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October 27, 2006

『百年恋歌』 「思い」が深まる瞬間

061028

ひたすらに美しい。そんな映画を久しぶりに見た。

最初のショット。青白い光のなかに、吊された山型の電気傘。傘のなかの電球は細長く透明で、内部のフィラメントが見える懐かしいやつだ。カメラがゆっくり引くと、そこは古びた木造のビリヤード場の室内で、光は開け放たれた戸から差し込む外光。1966年、台湾の高雄。引いたカメラが、暗い室内で男女がビリヤードに興じている姿を捉えるまでのワンショットの美しさに、一撃で映画の世界に引きずりこまれる。

3部構成のこの映画の第2部冒頭でも、同じ構図のショットが繰り返される。逆光のなかに捉えられる時代がかったランプ。ここでもカメラがゆったり引いてゆくと、ランプがあるのは重厚な木造家屋の玄関間。夕暮れの光に室内の闇は濃く、老人がランプをポッと灯す。1911年、台北の高級娼館。

第3部は一転して2005年の台北。第2部が終わり、溶暗した画面が明るくなると、市街のビル群を望む橋の上を疾走するバイクの男女。1、2部とは対照的に車からの移動撮影される画面が動きとスピード感を伝えてくる。

『百年恋歌』(原題:最好的時光)は、3つの時代の3つの恋をオムニバス形式で描いた作品。チャン・チェンとスー・チーの2人の役者が異なった時代の3組のカップルを演じている。

逆光の室内空間。ランプや電灯、あるいは蛍光灯の青い光に照らされる陰影濃い登場人物。言葉少なに交わされる会話。かすかな風の音。鳥の鳴き声。街頭のざわめき。背後に流れる、それぞれの時代の音楽。そんなデリケートで寡黙な空気が、画面の隅々にまであふれている。

ホウ・シャオシェンは、彼のすべての映画のなかで、人が他者やものと出会ったときに内部に生まれる感情、その思いの深さだけを見つめてきたように思う。『悲情城市』や『好男好女』といった政治的事件を素材にした作品でも、そのなかで翻弄される主人公の「思い」に寄り添う態度は一貫していた。

その姿勢は、カメラを長回しして人やものや風景をじっと見つめる彼のスタイルと密接に結びついている。

生まれてから1世紀以上の歴史をもつ映画は、喜怒哀楽の感情を表現する手法をさまざまに開発してきた。映像。カットとカットのつなぎ。音楽。そうした要素をどう組み合わせれば、観客のどんな感情を揺さぶり喚起できるのかのセオリーが蓄積されてきた。

戦後ではハリウッドを中心に開発されたそうしたセオリーは、例えばこうすれば観客はたやすく泣くし、こうすれば恐怖するといった具合に、つくる側と観客のあいだの暗黙の約束事になっている。けれどそうした「お約束」は、紋切り型に堕する危険とも隣り合わせることになる。

ホウ・シャオシェンはそういう「お約束」から遠いところで、カメラを据えたまま、ひたすら人やものや風景を見つめる。見つめつづけることによって、人と人とのあいだに、あるいは人とものや風景とのあいだに、ある「思い」が生まれるデリケートな瞬間を捉えようとする。

例えば第1部。軍隊に行った青年(チャン・チェン)が、徴兵前にビリヤード場で知り合った店員の秀美(スー・チー)を追う。束の間の休暇を使って、ビリヤード場からビリヤード場へ、いくつもの町を流れていく秀美を探し、ついに田舎町で彼女に出会う場面。

2つのビリヤード台が置かれた、奥行きのある室内の全景が映る位置にカメラが据えられている。部屋に入ってきた青年に気づいた秀美は、少しだけ身をよじって微笑む。2人とも言葉はない。恥ずかしさと嬉しさを押し隠すように、秀美の口から出てくるのは、「お茶飲む?」「タバコは?」と、店員としての言葉だけ。

画面手前では、球を撞く青年がフォーカスをはずれて大きく写り込み、ときには2人の姿を隠してしまう。奥の空間では、数人の男女が談笑している。こういう場面の「お約束」である2人をアップにすることもなく、ビリヤード場の空気をまるごととらえた据えっぱなしの長いミディアム・ショットのなかで、2人のあいだに恋といっていい感情が芽生えるデリケートな一瞬を、ホウ・シャオシェンは鮮やかに掬いあげている。流れるのはオールディーズの「雨と涙」。

第2部でも印象的なシーンがある。詩人で革命家の男(チャン・チェン)が、馴染みの芸妓(スー・チー)と娼館の一室で顔を合わせている。第2部では会話はすべて字幕で示され、音は芸妓のスー・チーが歌い弾く古歌と、静かなピアノ曲のみ。重厚なつくりの部屋とランプの灯、豪華な調度品や陶磁器、深紅や紫のシルクの衣装と玉の髪飾り。そんな、時代を感じさせる雰囲気のなかで会話が交わされる。

「あなたにお聞きしたいことがあるの」「私の将来のことは考えたことがあって?」。会話シーンの「お約束」である切り返しショット(しゃべっている人物を交互にアップする)は一切使わず、2人の半身を捉えた引きのカメラが、会話に従ってゆるやかに右に左に首をふる。

