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October 27, 2006

『百年恋歌』 「思い」が深まる瞬間

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ひたすらに美しい。そんな映画を久しぶりに見た。

最初のショット。青白い光のなかに、吊された山型の電気傘。傘のなかの電球は細長く透明で、内部のフィラメントが見える懐かしいやつだ。カメラがゆっくり引くと、そこは古びた木造のビリヤード場の室内で、光は開け放たれた戸から差し込む外光。1966年、台湾の高雄。引いたカメラが、暗い室内で男女がビリヤードに興じている姿を捉えるまでのワンショットの美しさに、一撃で映画の世界に引きずりこまれる。

3部構成のこの映画の第2部冒頭でも、同じ構図のショットが繰り返される。逆光のなかに捉えられる時代がかったランプ。ここでもカメラがゆったり引いてゆくと、ランプがあるのは重厚な木造家屋の玄関間。夕暮れの光に室内の闇は濃く、老人がランプをポッと灯す。1911年、台北の高級娼館。

第3部は一転して2005年の台北。第2部が終わり、溶暗した画面が明るくなると、市街のビル群を望む橋の上を疾走するバイクの男女。1、2部とは対照的に車からの移動撮影される画面が動きとスピード感を伝えてくる。

『百年恋歌』(原題:最好的時光)は、3つの時代の3つの恋をオムニバス形式で描いた作品。チャン・チェンとスー・チーの2人の役者が異なった時代の3組のカップルを演じている。

逆光の室内空間。ランプや電灯、あるいは蛍光灯の青い光に照らされる陰影濃い登場人物。言葉少なに交わされる会話。かすかな風の音。鳥の鳴き声。街頭のざわめき。背後に流れる、それぞれの時代の音楽。そんなデリケートで寡黙な空気が、画面の隅々にまであふれている。

ホウ・シャオシェンは、彼のすべての映画のなかで、人が他者やものと出会ったときに内部に生まれる感情、その思いの深さだけを見つめてきたように思う。『悲情城市』や『好男好女』といった政治的事件を素材にした作品でも、そのなかで翻弄される主人公の「思い」に寄り添う態度は一貫していた。

その姿勢は、カメラを長回しして人やものや風景をじっと見つめる彼のスタイルと密接に結びついている。

生まれてから1世紀以上の歴史をもつ映画は、喜怒哀楽の感情を表現する手法をさまざまに開発してきた。映像。カットとカットのつなぎ。音楽。そうした要素をどう組み合わせれば、観客のどんな感情を揺さぶり喚起できるのかのセオリーが蓄積されてきた。

戦後ではハリウッドを中心に開発されたそうしたセオリーは、例えばこうすれば観客はたやすく泣くし、こうすれば恐怖するといった具合に、つくる側と観客のあいだの暗黙の約束事になっている。けれどそうした「お約束」は、紋切り型に堕する危険とも隣り合わせることになる。

ホウ・シャオシェンはそういう「お約束」から遠いところで、カメラを据えたまま、ひたすら人やものや風景を見つめる。見つめつづけることによって、人と人とのあいだに、あるいは人とものや風景とのあいだに、ある「思い」が生まれるデリケートな瞬間を捉えようとする。

例えば第1部。軍隊に行った青年(チャン・チェン)が、徴兵前にビリヤード場で知り合った店員の秀美(スー・チー)を追う。束の間の休暇を使って、ビリヤード場からビリヤード場へ、いくつもの町を流れていく秀美を探し、ついに田舎町で彼女に出会う場面。

2つのビリヤード台が置かれた、奥行きのある室内の全景が映る位置にカメラが据えられている。部屋に入ってきた青年に気づいた秀美は、少しだけ身をよじって微笑む。2人とも言葉はない。恥ずかしさと嬉しさを押し隠すように、秀美の口から出てくるのは、「お茶飲む?」「タバコは?」と、店員としての言葉だけ。

画面手前では、球を撞く青年がフォーカスをはずれて大きく写り込み、ときには2人の姿を隠してしまう。奥の空間では、数人の男女が談笑している。こういう場面の「お約束」である2人をアップにすることもなく、ビリヤード場の空気をまるごととらえた据えっぱなしの長いミディアム・ショットのなかで、2人のあいだに恋といっていい感情が芽生えるデリケートな一瞬を、ホウ・シャオシェンは鮮やかに掬いあげている。流れるのはオールディーズの「雨と涙」。

第2部でも印象的なシーンがある。詩人で革命家の男(チャン・チェン)が、馴染みの芸妓(スー・チー)と娼館の一室で顔を合わせている。第2部では会話はすべて字幕で示され、音は芸妓のスー・チーが歌い弾く古歌と、静かなピアノ曲のみ。重厚なつくりの部屋とランプの灯、豪華な調度品や陶磁器、深紅や紫のシルクの衣装と玉の髪飾り。そんな、時代を感じさせる雰囲気のなかで会話が交わされる。

「あなたにお聞きしたいことがあるの」「私の将来のことは考えたことがあって?」。会話シーンの「お約束」である切り返しショット(しゃべっている人物を交互にアップする)は一切使わず、2人の半身を捉えた引きのカメラが、会話に従ってゆるやかに右に左に首をふる。

口にされる言葉は後に字幕で示されるので、観客は2人がしゃべっているあいだ、何を話されているのか分からない。ただ、何かをしゃべることで芸妓と革命家のあいだに感情が波立ち騒いでいることだけが画面から感じられる。言葉(意味)が遅れてやってくる、字幕の効果。

