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November 24, 2006

『麦の穂をゆらす風』の沈黙する風景

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今年のカンヌ映画祭でパルムドール(最高賞)を受けたイギリス映画『麦の穂をゆらす風』、国内では反英映画じゃないかって批判されたんだってね。

アイルランドがイギリスの抑圧に抗して立ち上がった独立戦争を、アイルランド人の側から描いたのがこの映画。イギリス人のケン・ローチ監督は、アイルランドに駐留する英軍兵士をささいな出来事で発砲しては市民を殺し、残虐な拷問を加える加害者として描いている。どこかの国と同じように、「ローチは自分の国を愛してない」なんて声が出てきそうではある。そのまっすぐな姿勢には、参りましたというしかない。

でも、この映画が描いているのは、英軍兵士の残酷さ「だけ」じゃない。英軍による激しい弾圧の一方で、独立を求めてアイルランド共和軍(IRA)に加わったテディ(ボードリック・ディレーニー)とデミアン(キリアン・マーフィー)兄弟は、同志の粛正や処刑という政治の現実に否応なく巻き込まれる。そういうアイルランド側の歴史の暗部が、この映画のもうひとつの核になっているのだから。

イギリスの陰の部分にアイルランドの陰が重なるこの映画を救っているのは、弾圧、ゲリラ戦、内戦を繰り広げる登場人物たちを見守っているアイルランドの風景の美しさだろう。敵同士、味方同士が殺し合う場面の背後にはいつでも、ごつごつした岩山や、地味が悪く立木の乏しい斜面に広がる草原が一面に広がっている。

ケン・ローチの映画ではいつも鮮やかな風景に目をみはるんだけど、この作品でも本当の主役はアイルランドの風景といってもいいくらいだ(撮影=バリー・エイクロイド)。

なかでも印象的なのはドラマの節目で3回にわたって映し出される、林のなかの一軒の農家のショット。木立を切り開いた狭い土地に建てられた石積み、藁(?)葺きの粗末な一軒家。デミアンの恋人、シネード(オーラ・フィッツジェラルド)一家が住んでいる家だ。

最初にその家が出てくるのは、映画が始まってすぐ。医師になるためロンドンへ行くデミアンが、別れの挨拶にシネードの家を訪れる。デミアンたちを英軍兵士が追いかけてくる。シネードの弟が兵士に反抗し禁じられたゲール語でミホール(英語ではマイケル)と名乗ると、ゲール語を使ったという理由で弟は納屋に連れ込まれ刺殺されてしまう。映画の冒頭はデミアンたちが球技に興じる明るい場面だっただけに、対照的に林のなかに切り開かれた農家のショットが陰鬱な空気を感じさせる。

ロンドン行きの列車が出る駅でも英軍の横暴に出会ったデミアンは、医師になることをあきらめて共和軍に参加する。兄のテディに次ぐリーダーとなっていくなかで、敵に内通した幼なじみの少年を処刑するシーンは、彼方に山や谷を望む草原の、あまりに美しい風景のなかで進行する忘れがたいショット。処刑の後、デミアンはシネードに「僕は一線をこえてしまった」と告白する。デミアンが少年の母に処刑を告げると、母は彼に「2度と顔を見せないで」と告げる。

2度目に農家が映し出されるのは、その後。英軍のジープを待ち伏せて皆殺しにした後、デミアンたちが引き揚げると、英軍兵士が報復のためシネードの家を襲う。シネードを捕らえて髪を切り、家に火を放つ。藁葺き屋根はあっという間に炎上し、焼けこげた柱がむき出しになる。木立のなかに炎と煙が立ちのぼる農家を上方から捉えたロング・ショットが印象的。

やがてアイルランド共和軍とイギリスのあいだに休戦が成立するが、休戦条約をめぐって共和軍は内戦におちいる(以下、ネタバレです)。兄のテディはさらに多くの犠牲者を出すよりはイギリスの自治領となることに賛成し、自治領政府の軍人になる。弟のデミアンは完全独立を主張し、昨日まで同志だった自治領軍と戦うことになる。テディは逮捕されたデミアンに翻意を迫るけれど、彼はうんと言わない。テディはデミアンを処刑する。

