実的な空気を与えているように思えた。

『ディパーテッド』は香港版のリメークを離れて、スコセッシのギャングものとしてたっぷり楽しめ、興奮する作品だった。ただ、全編を通しての哀しみの深さにおいて、『ディパーテッド(死者たち)』より『インファナル・アフェア(無間地獄)』のほうが、いつまでも僕の記憶に残るような気がする。

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