色川武大エッセイズ
この1年ほど、風呂に入るとぬるめの湯に30分近くつかっている。その間、手持ちぶさたなので本を読む。むずかしい本は読めないから軽いやつ。しかも浴槽から手を出して本を支えなきゃいけないので、内容だけでなく物理的にも軽いのがいい。ときどき眠くなってカクンとなり、本を濡らして、あっ、しまった! なんてこともあるから、その点でも単行本ではなく安価な文庫本がいい。
お気に入りなのが、筑摩文庫のエッセイ・シリーズ。「田中小実昌エッセイ・コレクション(6巻)」「吉行淳之介エッセイ・コレクション(4巻)」と湯のなかで読破してきて、「色川武大・阿佐田哲也エッセイズ(3巻)」にはまっている。書棚には次の「風呂本」として「野坂昭如エッセイ・コレクション(3巻)」も用意してある。
4人のシリーズどれもテーマごとに既刊本から再編集されているから、どの巻を手にしてもたいてい3分の1から半分近くは読んだ記憶がある。でも読んでないのもあるし、彼らのエッセイは何度も噛みしめられる含蓄があり、読んで楽しいからついつい買ってしまう。筑摩さんの商売もうまい。
いま読んでるのは『色川・阿佐田エッセイズ』2巻の「芸能」。色川の戦後体験を軽くおさらいした「戦後史グラフィティ」を巻頭に、「芸人たち」「唄」「映画」と3つの章が立てられてる。
僕は戦後生まれだから、この本で取り上げられた戦中・戦後の芸人たち、志ん生や金語楼やエノケンや左ト全の姿には、子ども時代から10代のころ、それこそ「ALWAYS」みたいなテレビで見た彼らの記憶が重なる。
左ト全といえば、東映大泉撮影所でバイトしていた学生時代、網走刑務所を模した門の脇の池で昼飯を食べていたら、そばで弁当を広げていたト全老から、「おめえ、これ食いな」とウィンナー・ソーセージをもらったことがある。そうだ、そんなこともあったなあと思い出すほんわかした気分が、風呂の読書にちょうどいいね。
でもうっかり油断していると、色川武大のエッセイが隠しもっている鋭い刃が時にぎらりと光って、うーむとうなることもある。「故国喪失の個性──ピーター・ローレ」では、映画『絹の靴下』での不器用なローレのダンスを観ながら、色川少年が涙ぐむ場面がある。
「ダンスひとつ、人と肩を並べて踊れないような、実に独特の格好で、長いことよく生きてきたね、と私はスクリーンの彼にささやきかけた。私もパラノイア的気質で、子供のころからどうしても人々の列からはみだしてしまう。それでひっこみ思案だけれども、内心は頑固で、おくればせに列のあとからついていくということをしない。ピーター・ローレの不思議なダンスは象徴的でなにをやっても自己流の不細工な形にこだわってしまう」
これなど、何度読んでも慄然とする『怪しい来客簿』にそのままつながる世界じゃないか。
ほかにも、映画『逢いびき』に触れて、「生きる姿勢が、センチメンタルではあっても、ロマンチックではない」なんて文章もある。え? 「ロマンチックではあっても、センチメンタルではない」じゃなくて? 「センチメンタルではあってもロマンチックではない」姿勢をよしとするって、どういうこと? なんて考えだすと、長湯がいよいよ長湯になってしまうのだ。
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