3度目に農家が映るのは、ラストシーン。テディがデミアンの死を告げるために、シネードの家を訪れる。焼け落ちた屋根はそのままだ。デミアンの死を知ったシネードはテディに向かって、幼なじみを処刑したデミアンに幼なじみの母が言ったと同じ言葉、「2度と私の前に顔を出さないで」と告げる。

デミアンは幼なじみを処刑し、その母から拒まれる。テディは弟を処刑し、弟の恋人から拒まれる。

岩山と草原。石積みの農家。アイルランドの風景は、敵同士が殺し合い、味方同士が殺し合い、親子や恋人が引き裂かれるのを黙って見ている。許しもしない。否定もしない。そんな風景の沈黙を、『旅芸人の記録』でテオ・アンゲロプロスがやったようにケン・ローチも差し出したように感じられた。

アイルランドから分離してイギリスに帰属した北アイルランドでは、IRAの分派が今も同じ風景のなかで「戦争」を続けている。

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November 17, 2006

『硫黄島からの手紙』の「配慮」

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3万人近い犠牲者を出した硫黄島の戦闘を、日米双方の視点から描いた2部作の第2弾。『硫黄島からの手紙』は、戦闘を日本側から見る。アメリカ側から描いた『父親たちの星条旗』のエントリで「期待と不安が相半ば」とコメントしたんだけど、うーん、期待と不安の両方が半分ずつ的中したような、ちょっと複雑な印象をもった。

作品の出来は悪くない。いや、これ1本だけ見たら、すごいと思ったかもしれない。ただ、第1弾がイーストウッドのフィルモグラフィーのなかでも重要な作品として残るにちがいない素晴らしい出来だっただけに、どうしてもそれと比較してしまう。

指揮官の栗林(渡辺謙)と末端の一兵士である西郷(二宮和也)の2人が、戦場で家族に書き送った(送られなかった)手紙を軸にして戦争の残酷さ、空しさを浮き彫りにするイーストウッドのメッセージは、きちんと見る者に伝わってくる。どちらが善でどちらが悪という図式は言うまでもなく排除されているし、できるかぎり日本人の心事に寄り添おうとするフェアさも感じる。中村獅童演ずるファナティックな軍人の滑稽さを通して、軍国主義に対する批判もある。

戦闘シーンは『父親たち』と同じように息をのむ(前作を見ていない知人が、度肝を抜かれたと言っていた。こっちは前作でそれを体験したから、そのぶん驚きが割り引かれてるかも)。

それでも、見終わってぶちのめされたように感じた『父親たちの星条旗』の圧倒的な力に比べると、僕には胸に迫るものが少しばかり足らなかった。戦争のもたらす哀しみが映画全体を霧のように覆っているんだけれど、『父親たち』のようにはそれがずしんと重みをもって胸に落ちてこなかった。それはなぜだろう?

答えがよくわからないまま書いてるんだけど、技術的には脚本に差があるのは明らかだと思う。前作(ポール・ハギス)は「硫黄島の戦闘」「銃後のアメリカ本土」「かつて硫黄島の英雄だった父を調べる息子」という3つの時間と場所が異なる場が設定され、過去と現在、戦場と銃後を自在に行き来して、重層的な構造のドラマがつくられていた。

『硫黄島からの手紙』も似たような構造を持っているんだけど、「調査団によって島に埋められた手紙が発見される現在」はあくまでプロローグとエピローグとして処理され、本筋と直にはかかわってこない。

また前作の「銃後」に相当するのが「栗林のアメリカ留学の過去」「西郷が妻(裕木奈江)と暮らした記憶」「元憲兵隊員・清水(加瀬亮)の過去」なんだけど、これはそれぞれの登場人物の回想として処理されている。だから前作のように重層的な時間空間の往き来はなく、硫黄島へ栗林が着任する場面から日本軍が玉砕するラストまで、時間も空間もまっすぐに進む。

しかも、物語が一直線に破滅へと加速していくのでなく、戦闘の合間に洞窟で手紙を書いたり、糞尿を処理したりといった戦場の「日常」がきめこまかに描かれている。むしろ、そういう「日常」の描写こそこの映画が狙ったことなのかもしれない。でもその結果として、全体が平板になってしまった感じはどうしても残る。

これはとても高度な脚本が求められる映画だと思う。劇映画処女作という日系アメリカ人の脚本家、アイリス・ヤマシタにはちょっと荷が重かったかも。日系ということで起用されたんだろうけど、できれば製作に回ったポール・ハギスにも参加してもらいたかったな。

