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December 31, 2006

今年のベスト1

Days of Books, Films & Jazz と名づけたブログのわりには、今年は映画に片寄ってしまったような気がします。大晦日のエントリに、今年いちばん印象に残ったものを(新作に限って)思いつくまま上げてみることにしました。

●映画(洋画)
『父親たちの星条旗』(クリント・イーストウッド監督)
『硫黄島からの手紙』と合わせた2部作は映画史に残る作品だと思う。イーストウッドを同時代に見ることができる幸せを感ずる。他に好きだったのは『百年恋歌』(ホウ・シャオシエン)、『うつせみ』(キム・ギドク)。

●映画(邦画)
『ゆれる』(西川美和監督)
今年はあれこれ迷うほど見てないな。評判の『フラガール』は、よくできた映画、程度の印象しか受けなかった。『ゆれる』は破綻もあるけど、たいへんな可能性を秘めてる監督だと思った。

●小説
莫言『四十一砲』
いま、読んでいていちばん面白いのは中国の莫言。前作『白檀の刑』ほどではないけど、文学的な実験とストーリー・テリングのうまさを高いレベルで結合させる技は抜群。

●ミステリー
マイクル・コナリー『天使と罪の街』
ハードボイルド、サスペンス系で新作が出るごとに読んでいた小説家が何人かいたけど、みな新作が出なくなったり、つまらなくなったりで、最後に残ったひとり。相変わらず興奮させてくれました。

●ノンフィクション
船橋洋一『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン』
北朝鮮の核問題をめぐる6者協議を各国政府高官に直接取材した同時進行のノンフィクション。ボブ・ウッドワードの仕事に匹敵する世界レベルの仕事です。

●ジャズ
嶋津健一「This Could Be a Start of Something Big」
日本人のジャズがたくさん出てるけど、今年はこれにとどめを刺す。アップテンポの曲に興奮し、バラードに酔う。アメリカのジャズはいい新作に当たらず。

●ポップス
マリーザ・モンチ「私のまわりの宇宙」
サンバ。今年の夏はこれを毎日聞いて、暑さをやりすごした。

●j-ポップ
井上陽水「LOVE COMPLEX」
若いころは好きじゃなかったけど、陽水は年を取るほどに過激に素晴らしくなってくる。同世代としては敬服あるのみ。

●写真
江成常夫『生と死のとき』
戦争花嫁や旧満州国など第二次大戦の日本人にこだわってきた江成が、病に倒れて身の回りを見つめた写真集。これを見た後だと、彼の過去の写真がまた違って見えてくる。

●展覧会
「藤田嗣治展」
藤田嗣治の戦争絵画を初めて見て衝撃を受けた。間違いなくフジタの最高傑作。これをどう受け止めたらいいのか整理できず、何度かブログに書こうと思ってまだ書いてない。

と、ここまできて気がついたけど、フジタどころか映画以外はまったくブログに書いてない。いかんなあ。反省しなきゃ。

てなわけで、みなさん、よいお年を。

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December 29, 2006

『ダニエラという女』は一夜の夢

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これほど徹底してひとりの女優に捧げられた映画も珍しいな。映像も、音楽も、名優ジェラール・ドパルデューですら、すべてがモニカ・ベルッチの美しさを際立たせるために存在する。もちろん、それでいいんです。そのためにつくられた映画なんだから。

1964年生まれというから、42歳。決して若くない。でもカルテイエやらプラダやらディオールやらの衣装やジュエリーをまとい、あるいは妖艶な黒い下着で、あるいは何も身にまとわず画面に君臨するモニカは、存在そのものがエロティック。

もちろんカメラや照明の角度によっては、男を誘惑するようなあの唇の周りに見える小皺や、腰周りの肉のつきかたに年齢を感じさせないわけじゃない。でもそこがまた、長い黒髪やしなやかな指や豊かな二の腕と相まって、常套句しか思い浮かばないけど「熟れきった果実」、昔なら「大年増の色香」、アラーキーなら「エロイイ女」としか言いようがないんですね。

