『麦の穂をゆらす風』の沈黙する風景
今年のカンヌ映画祭でパルムドール(最高賞)を受けたイギリス映画『麦の穂をゆらす風』、国内では反英映画じゃないかって批判されたんだってね。
アイルランドがイギリスの抑圧に抗して立ち上がった独立戦争を、アイルランド人の側から描いたのがこの映画。イギリス人のケン・ローチ監督は、アイルランドに駐留する英軍兵士をささいな出来事で発砲しては市民を殺し、残虐な拷問を加える加害者として描いている。どこかの国と同じように、「ローチは自分の国を愛してない」なんて声が出てきそうではある。そのまっすぐな姿勢には、参りましたというしかない。
でも、この映画が描いているのは、英軍兵士の残酷さ「だけ」じゃない。英軍による激しい弾圧の一方で、独立を求めてアイルランド共和軍(IRA)に加わったテディ(ボードリック・ディレーニー)とデミアン(キリアン・マーフィー)兄弟は、同志の粛正や処刑という政治の現実に否応なく巻き込まれる。そういうアイルランド側の歴史の暗部が、この映画のもうひとつの核になっているのだから。
イギリスの陰の部分にアイルランドの陰が重なるこの映画を救っているのは、弾圧、ゲリラ戦、内戦を繰り広げる登場人物たちを見守っているアイルランドの風景の美しさだろう。敵同士、味方同士が殺し合う場面の背後にはいつでも、ごつごつした岩山や、地味が悪く立木の乏しい斜面に広がる草原が一面に広がっている。
ケン・ローチの映画ではいつも鮮やかな風景に目をみはるんだけど、この作品でも本当の主役はアイルランドの風景といってもいいくらいだ(撮影=バリー・エイクロイド)。
なかでも印象的なのはドラマの節目で3回にわたって映し出される、林のなかの一軒の農家のショット。木立を切り開いた狭い土地に建てられた石積み、藁(?)葺きの粗末な一軒家。デミアンの恋人、シネード(オーラ・フィッツジェラルド)一家が住んでいる家だ。
最初にその家が出てくるのは、映画が始まってすぐ。医師になるためロンドンへ行くデミアンが、別れの挨拶にシネードの家を訪れる。デミアンたちを英軍兵士が追いかけてくる。シネードの弟が兵士に反抗し禁じられたゲール語でミホール(英語ではマイケル)と名乗ると、ゲール語を使ったという理由で弟は納屋に連れ込まれ刺殺されてしまう。映画の冒頭はデミアンたちが球技に興じる明るい場面だっただけに、対照的に林のなかに切り開かれた農家のショットが陰鬱な空気を感じさせる。
ロンドン行きの列車が出る駅でも英軍の横暴に出会ったデミアンは、医師になることをあきらめて共和軍に参加する。兄のテディに次ぐリーダーとなっていくなかで、敵に内通した幼なじみの少年を処刑するシーンは、彼方に山や谷を望む草原の、あまりに美しい風景のなかで進行する忘れがたいショット。処刑の後、デミアンはシネードに「僕は一線をこえてしまった」と告白する。デミアンが少年の母に処刑を告げると、母は彼に「2度と顔を見せないで」と告げる。
2度目に農家が映し出されるのは、その後。英軍のジープを待ち伏せて皆殺しにした後、デミアンたちが引き揚げると、英軍兵士が報復のためシネードの家を襲う。シネードを捕らえて髪を切り、家に火を放つ。藁葺き屋根はあっという間に炎上し、焼けこげた柱がむき出しになる。木立のなかに炎と煙が立ちのぼる農家を上方から捉えたロング・ショットが印象的。
やがてアイルランド共和軍とイギリスのあいだに休戦が成立するが、休戦条約をめぐって共和軍は内戦におちいる(以下、ネタバレです)。兄のテディはさらに多くの犠牲者を出すよりはイギリスの自治領となることに賛成し、自治領政府の軍人になる。弟のデミアンは完全独立を主張し、昨日まで同志だった自治領軍と戦うことになる。テディは逮捕されたデミアンに翻意を迫るけれど、彼はうんと言わない。テディはデミアンを処刑する。
3度目に農家が映るのは、ラストシーン。テディがデミアンの死を告げるために、シネードの家を訪れる。焼け落ちた屋根はそのままだ。デミアンの死を知ったシネードはテディに向かって、幼なじみを処刑したデミアンに幼なじみの母が言ったと同じ言葉、「2度と私の前に顔を出さないで」と告げる。
デミアンは幼なじみを処刑し、その母から拒まれる。テディは弟を処刑し、弟の恋人から拒まれる。
岩山と草原。石積みの農家。アイルランドの風景は、敵同士が殺し合い、味方同士が殺し合い、親子や恋人が引き裂かれるのを黙って見ている。許しもしない。否定もしない。そんな風景の沈黙を、『旅芸人の記録』でテオ・アンゲロプロスがやったようにケン・ローチも差し出したように感じられた。
アイルランドから分離してイギリスに帰属した北アイルランドでは、IRAの分派が今も同じ風景のなかで「戦争」を続けている。
Comments
こんばんは、TBありがとうございました。
どうも今はこちらのBlogがメンテナンス中らしいので、
TBのほうはまた改めてさせていただきます。
シネードの家が三度も悲劇の舞台になるのは、実に重くるしい展開でした。
同じようなことが、実際にもあったのではないでしょうか。
とにかく、アイルランド側の視点に立って物語をつむぐだけでも
ケン・ローチの相当な思惑があったことでしょう。
少し毛色は違うのですが、日本人監督によるエドワード・サイードの
ドキュメンタリー作品も、私は注目しています。
こちらも、あえて日本人がサイード像に迫るところに、なにか興味深いものが
見えてくるかもしれませんね。
Posted by: 丞相 | November 25, 2006 09:53 PM
イギリス映画というと、僕らの世代は『長距離ランナーの孤独』や『孤独の報酬』で強烈な印象がありますが、ケン・ローチは「労働者階級のリアリズム」の伝統をしっかり受け継いでいますね。
日本人がつくるサイードの映画ですか。どんなものになるんでしょう。欧米でもアラブでもない視点から、何か新しい発見があると面白いですね。
Posted by: 雄 | November 26, 2006 11:36 PM
やっとこの作品を観ることが出来ました。
アイルランドを描きつつも、もっと普遍的なものを感じさせる映画でした。
TBさせていただきました。
Posted by: カオリ | January 16, 2007 12:32 AM
「正義」を保証するものが歴史による後づけでしかないとすれば、この兄弟の対立は今もつづいているわけですね。同じ問題はヨーロッパに限ってもバスク(ETA)などで生々しい現実ですが、この映画はアイルランドの風景が救いでした。
Posted by: 雄 | January 18, 2007 06:58 PM