もうひとつ考えられるのは、イーストウッド自身のモチベーション。硫黄島を映画化しようと思い立ち、調べるうちに2本つくらなければと感じはじめたという彼の思いはその通りだと思う。でも『父親たちの星条旗』には明らかに9.11以降のアメリカへの怒りと批判が込められていた(これについては前のエントリで書いた)。その思いの強さが、映画の切迫した息づかいとなって表れていた。

それは『父親たち』がアメリカ側から描いた映画だったからこそ実現できたのだけど、日本側から描いたこの映画では、それができない。その上、ハリウッドにはかつて日本人(アングロ・サクソン以外の人種と言いかえてもいい)を登場させて差別と誤解に満ちた映画をつくってきた過去があるだけに、それを避けるためのさまざまな配慮にも満ちている。

日本兵が捕虜を惨殺するだけでなく、米兵もまた投降した日本兵を殺すシーンを挿入することによって、日本人が残酷なのでなく戦争そのものが残酷であることが描かれている。ロス五輪の馬術で金メダルを取ったバロン西中佐(伊原剛志)が負傷した米兵を助け、ハリウッドのスター、メアリー・ピックフォードの名前を出して穏やかな会話を交わすシーンもある。

だから映画を見ていてとてもフェアな感じは受けるんだけど(日本家屋や服装の考証に難はあるにしても)、『父親たちの星条旗』にある自国への怒りと『硫黄島からの手紙』の他民族への配慮との「思い」の激しさ、深さの差が、2本の映画にそのまま滲み出てしまったような気がする。

イーストウッドはこの映画について、「私は日本映画を監督した」と言っている。確かに中身はアメリカ映画ではないにしても、善くも悪くも日本映画ではないんじゃないかな。

最近の『男たちの大和』なんかの戦争映画を見てないけど、過去の日本の戦争映画の大半は、好戦的な陸軍対和平志向の海軍、中央の官僚主義と現地の対立、といった図式のなかで、さあ泣けとばかりに主人公の思いの「純粋」さがひたすら謳いあげられる作品が多かったような気がする。

『硫黄島からの手紙』には、少なくとも日本の戦争映画のような図式やセンチメンタルな「泣かせ」はまったくない。すさまじい戦闘場面と、対照的に穏やかでなにげない「日常」のシーンが、前作につづいてイーストウッド自身の静かな音楽によって戦争の哀しみをそっと伝えてくる。だからこれはアメリカ映画でも日本映画でもなく、まぎれもなくイーストウッドの映画だと言うしかないな。

彼の映画では、さりげなく挿入されるシーンがひときわ心に響く。『父親たちの星条旗』では、硫黄島に向かう輸送船のなかで小隊を率いる軍曹が手にしたライターに火をつけ、その炎をじっと見つめるシーンがあった。

この映画では、栗林の持久戦戦術に不満をもつファナティックな中尉(中村獅童)が、撤退の命令を無視しひとり自爆攻撃をしかける場面。

闇の中で地雷を抱いて大地に横たわり米軍戦車を待つのだが、戦車は来ない。気がつくと朝で、眠ってしまった中尉がまだ自分は命があるのかと目を開けると、硝煙のただよう上空は青空。鷹だろうか、大きな鳥が生を象徴するように翼を広げて滑空している。その風景が心に沁みる。後に、中尉が生き残って捕虜になってしまう皮肉な結末も効いている。

役者では、パン屋出身の下級兵士を演じた二宮和也が飛びぬけていいと思った。ほかの役者が軍人の「型」にはまった芝居をしているなかで、ひとりだけ「型」を意識せず素直に役になりきっている。二宮の演技以前の無意識のなにものかを引き出したのは、イーストウッドの演出力だろうか。

この作品、日本武道館のワールド・プレミアで見た。大きすぎる空間、出入りする観客、非常灯が視野に入り、空調は効かず、外の音が侵入してくる。映画を鑑賞する環境としては最悪。だから劇場で見直すとまた別の感想をもつかもしれないけど。