宝くじを当てた平凡なサラリーマンと、金で買われて一緒に暮らすようになった飾り窓の女。平凡な毎日に退屈して娼婦稼業に舞いもどったり、ギャングの情夫(ドパルデューの強面の純情がいい!)が現れたりしながら、2人は離れてはくっつく。くっついては離れる。

ストーリーはもちろん、内面や心理描写なんてどうでもいいんで、モニカを見せるためにそれらしい「場」を重ねていくだけ。途中、ちょっと退屈もするけど、見せ場、見せ場をつなぐ歌舞伎みたいなもんですね。それがまた妙な味を出しているのが面白い。

一貫性などないいくつもの「場」に応じて、パトリス・ルコントふうだったり、ノワールになったり、いきなりコメディーになったり。音楽もヴェルディやプッチーニのオペラ曲だったり、ダラー・ブランドのサックスで情感たっぷり(「すすり泣くような」ってやつですね)のジャズだったり、ロックだったり。

風景描写がまったくなく、2人が暮らすアパートの階段が繰り返し登場して重要な「場」になるあたりは舞台劇のようだし、最後は現代的な『ラ・ボエーム』みたいになって終わる。現実感などどこふく風、徹頭徹尾つくりこまれた映画。

モニカ・ベルッチに惚れた監督のベルトラン・ブリエがつむいだ一夜の夢だと思えばいいのかもしれないね。覚めてみれば、モニカが発散したフェロモンの記憶だけが残る。

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December 23, 2006

『あるいは裏切りという名の犬』のフレンチ風味

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フランス製ノワールと聞いてあまりに懐かしくなり、公開前に家にあったフレンチ・ノワールの傑作『リスボン特急』を再々々々々々見して、またしても涙してしまった。

1960~70年代、ジャン・ピエール=メルヴィル(『リスボン特急』)、ジョゼ・ジョバンニ(『暗黒街のふたり』)、ジャック・ドレー(『フリック・ストーリー』)らがつくったフランスのギャング映画(当時まだノワールという呼び方は一般的でなかったと思う)には、東映ヤクザ映画に劣らず興奮させられた記憶がある。

御大ジャン・ギャバンも元気で、アラン・ドロン、ベルモンド、イブ・モンタン、ジャン・ルイ=トランティニャンにリノ・バンチェラと、ギャング(刑事)をやらせたら絶品の役者たちがそろっていた。

その伝統がどう引き継がれているのか? いないのか? 『あるいは裏切りという名の犬』(邦題ちょっと凝りすぎ)は期待にたがわず、濃すぎるくらいに濃いノワールだった。

ダニエル・オートュイユとジェラール・ドパルデューの2大スター対決。パリ警視庁で長官の座を争うライバル。ひとりの女を奪いあった過去。友情と裏切り。出世と転落。この手の映画の王道をいく設定に、『インファナル・アフェア』ふうな組織内部の対立といった今っぽさも加えて、たっぷり楽しませてくれる。

画面の背後で高鳴る音楽がなんともセンチメンタルで、ちょっとやりすぎじゃないの、香港ノワールだって今はもっとクールだよと思うけど、まあ許そうかという気になるのは、ほんとに久しぶりにフランス暗黒映画の濃厚な味を堪能したから。

正義派で人望もあるオートュイユと、野心家で強引なドパルデューという2人のキャラクターがくっきり立っているのが、この映画のすべてと言ってもいいくらい。どちらも素晴らしいけど、涼しい顔で友を裏切り、陰謀もめぐらすドパルデューの悪ぶりがとりわけいいな。オートュイユも、前作『隠された記憶』のインテリ大学教授役よりはるかに生き生きしてる。

老いた元娼婦役のミレーヌ・ドモンジョは、高校時代に胸をときめかせた女優。かつての官能的な美しさの面影はある。ノワールは年くった女優が重要な役どころをやることの多い映画だからいいよね。もっとも、ヒロインのヴァレリア・ゴリノは、オートュイユとドパルデューが争った宿命の女という役柄のわりには魅力を感じなかった。

脚本・監督のオリヴィエ・マルシャルは元警官で、自分が警察官時代に見聞きした実話をもとにシナリオを書いたという。伏線をそこここに張りめぐらせながら、ヒーローとヒールを対立させ、ヒーローが転落してヒールが出世し、そこから最後の結末にいたるまでテンポよく畳みかける構成は、これが2作目とはとても思えない。