口にされる言葉は後に字幕で示されるので、観客は2人がしゃべっているあいだ、何を話されているのか分からない。ただ、何かをしゃべることで芸妓と革命家のあいだに感情が波立ち騒いでいることだけが画面から感じられる。言葉(意味)が遅れてやってくる、字幕の効果。

言葉少ない会話ともいえない会話によって、2人の感情が泡立ち愛情が揺らぎはじめる瞬間を、ここでもミディアムに据えられた長回しの画面が左右にゆったりと首を振りながら見つめている(この後、革命家は辛亥革命に身を投じることが字幕で語られ、芸妓は捨てられる未来が暗示される)。

テオ・アンゲロプロス以来、何人もの監督が長回しのカメラを好んできた。それはセオリー化されたカットとカットのつなぎが紋切り型に堕するなかで失われたリアリティーを取り戻すための、それぞれの監督の冒険なのだろう。そんななかで、ホウ・シャオシェンほどに人と人とのあいだに小さな感情が生まれ、深まってゆく瞬間を繊細に掬いとってみせる監督はいない、と僕は思う。

撮影はリー・ピンビン。『童年往事』(1985)以来、ホウ・シャオシェンのほとんどの映画で撮影を担当している名カメラマン。彼なくして、ホウ・シャオシェンの長回しはありえなかったろう。

この作品でも、第1部、主人公が乗って走る自転車や、たびたび登場する渡し船の、台湾が近代化する以前の時の流れを視覚化したゆったりした「動き」のショット。第2部での、外の世界では革命の嵐が近づいているのにそこだけ時間が止まったような閉ざされた空間の、ほとんど「動き」を感じさせないショット。

一転して第3部の、疾走するバイクや車が行き交う街頭の激しい「動き」のショット。3つの時代それぞれの時の流れを見事に映像化している。シーンが転換するとき、今では使われることの少ない溶暗・溶明を多用しているのもこの映画の時間感覚にぴったり。

21世紀に入ってからのホウ・シャオシェンは『ミレニアム・マンボ』『珈琲時光』と、自分のスタイルを純化させることにこだわりすぎたせいか、作品としての完成度は必ずしも高くなかった。彼があまり得意ではない、現代を素材にした作品だったこともあるかもしれない(『憂鬱な楽園』は現代ものの傑作だと思うけど、その話は別の場所でするとして)。

『百年恋歌』では2つのパートで過去を素材にし、第1部ではホウ・シャオシェン自身の青春物語である気配もただよわせながら、特にその2つのパートで、親密で、寡黙で、懐かしい恋の物語をつむぎだした。そのあまりの美しさに、ただ酔うのみ。


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Comments

こんばんは!
TBとコメント有難うございました。
ホウ監督作品の魅力を上手く表現する文章力が私には無くて、とてももどかしく思っていたのですが、こちらで代わりに全部言って頂いているような気がして、とても嬉しく又感心して読ませて頂きました。
そうですね ハリウッド的な映画のセオリーに惑わされる事なく、じっくりと人間の心の動きを見据えるようなキャメラワークにはひたすら感動してしまいます。

Posted by: マダムS | October 29, 2006 07:45 PM

私のようなジジイになると、ホウ・シャオシェンやアンゲロプロス、キアロスタミ、ゴダールなんかを見に行くときは、前日から体調を整えておかないと、映画の出来とは関係なく気持ちよく寝てしまったりするんですね(苦笑)。

ホウ監督はこのところ現代ものが多かったですから、彼のノスタルジックな世界を久方ぶりに堪能しました。私が監督と同い年ということもあるでしょうが、同世代としての共感がふつふつと湧いてきます。

Posted by: | October 30, 2006 10:28 AM

こんにちは。
雄さんはホウ監督と同い年なのですか。
監督と同じように時代をとらえるとより感慨深いものがあるのでしょうね。
そうでなくても普遍的な感情・思いに共感せずにいられませんでした。

>ホウ・シャオシェンほどに人と人とのあいだに小さな感情が生まれ、深まってゆく瞬間を繊細に掬いとってみせる監督はいない

同感です。
言葉はなく、型にはまったわかりやすい描写ではないけれど、とても繊細なんですよね。
本当に、ただ酔いしれるばかりでした。

Posted by: かえる | October 30, 2006 12:35 PM

「煙が目にしみる」が流れ出すと、もうそれだけで「あの時代」に帰ってしまいます。日本と台湾の違いはあっても、『百年恋歌』だけでなく『恋恋風塵』も、『風櫃の少年』や『童年往事』も、まるで自分の出来事のように感じます。それが「普遍的」ということなんでしょう。

Posted by: | October 30, 2006 01:46 PM

こんにちは。
TBありがとうございました。
『ひたすら人やものや風景を見つめる。見つめつづけることによって、人と人とのあいだに、あるいは人とものや風景とのあいだに、ある「思い」が生まれるデリケートな瞬間を捉えようとする』
「見つめつづける」ことで、あの映像は生まれていたんですね。私も美しさに酔いしれました。

Posted by: まてぃ | October 30, 2006 10:52 PM

まてぃさんもホウ・シャオシェンの作品をずいぶん前から見ていらっしゃるようですね。「草が青々」を思い出されるとは、まてぃさんのエントリを読むまで気がつきませんでした。

Posted by: | October 31, 2006 12:52 AM

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