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November 14, 2006

『明日へのチケット』と列車の映画

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エルマンノ・オルミ、アッバス・キアロスタミ、ケン・ローチ──『明日へのチケット』はカンヌ映画祭で最高賞パルムドールを受賞したことのある3人の「巨匠」が共同で監督した作品。それぞれの短編を並べるオムニバスではなく、3人が共同で1本の長編映画をつくった試みが面白い。

だからここは3人の監督が演出したそれぞれのパートの出来を云々するより、共同で1本の映画にしたそのいきさつやスタイルを語るべきなんだろうな。

公式ホームページによると、映画をつくるに当たって3人は脚本段階から意見を交換しあい、そこで2つの約束が交わされたという。ひとつは、1本の列車だけを舞台にすること、もうひとつは、3つのパートがどこかでつながっていること。

列車を舞台にするという約束は、オルミがインスブルックからローマへ向かう列車での老教授の魅力的な物語を発想したところ、キアロスタミとローチが、それなら別の映画をつくるより同じ列車で1本の映画にしようじゃないか、と提案したらしい。その結果、「列車の映画」ともいうべきものが生まれた。

列車という閉ざされた空間。旅する人間たちのからみあい。窓の外に流れる風景。映画の魅力を閉じこめたような「列車の映画」は、これまでいくつもの名作を生んできたよね。ヒッチコックの『バルカン超特急』、ジーン・ワイルダー主演の『大陸横断超特急』、アガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』、007シリーズの傑作『ロシアより愛をこめて』の狭いコンパートメントでのショーン・コネリーとロバート・ショウのすさまじい格闘も忘れがたい。

そのなかでいちばん記憶に残っているのは、学生時代に見たポーランド映画『夜行列車』(イェジー・カワレロウィッチ)。中年の男女が偶然ひとつのコンパートメントに乗り合わせたことから始まる、ミステリアスな映画。バックに流れるクールなジャズにはしびれたな。映画の最後近く、それまで列車から1歩も外へ出なかったカメラが初めて夜明けの荒野へ逃れ出たときの冷たい空気に触れた感触は、高校時代の最高の映画体験のひとつ。

『明日へのチケット』は、インスブルックからローマへ向かう国際列車「インターシティ」を舞台にする。老大学教授が、インスブルックで世話してくれた秘書に淡い好意を抱き、列車のなかでさまざまな幻想にとらわれる第1のパート(オルミ)は夜行列車で、窓の外は闇。

2等切符で1等席に居座る傲慢な将軍未亡人と、彼女を世話しなければならない若者のあてどなさが印象的な第2パート(キアロスタミ)は北イタリアの田園風景が窓の外に流れている。サッカーの試合を見にスコットランドからやってきたセルティック・ファンの若者3人が、アルバニア移民の家族とからみあう第3パート(ローチ)では、ローマのテルミニ駅でなんとも愉快なラストを迎える。

スタッフを見ると、脚本、撮影、録音、編集には3人の名前がクレジットされているから(共通なのは美術、衣装、音楽)、3人の監督それぞれのチームが組まれたのだろう。でも色彩設計も統一されているし、3人のカメラマンが撮影したものとは思えない。3人が一緒に撮ったシーンもあるらしい。

そして第3パートで主要な登場人物になる、食事も満足に取れないアルバニア移民の一家と、緑と白のユニフォーム(中村俊輔でおなじみ)を着た貧乏旅行の若者3人が、第1のパートでも第2のパートでもちらりと顔をのぞかせて「つながり」をつくり、1本の映画としての統一感を支えている。

なにより興味深いのは3人の監督の姿勢だろう。3人とも「巨匠」と呼ぶにふさわしいキャリアを持ち、そのスタイルもそれぞれに際だっている。古典的なリアリズムから出発したオルミ、長回しがトレードマークのキアロスタミ、鋭い社会批判をつづけているローチ。

そんな異なった個性をもった3人が、自分のスタイルが突出するのを抑え、穏やかな、それでいてそれぞれの個性を十分に感じさせる物語をつくっているのが、この作品がオムニバスではなく1本の映画として成立したいちばんの原因じゃないだろうか。そこから感じられるのは、3人のそれぞれの監督に対する深い敬意。それなくして、この映画は成功しなかったにちがいない。

際だった個性が一緒になってひとつの作品をつくるこの映画の試みで思い出したのは、映画ではなくジャズ。たとえば「ジョン・コルトレーン and デューク・エリントン」というアルバムがあった。「ジャズの父」のひとりであり、スイング・ジャズを代表するエリントンと、1960年代フリー・ジャズの最先端を突っ走っていたコルトレーン。