メルヴィルに代表されるかつてのフランス・ノワールは、ゆったりしたテンポで間を取りながら登場人物の人間像をじっくり描いていった。この映画は30年後につくられただけあって、寡黙な男というメルヴィル映画の主人公の造形を受け継ぎながら、同時に今ふうのテンポを合わせもっている。

オートュイユとドパルデュー、2人の男のドラマに最後まで見入ってしまうのは、映像もセリフもフランス・ノワールの定型を踏まえながら、脚本や演出に現代的なリズムが感じられるからだろう。

フレンチ・ノワール、もっと見たいな!

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December 16, 2006

『イカとクジラ』は痛いコメディ

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舞台は1986年のブルックリン。16歳と12歳の息子がいる作家夫婦。長男が生まれたのが1970年前後になるから、彼らはドラッグとロックとベトナム反戦の60年代を経験した戦後生まれのベビーブーマー世代ってことになる。

生まれ育った国も環境も違うけど、「60年代」は当時の先進国の若い世代共通の記憶になっていて、それを体験した者の匂いはすぐにわかる。夫のコーデュロイのジャケットや髭、妻のストレートな髪やコットンシャツを無造作に着こなすファッションはまぎれもなくその徴。あ、俺たちの世代の物語だな、と思った。

監督のノア・バームバックは1969年生まれだから、16歳の息子ウォルト(ジェス・アイゼンバーグ)がいわば監督の分身。子供の目を通した自分たちの世代のお話というのは、どうにも尻がもぞもぞと落ち着かない。

父親のバーナード(ジェフ・ダニエルズ)は、かつて脚光を浴びたけれど、今は教師として生計を立てている売れない作家。新進作家として売り出し中の妻ジョーン(ローラ・リニー)から離婚を申し渡され、同じブルックリンに空き家を借りることになる。子供たちは3日おきに夫と妻の家を行き来する。

離婚というこの映画の最大の「事件」は、はじめの10分で起こってしまう。あとは事件らしい事件もなく、夫と妻、2人の息子をめぐる日常的なエピソードが積み重ねられる。その結果、なにが起こるわけでもないけど、ラストで「イカとクジラ」のジオラマの前にウォルトが立ちつくすまでの親子の姿がなんとも切ない。

バーナードは教え子のキュートな女子学生に部屋を貸し、彼女に迫っては、みっともない姿を息子のウォルトに見られてしまう。ポケットに金がなく、一緒にお茶を飲んでいたウォルトのガールフレンドが黙って差し出す札を礼も言わずに(言えないよね)受け取る。

息子とガールフレンドを連れて見に行く映画は、デビッド・リンチの変態(?)映画『ブルーベルベット』(そういえば僕も「ツイン・ピークス」にはまった高校生の娘に『ブルーベルベット』を薦めたことがあったっけ)。下の息子フランク(オーウェン・クライン)と卓球をしていて熱くなり、ムキになってスマッシュを打ち込む(そういえば僕も…)。

ウォルトは父を作家として尊敬し、教室でフィッツジェラルドやカフカの名前を口にしては女の子の気を引くスノッブ。ガールフレンドはいるけど、父親が連れこんだ年上の女子学生にもなびく。高校の学園祭で、ピンク・フロイドの「Hey You」を自作の曲と偽って歌い、賞金100ドルをせしめてしまう(その場で誰も気づかないとは信じられないけど。ま、万引きみたいなもんですかね)。そんな日々を送りながら、父と母のあいだをあてどなく漂っている。

子供に対してもエゴを隠さず、まっとうな「父親」になれないバーナードのみっともない姿は、まぎれもなく僕たちの世代の自画像。息子のウォルトは、誰でも思い当たるに違いない十代のある時期の青春。

見ていて、バーナードをどこかしら自分の分身みたいに感ずるし、ウォルトも過去の自分の分身のように感ずる。そんな等身大の人間たちが素晴らしい。

離婚を決めた母親ジョーンが、鏡に向かって荒れた自分の唇の薄皮をはがすシーンがある。その痛さが、ひりひりと伝わってくる。繰り返し流れる「Hey You」が、まるで自分に語りかけられているように感ずる。痛いコメディ。

