『西瓜』の過激
ツァイ・ミンリャン監督の2作、『楽日』と『西瓜』が同時に公開されている。それぞれの作品から受ける感触はまったく異なるけど、どちらもまぎれもなくツァイ監督の作風を別方向に極端に推し進めた映画になっていた。
『楽日』については前に書いたが、都会に降り積もる時間が凝縮された求心的な作品になっていたのに対して、『西瓜』は都会の表層を流れゆくものをキッチュな肌触りでパッチワークした奇妙な味わいの映画になっている。
真夏。渇水の台北で、誰とも心を通わせることなく生きている男(リー・カンション)と女(チェン・シャンチー)が再会する。女が男に「まだ腕時計を売っているの?」と聞く、彼女がこの映画で発するただひとつのセリフは、前作『ふたつの時、ふたりの時間』(未見)の設定を踏まえているらしい(もっとも、リー・カンションはいつもシャオカンという役名で登場するから、ツァイ監督の映画はすべて、1本の映画のパート1、パート2…なのかも)。
この2人の部分は、中身も手法も、ツァイ・ミンリャンが描きつづけてきた都会の孤独な愛という従来の作品の延長上にある。『西瓜』がこの部分だけだったら、題材は違うにしても『楽日』と似たようなタッチの作品に仕上がったんだろう。
そんな「ツァイ・ミンリャンの世界」を自ら壊すように、異質な2つのパートが差し込まれる。ひとつはミュージカル。ビルの貯水槽に飛び込んで体を洗っていたリー・カンションが、いきなり背に角が生え、うろこ(ラメ)に覆われたコスチュームになって、愛の歌を歌いはじめる。
その唐突さは、歌と芝居を自然につなごうとする普通のミュージカル映画とはまったく別もので、社会派の真面目なインド映画(『踊る○○』じゃなく)で登場人物がいきなり歌いはじめるときの唐突さに似ている。ツァイ監督は『Hole』でもミュージカル・シーンを挿入していて、その意味では初めてではないんだけど、『西瓜』ではその怪しさが際だっている。
廃墟になったビルでの暗黒舞踏ふうな踊りとか、トイレ(『楽日』でも!)のなかでピンクのビキニに身を固めラバーカップ(吸引器)を剣に見立てた女たちに、男根の帽子をかぶったリー・カンションが責め立てられるナンバーなんか、そのキッチュさと歌詞の「前向きに生きよう」的なミスマッチには笑いだすしかない。
もうひとつの異質な要素は、『河』などの男同士の息詰まるようなセックスシーンとは違ったパロディふうなセックス描写。男はAV男優という設定で、AVの撮影シーンが繰り返し挿入される。それがいかにもツァイ監督らしいのは西瓜の扱い。
冒頭、だだっ広い地下道を、看護婦(夜桜すもも)が西瓜を抱えて歩いていく。画面が変わると、看護婦(のコスチュームをつけたAV女優)がベッドで脚を広げ、2つに割った西瓜を脚のあいだに挟んでいる。リー・カンションが西瓜の赤い身に指を突っ込み、いじりまわす。そうすると看護婦がよがり声を上げるんだから、思わず笑ってしまう。
これ、もちろんアダルト・ビデオのパロディなんだけど、次のセックス・シーンで画面が引くと、それを撮影しているカメラマンと演出家のチームがいる。
セックス・シーンではなく、セックス・シーンの撮影シーンからは、エロチシズムのかけらも感じられない。むしろ感じられるのは即物的な滑稽さで、ここでもまた観客は笑いだすしかない。
西瓜(原題は「天辺一朶雲」)が、別のシーンでも重要な小道具になっている。チェン・シャンチーは冷蔵庫のなかの西瓜に顔を近づけ、愛しそうに舐め、口づけをする。西瓜ジュースを大量につくって、飲む。西瓜をブラウスの下に入れてまるで妊婦のように歩き、階段に座りこんで赤ん坊を産むように西瓜を下に落とす。
この映画ではペットボトルで水を飲んだり、ペットボトルから水がしたたるシーンがやたら出てきて、それは渇水の夏に人も街も水を補給してることになるんだけど、西瓜の緑と黒の皮と赤い身はもう少し精神的な役割を負わされていて、孤独な体と心を潤すものの比喩になっている。もっともこれ、象徴なんて大げさなものでなく、AV撮影シーンをどう撮るか考えたことから始まった(台湾は日本より規制が厳しいはず)監督の遊び心なんじゃないかな。
これは去年、台湾で興行成績第1位の映画だそうだ。ツァイ・ミンリャンの映画が台湾で興行的に成功したためしはないから、もっぱらセックス描写の過激さが話題になったんだろうけど、映画館は笑いにつつまれたんだろうか、それとも観客は固唾をのんでスクリーンを見つめていたんだろうか。
いずれにしても、大量に出回る日本製アダルト・ビデオが、台北の表層を彩るアイテムのひとつとしてツァイ監督の想像力を刺激したことは確かだろう。
都会に暮らす男と女の、愛への渇望と性の妄想。そんなふうにまとめてみても、この映画について何を語ったことにもならないけど、男と女、アダルト・ビデオ、ミュージカルというまったくタッチの異なる3つの要素がざっくりと張り合わされたこの映画が、最後の最後でひとつになる。
チェン・シャンチー(愛)と夜桜すもも(性)が合体して、チェン・シャンチーの横顔から涙が一筋流れる。またしてもAVのパロディ的カットで映画は終わるのだけど、切なさと滑稽さの入り交じったその奇妙な感触は最初から最後まで一貫していた。
ツァイ監督の遊び心を楽しめるか、その過激さ(セックス・シーンの、ではなく、長回し・セリフの少なさといった手法の)が『楽日』のようには成功していないことに退屈するか。僕自身は、ちょっと退屈しながら、でも楽しめた。
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