コルトレーンは大先輩のエリントンに敬意を払って情感豊かにエリントン・ナンバーのメロディを吹き、でも時に疾風怒涛のように走りはじめる。エリントンは自分のスタイルを守りながら、時にはっとするような若々しく新鮮なフレーズを紡ぎだす。まったく異なったスタイルを持つ2人の巨匠の共同作業が生んだ傑作アルバムで、僕の愛聴盤の1枚。

『明日へのチケット』も同じように3人のスタイルが融合して、老教授の幻想じみた内的な世界と、アルバニア移民や下層階級の若者3人に象徴される外的な現実がひとつに織り込まれることで、厳しい、でも最後には微笑することになるビターかつスイートな映画が生まれた。

3人の監督のなかでは、キアロスタミ監督の部分が、彼がほとんど描いたことのない男と女の隠微な感情を掬い上げていて、これから彼の映画を見るときの貴重な記憶になりそう。

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November 10, 2006

篠山紀信と宮本隆司

天下のシノヤマと廃墟建築の写真で知られる宮本隆司を並べたのは、別に2人の写真家に共通点があるとか、比べてみようというわけじゃない。ここ数年、アート・ギャラリーが次々にオープンしている六本木は芋洗坂へギャラリー巡りに行ったら、たまたま2人の写真展がごく近くで開かれていたから。

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(写真展DM)

篠山のは「TIME DIFFERENCE」(T&G ARTS、11月11日まで)。

女優・高岡早紀の12年前(モノクローム)と現在(カラー)とを組み合わせて展示している。石田えりや水沢アキでやった女優の「過去と現在」シリーズのひとつ。ちょっと高級なアイドル写真集として出版された最新刊のなかからエッセンスを抜き出し、2つの時をシンクロさせることでアートとして再構成してみせた趣がある。

そのうちの何点かは、同じポーズをした過去と現在の写真が、ひとつのフレームのなかに並べられている。モノクロとカラー。ヌードと着衣。1994年の鮮烈な肉体と、2006年の女優としての成熟と。

女性の微妙な表情(顔と肉体の)を引き出す篠山のうまさには今更ながら感嘆するのみ。

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(写真展ポスター)

宮本隆司のは「forgotton 忘れていた」(TARO NASU GALLERY、11月25日まで)。

宮本が、解体された建築物を撮った『建築の黙示録』で1989年の木村伊兵衛賞を受ける以前の作品が展示されていた。

80年代だろうか、カナダのヒッピー・コミューン。ネガに黴が生えた愛猫らしき写真。東南アジアの植民地様式の洋館。草むらに放置された無人の館は、その後の彼の仕事を予感させる。香港とおぼしき都市の夜の屋台やフェリー。へえ、こんなスナップショットも撮っていたのか。伐採され横たえられた大木。その物質感は後の宮本の写真に通ずるものがある。

国際的に評価の高い、むしろ海外での活動が目立つ宮本の、若き日の「忘れていた」写真たちが微笑ましいね。

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November 07, 2006

『16ブロック』の濃縮

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外見も性格もまったく違う2人がちぐはくな会話を交わしながら物語が進行するコメディーはニール・サイモンの十八番だけど、それを刑事と犯罪者という組み合わせのアクションものに仕立てたのは『48時間』あたりだろうか。ロバート・デ・ニーロの『ミッドナイト・ラン』なんかも、そのバリエーションみたいな作品だった。

『16ブロック』は『48時間』の設定をそっくりそのままいただいた映画だけど、時間と空間をぎゅっと濃縮することによって面白さを出している。

許された時間は48時間ではなく、2時間。 NY市警の刑事ジャック(ブルース・ウィリス)は証人のエディ(モス・デフ)を2時間以内に裁判所へ護送しなければならない。ジャックに命じられた時間は映画の上映時間(101分)に近いから、物語はほぼ同時進行で展開する。このあたりは『24』と同じ。

空間は警察署から裁判所までの16ブロック。マンハッタンの16ブロックといえば2キロ足らずだろうか。チャイナタウンやバワリーが舞台。望遠系のレンズを使って町と人のごちゃごちゃ感を強調しているのが、時間空間を濃縮したことに見合って効いている。バワリーはひと昔前は殺伐として1人では歩きたくない町だったけど、ずいぶんきれいな普通の町になったみたいだね。