ブルックリンの路上で、地下鉄で、ときに盗み撮りもされたらしいロケーション。16ミリの手持ちカメラで撮影された粒子の粗い映像が、80年代の空気を鮮やかにすくいとってるね。

監督のノア・バームバックは『ライフ・アクアッティック』(ウェス・アンダーソン監督)の脚本にも参加した若手。この映画の製作者になっているウェス・アンダーソンとは、次の仕事でも一緒に組んでいるらしい。目を離せない監督がまたひとり増えた。

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December 09, 2006

『007 カジノ・ロワイヤル』はモノクロームで始まった

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MGMのライオンとコロムビアの自由の女神、おなじみのオープニング・ロゴがモノクロームで始まったので、これはいつもの007と違うかもしれないなと思ったら、やっぱり。

プロローグはモノクロの格闘シーン。優雅な服と身のこなしのいつものボンドではなく、チンピラみたいなボンド(ダニエル・クレイグ)が、汚れたトイレットで便器を壊しながら男と激しく格闘を繰り広げる。カメラは手持ちで揺れ動き、荒れた粒子。こんなリアルな映像は、007シリーズで見たことはなかった。

モノクロはすぐにカラーに変わるけれど、このプロローグが映画全体のトーンを正しく予告している。ダニエル・クレイグのボンドは、とにかく肉体を酷使する。毎回のように登場する新兵器はなく、銃だけ。しかも銃よりも、とにかくひたすら殴り、殴られ、血まみれになる。格闘しながらクレーンから飛び降り、階段をころげ落ち、崩れ落ちる建物のなかを走り、顔はいつでもナマ傷だらけ。あげくに素っ裸にされて拷問を受け、あられもない悲鳴を上げたりもする。これまでのボンドにはありえない姿。

もうひとつプロローグで予告されているのは、これみよがしのCGやSFXが使われていないこと。

いや、もちろん分からないところで使われてるんだろうけど、いくつもの見せ場、冒頭のマダガスカルの建設現場や、中ほどのマイアミ空港のテロ、ラスト近くヴェネツィアで水中に崩壊する館など、どれもCGではなく、実際にセットを組んだりロケをしたりして撮影されている。ボンドが肉体を酷使するだけでなく、生の肉体や物を使うことによっていわばフィルム全体の身体性を回復することが意図されている。

原作の『カジノ・ロワイヤル』を読んだのは高校時代、40年も前のことだから、カジノ場面以外ほとんど記憶に残っていない。007の「前史」が小説でどんなふうに描かれていたのかも覚えていない。

007シリーズの原作は、アクションとお色気をミックスした洒落たテイストの、当時としてはスピード感あふれるスパイ小説だった。それを見事に映像化したのが『007 ロシアより愛をこめて(初公開時は「危機一発」でした)』だったことには誰も異論がないだろう。

高校生の僕は新宿ミラノ座で見て、ボンドがザクレブから列車に乗り、ロバート・ショウとコンパートメントですさまじい格闘を繰りひろげ、列車から降りて車に乗ったボンドを追ってきたヘリコプターを撃墜するあたりまで、息つく間もないノンストップ・アクションに圧倒された。ど下手なボンド・ガール、ダニエラ・ビアンキには魅力を感じなかったけど、その前後の作品『殺しの番号』のウルスラ・アンドレスや『ゴールドフィンガー』の金粉ヌードにはくらくらしたっけ。

派手なアクション、ボンド・ガール、新兵器、上司Mや秘書(マネー・ペニーだったか?)との軽口、テーマ音楽、すべてが『ロシアより愛をこめて』で完成し、以後の007シリーズはボンド役が次々に代わっても基本的に同じパターンを踏襲することになる。

僕も80年代前半までは新作が来るごとに追いかけたけど、いつの間にか足が遠のいた。シリーズの宿命でマンネリにおちいったのと、それ以上にCG、SFX全盛時代に、部分的にそれらを取り入れても、全体として荒唐無稽で英国上流階級の匂いのある007のテイストが時代に合わなくなったんだろうか。

