『武士の一分』の職人技
新年最初のエントリをこんな文章ではじめるのはなんとも具合が悪いけど、実は山田洋次の映画が好きじゃない。
「寅さん」シリーズは初期の2、3本しか見てないし、『幸福の黄色いハンカチ』以後はすっかり遠ざかってしまった。松竹ホームドラマの伝統を継いだ職人肌のうまさはわかるんだけど、そこにつけ加えられる説教くさい(と僕には思える)ヒューマニズムがどうも肌に合わない。
久しぶりに見たのが藤沢周平の海坂藩もの『たそがれ清兵衛』。時代劇だし、下級武士を主人公にした藤沢周平のつましく哀しい世界をどう表現できるかが勝負だから、押しつけがましいイデオロギー臭も目立たず、安心して楽しめる(泣ける)映画になっていた。
もっとも、「泣ける」からいいわけじゃない。泣けるでしょ、さあ泣きなさい、とばかりにそれらしい設定を恋人や親子に用意し、それらしいセリフをしゃべらせ、音楽も感動的に高鳴って、「泣く」んじゃなく「泣かされる」映画には、「泣かされる」だけに見終わって映画にも自分にも腹が立つ。
かつては松竹の「松本清張もの」がその代表だった。山田洋次はその何本かを撮っていて、僕が山田洋次を見なくなったのも、そんな体験があったからかもしれない(もっとも、清張ものでは山田より野村芳太郎のほうがあざとかった)。
『武士の一分』は、『隠し剣 鬼の爪』『たそがれ清兵衛』につづく藤沢周平もの第3弾。こういう映画を「佳作」とか「小品」と言うんだろうな。
小説や映画として成り立つために最小限必要な小さな世界から、映画は一歩も出ようとしない。『隠し剣』や『たそがれ』ではまだ藩に対する謀反とか上意討ちとか、藩の政治的出来事が背景になってたけど、ここではそういう「大きな」世界はない。
藩の有力者(板東三津五郎)が、毒味役の下級武士(木村拓哉)の妻(壇れい)を騙し、関係をもったことに対して、盲目の下級武士が「武士の一分」で一太刀あびせようとする。上役と下級武士とその妻という、3人の男と女がもつれる世界にひたすら沈潜する。そこが好ましい。
山田洋次の演出は抑制が効いている。あざとい「泣かせ」はない。映像的効果を狙った余分なカットもないし、必要以上の音楽もない。セリフも、日本映画によくある説明過剰はない(ただ、「武士の一分」というセリフが3度出てくるけど、これは1度のほうが効果的だったはず)。
そのかわり、すべてがほどよく、驚きはない。心地よく藤沢=山田の世界にひたれる。同じ職人監督でも例えば加藤泰のような激しい抒情や、鈴木清順のような斬新な映像が映画的興奮をもたらす体験はない。だからこそ「清張」「寅さん」「釣りバカ」(脚本)と、松竹の看板を何十年も背負ってこられたんだろうけど。藤沢周平ものもまた、同じように延々とつづくシリーズになるんだろうか。
木村拓哉は下級武士の哀しみと意地をとてもうまく出してるけど、壇れいは姿かたちが現代的すぎるね。ここは前作につづいて宮沢りえにやってほしかった。
Comments
雄さん、遅ればせながらあけましておめでとうございます。
確かに正月早々ではありますが、「男はつらいよ」シリーズは森崎東監督作品が好きで、どうも山田洋次監督とは組しない私であります。
ということで、実はこの作品、未見ながらご挨拶をばと思い、ついついコメントしてしまいました。
本年もよろしくお願いいたします。
Posted by: nikidasu | January 07, 2007 03:29 AM
あけましておめでとうございます。
僕は大晦日にふらりと1人で都心に出て(家族の白い目を受けながら)、映画を見てお茶を飲むのが毎年のことになっているのですが、今年は見たい正月映画も少なく、かといってミニシアター系の映画に行く気分でもなく、『武士の一分』は消極的選択でした。
山田洋次と肌が合わないわりには素直に「泣ける」映画で、われながら妙なエントリになってしまいました。学生時代、山田洋次の党派的な発言にかちんときた記憶があり、若い頃の偏見(?)はいつまでもつきまといますね。
などとまた正月にふさわしからざる発言をしてしまいましたが、今年もよろしくお願いします。
Posted by: 雄 | January 07, 2007 12:49 PM