かつての敏腕、今は飲んだくれ刑事ブルース・ウィリスと町のチンピラ、モス・デフが交わす会話も、汚れた警官のことを証言されたくない市警幹部がそれを阻止しようとするストーリーも、まあお約束みたいなもんだけど、撮影にNY市警の協力を得るためか、ラストがまともすぎるのがちょっと興ざめ。もう少ししゃれてほしかったな。

でも『リーサルウェポン』で名を上げたリチャード・ドナー監督の職人技に安心して身を委ねられる映画。ブルース・ウィリスの老けぶりはどこまでがメイクと演技で、どこまでがほんとうに老けたんだろう。心配になります。

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November 03, 2006

『父親たちの星条旗』の捨てられた星条旗

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すさまじくリアルな戦闘シーンがつづく『父親たちの星条旗』を見ながら、そういえばクリント・イーストウッドがちゃんとした戦争映画をつくるのは初めてだったんだな、と気がついた。

イーストウッドは西部劇から刑事もの、アクション映画、冒険映画、ノワール的だったりサイコふうだったりするミステリー、恋愛映画と、いろんなジャンルの映画をつくっているけど、意外なことに戦争映画といえるものは『ハートブレイク・リッジ』くらいしかない。

しかも『ハートブレイク・リッジ』は、一時代前の『特攻大作戦』(ロバート・アルドリッチ)や『最前線物語』(サミュエル・フラー)あたりを意識した、「ベテラン鬼軍曹が新米やダメ兵士を鍛えて一人前にする」系列の作品で、戦場へ出るまでがお話の中心になっていた。

いよいよ実戦になってもカリブ海の小国・グレナダ侵攻が舞台だから、戦闘らしい戦闘はほとんどない牧歌的な「戦争」。戦争映画というより、老軍曹の目を通した青春映画のようなテイストをもった作品だった。

イーストウッドの初めての本格的戦争映画は、玉砕覚悟の日本軍と死闘を繰りひろげる硫黄島の戦場、つくられた「英雄」を熱狂的に迎える「銃後」のアメリカ本土、「英雄」だった父の過去をたどる息子(現在)という3つの時と場所を自在に行き来しながら展開する。

題名(Flags of Our Fathers)からも分かるように、この作品は国旗(星条旗)が重要な役割をになっている。星条旗をめぐる映画とも言えるほどスターズ&ストライプスが次々に登場するなかで、あれっ、と思ったひとつのショットがある。「硫黄島の英雄」のひとりで先住民系の元兵士アイラ(アダム・ビーチ)が、手にした小さな星条旗を捨てる(?)ようなしぐさをする場面だ。

6人の兵士が硫黄島の山頂に国旗を掲げる、新聞に大きく報道され国民を熱狂させた1枚の写真。そこに写されたひとりアイラは、いやいやながら本国に帰国させられ、英雄として熱烈な歓迎を受けて戦時国債募集のキャンペーンに駆り出される。アイラは演出されることに違和感をもって酒びたりになり、キャンペーン・ツアーのなかで「インディアンめ」と蔑まれる体験もする。

国民の熱狂が去り復員したアイラは、労働者として南部の農園で働いている。気になったショットは、そこで出てくる。アイラが畑で働いていると、通りかかった1台の車が止まり、子供を連れた父親が出てきて、「硫黄島の英雄」と記念写真を撮らせてくれと頼む。

アイラはポケットから小さな星条旗を取り出し、笑顔で一家と記念写真に収まるのだけど、畑仕事に戻ったアイラは、星条旗をポケットにしまわず、旗を持った手を下に下げる。そこで旗はフレーム・アウトして画面からはずれてしまうんだけど、僕にはアイラがそれを捨ててしまったように感じられた。

国旗は国のシンボルだから、いつの時代、どこの国でも、その扱いには注意を要する。まして現在のアメリカで星条旗を侮辱するような描写があれば、ただではすまない。ハリウッドの映画づくりを熟知しているイーストウッドがそれを知らないはずはない。