そういう背景もあってだろう、今回の『カジノ・ロワイヤル』はシリーズの「お約束」のけっこうな部分をチャラにしている。「My name is Bond, James Bond」という決めゼリフも、あのテーマ音楽も、最後の最後まで登場しない。バハマやヴェネツィアといったご当地ロケはあり、カジノ・ロワイヤルではじめてボンドの定番衣装タキシードを着て優雅にふるまうけれど、戦いはじめるととたんに過去のボンドらしいスマートさは投げすてられる。

『カジノ・ロワイヤル』はマンネリを脱皮するために原点に帰るのではなく、まったく別の場所に着地した。そのざらついたリアルさ(脚本のポール・ハギスのテイストか?)と、シリーズに欠かせない「お約束」が奇妙なごった煮になっているあたりが、この作品のおもしろさといってもいいかも。

これはこれで楽しめるし、アクション映画としての出来も悪くないけど、007前史であるこの作品のラストシーンで「My name is Bond」と名乗ったダニエル・クレイグが、優雅で女たらしで皮肉屋のショーン・コネリーのボンドになるとは信じられないなあ。もちろん別の映画だから当たり前なんだけど、ショーン・コネリーのボンドが記憶に鮮烈な当方としては、そのあたりのつながりに妙にこだわりを持ってしまった。

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December 08, 2006

ある民家の肖像・1 縁側

古めかしい日本家屋に暮らしている。名のある建築家でもなんでもない無名の大工がつくった、変哲もない家。建てられたのは1928(昭和3)年。持ち主は尉官クラスの軍人だったらしいが、戦後、僕の祖父母が買い取った。1970年代に土間だった台所と風呂場を改築した以外、そのまま使っている。数年前に、ぼろぼろになった土壁を塗りなおし、襖を張りかえたけれど、家の構造は建てたときのまま。

ここは東京の北側の通勤圏に属する。大きな産業のない戦前からの住宅地で、ひと昔前まで同じような日本家屋や、玄関横に一部屋だけ洋間をつけた「文化住宅」があちこちにあった。でも今ではほとんど新しい家に建てかえられたり、マンションになってしまった。

そのころから、この家を記録しておいてもいいかもしれないと思いはじめた。昭和初期、首都近郊の中層クラスの民家がどんなものだったか。もっとも自分の暮らしを公開するつもりはないので、生活臭のない部分だけ、少しずつ撮っていこうと思っている。

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この家に暮らしていちばんの贅沢は、縁側に寝転がっていること。日本家屋は夏の暑さをどうしのぐかを最大のテーマにしているので、家のなかを風が通りぬける。夏は涼しいし、真冬でも太陽が出ていればぽかぽかして、午後3時ころまで開け放したまま本を読んでいられる。

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ガラス戸は不用心なんだけど、サッシにする気になれないんだなぁ。

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戦前のガラスは今のような品質ではなく平面に微妙に凹凸があり、風景がわずかにゆがんで見える(2枚目の写真にゆがみが写っている)。それも風情といえば風情かも。


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December 02, 2006

赤い街

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数日前から駅で「浦和の街を赤くしようぜ!」ってビラが配られてた。Jリーグ初優勝に向けてホームでガンバ大阪を迎え撃つ浦和レッズを後押しするため、「赤い旗を家やベランダに掲げよう」というわけ。試合が行われる今日は、散歩していても赤い旗がそこここに掲げられている。このあたりはちゃんとしたレッズの旗を掲げてるけど、赤い紙を門に貼りつけたり、赤いタオルをベランダから下げている家もある。

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ゲームは3-2でレッズが快勝。試合が終わって1時間、駅近くの「レッズ居酒屋」には、スタジアムから帰ってきたサポーターが続々と集まって歓喜の叫びを何度も何度も上げていた。これを書いている今(午後6時40分)は、このあたりもっとすごいことになってるはず。

僕はどちらかというとラグビー派で、レッズは年に1試合見に行くか行かないかのなまくらサポーターだけど、「Jリーグのお荷物」と言われた時代の屈辱の最下位やJ2落ちを知っているだけに、やはり嬉しい。

映画や音楽の趣味が近くてTBやコメントのやりとりをしている大阪(!)の熱烈なレッズ・サポーター、kikuさん、おめでとう!

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