だから、僕が感じたようにアイラが旗を捨てたのか、画面から消えた手をもういちど上げて旗をポケットに戻したのかを明らかにしないこのフレームアウトは、イーストウッドの意図的なものではないか。そこにイーストウッドの何らかのメッセージがあるのではないかと感じた。

別の映画に描かれたもうひとつの星条旗を思い出した。スピルバーグの『プライベート・ライアン』。軍上層部の思惑のために命じられた作戦で殺された兵士を埋葬する場面。アップにされた星条旗が太陽の逆光をとおして黒白が反転したネガのようにはためく。僕はそのときも、白黒を反転させたショットにスピルバーグの批判的なメッセージを感じた(自分でもそれは誤読かもしれないと思っていたが、『宇宙戦争』『ミュンヘン』と見てきて、そう感じたのは正しかったと今では思っている)。

その瞬間、『父親たちの星条旗』の裏に流れているのは、戦争の悲惨といった抽象的・一般的な感情ではなく、今のアメリカ、ブッシュのアメリカに対する具体的な違和感なのではないか、その違和感を明らかにするためにイーストウッドは初めてリアルな戦闘場面をもつ映画をつくったのではないかと思ったのだ。

とすれば、つくられた英雄を迎えて熱狂し、星条旗が林立する「銃後」のアメリカは9・11後のアメリカに重なり、硫黄島は現在も1カ月に100人もの死者を出して泥沼化したイラクに重なっている。

もちろんイーストウッドの過去の作品を見れば分かるように、彼はリベラル派というよりブッシュとは別の意味での愛国者(原理を信じられなくなったアメリカ原理主義者?)だから、この映画に、戦争は悪だという反戦平和のメッセージが込められているわけではない。ただ、軍と政府と国民が一体となった熱狂のなかで「英雄」がつくられ、そのなかでひとりひとりの兵士の生が見失われていく、そんな国のありように異議を唱えていることが感じられる。

イーストウッドは西部劇や刑事ものをたくさんつくっているのに、先住民やアフリカ系が敵役として描かれたことはほとんどない。荒野のストレンジャーもペイルライダーも先住民を殺さなかったし、ダーティー・ハリーがアフリカ系やヒスパニックを追ったことも(僕の記憶では)ない。それは「ポリティカリー・コレクトネス」への配慮であるにしても、何十本もの作品で一貫してそうであることを考えれば、政治的配慮以前のイーストウッド自身の意思だと考えるのが自然だろう。

イーストウッドがこれも初めてエスニック(先住民)を主役級に据えた映画をつくり、彼の悲しい末路を見つめているのも、ナショナリスティックな国民的熱狂がまず何を排除するのかを描きたかったからではないか。

そんなことを考えてくると、この映画にスピルバーグが製作者として参加しているのもまた別の意味をもってくる。

戦闘シーンのSFXをスピルバーグのチームが担当した(『プライベート・ライアン』以上にリアル)というだけでなく、イーストウッドとスピルバーグがこの映画で伝えようとしたことに共鳴しあったとも考えられるではないか。

画面からフレームアウトした星条旗も、逆光の星条旗も、ほとんど見過ごされるようなさりげない描写だけれど、「テロとの戦い」のさなかのアメリカ、失敗は許されないハリウッドの大作で、どんなふうに作家としてのメッセージを映画に載せたらいいかを熟知しているのがこの2人なのだ。

映画の終わり近く、「彼らは国のために戦った。そして友のために死んだ」とナレーションが入る。その後に、なんとも美しいシーンがある。ほんのいっとき、銃声がやんで戦場が静かになる。主人公たちは戦闘服を脱いで海に入り、少年のように波とたわむれる。そのショットに、この映画のすべてが込められている。

「衛生兵!」と、傷ついた兵士が主人公ジョン(ライアン・フィリップ)に助けを求める声。ジョンが戦場で見えなくなった戦友を探して「イギー!」と名前を呼ぶ声。2つの声をきっかけに3つの時と場所を自在に行き来するポール・ハギス(『クラッシュ』『ミリオンダラー・ベイビー』)らの脚本が素晴らしい。資料にもとづき(エンドロールで当時の記録映像が流れる)、くすんだカラーで戦場の臨場感を伝えるトム・スターン(『ミスティック・リバー』)のカメラが素晴らしい。静かな悲しみにみちたイーストウッド作曲の音楽が、これは言うまでもない演出とともに、素晴らしい。

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