言葉少ない会話ともいえない会話によって、2人の感情が泡立ち愛情が揺らぎはじめる瞬間を、ここでもミディアムに据えられた長回しの画面が左右にゆったりと首を振りながら見つめている(この後、革命家は辛亥革命に身を投じることが字幕で語られ、芸妓は捨てられる未来が暗示される)。

テオ・アンゲロプロス以来、何人もの監督が長回しのカメラを好んできた。それはセオリー化されたカットとカットのつなぎが紋切り型に堕するなかで失われたリアリティーを取り戻すための、それぞれの監督の冒険なのだろう。そんななかで、ホウ・シャオシェンほどに人と人とのあいだに小さな感情が生まれ、深まってゆく瞬間を繊細に掬いとってみせる監督はいない、と僕は思う。

撮影はリー・ピンビン。『童年往事』(1985)以来、ホウ・シャオシェンのほとんどの映画で撮影を担当している名カメラマン。彼なくして、ホウ・シャオシェンの長回しはありえなかったろう。

この作品でも、第1部、主人公が乗って走る自転車や、たびたび登場する渡し船の、台湾が近代化する以前の時の流れを視覚化したゆったりした「動き」のショット。第2部での、外の世界では革命の嵐が近づいているのにそこだけ時間が止まったような閉ざされた空間の、ほとんど「動き」を感じさせないショット。

一転して第3部の、疾走するバイクや車が行き交う街頭の激しい「動き」のショット。3つの時代それぞれの時の流れを見事に映像化している。シーンが転換するとき、今では使われることの少ない溶暗・溶明を多用しているのもこの映画の時間感覚にぴったり。

21世紀に入ってからのホウ・シャオシェンは『ミレニアム・マンボ』『珈琲時光』と、自分のスタイルを純化させることにこだわりすぎたせいか、作品としての完成度は必ずしも高くなかった。彼があまり得意ではない、現代を素材にした作品だったこともあるかもしれない(『憂鬱な楽園』は現代ものの傑作だと思うけど、その話は別の場所でするとして)。

『百年恋歌』では2つのパートで過去を素材にし、第1部ではホウ・シャオシェン自身の青春物語である気配もただよわせながら、特にその2つのパートで、親密で、寡黙で、懐かしい恋の物語をつむぎだした。そのあまりの美しさに、ただ酔うのみ。


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October 18, 2006

『ブラック・ダリア』のドッペルゲンガー

ジェームズ・エルロイのノワール小説を、ほかでもないノワール的官能をたっぷり持ち合わせるブライアン・デ・パルマが映画化したとなれば、期待するなというほうが無理というもの。エロティックなスカーレット・ヨハンソンに、ファム・ファタールの雰囲気をもつヒラリー・スワンクと、今いちばん旬な女優たちも魅力的だしね。

『ブラック・ダリア』を読んだのは10年以上も前のことで、ストーリーも登場人物もディテールはあらかた忘れてしまった。ただその暗く重い読後感だけが記憶にこびりついている。

だから映画のどこまでが原作に忠実で、どこからがデ・パルマ作品のオリジナルなのか判然としないまま言うのだけど、いかにもデ・パルマ監督らしいのは、殺された「ブラック・ダリア」に自分を重ねていく富豪の娘、マデリン(ヒラリー・スワンク)の存在だろう。

デ・パルマは猟奇的な殺人の犠牲になった「ブラック・ダリア」=エリザベスと、主人公の警官を誘惑する生きた「ブラック・ダリア」=マデリンという2人の「ブラック・ダリア」をスクリーンに登場させた。2人の「ブラック・ダリア」によって2人の警官が翻弄され、破滅して(あるいは生き延びて)いくドラマが物語の骨格。

元ボクサーでロス市警の警官バッキー(ジョシュ・ハートネット)は、警察のPRのために試合したことがきっかけで、やはり元ボクサーのリー(アーロン・エッカート)とコンビを組むことになる。リーには、検挙した銀行強盗犯から奪った愛人ケイ(スカーレット・ヨハンソン)がいる。バッキーは実は強盗犯から愛人ばかりか金もせしめた悪徳警官なのだが、リーとケイに若いバッキーを加えた3人は、友情とも愛情ともつかない微妙な三角関係を結ぶようになる。

「ブラック・ダリア」事件が起きると(これについては8月27日に書いた)、バッキーは取りつかれたように事件にのめり込んでいく。異常なまでの執着に担当をはずされるが、なお隠れて部屋を借り「ブラック・ダリア」の資料で一室を埋めつくす。バッキーには、彼の妹が同じように殺された過去があり、どうやらそのトラウマから、「ブラック・ダリア」に妹の面影を見てしまったらしい。愛人のケイの住まいにも寄りつかなくなり、死んだ「ブラック・ダリア」に執着しつづける。

一方、相棒のリーは調査に訪れたレズビアン・バーで、黒い衣装に身を包んだ「ブラック・ダリア」そっくりのマデリンに出会う。マデリンは、チープな住宅開発で財をなした富豪の娘。両親に反発して夜の街をさまよい、「ブラック・ダリア」とも寝たことがある。マデリンは、女優志望でポルノ映画に出ている「ブラック・ダリア」の奔放な生き方に自己同一化の願望を持っているらしい。

リーはバッキーと疎遠になったケイから誘惑され、相棒の愛人を奪ってしまう。同時に、生きている「ブラック・ダリア」=マデリンからも誘惑され、彼女とも関係をもつ。リーは奇妙な言動をするヤク中の母親を持つマデリンの裕福で空疎な大邸宅に入り込むことで、事件の真相に近づいてゆく。

2人の警官が、ひとりは死んだ「ブラック・ダリア」に取りつかれ、もうひとりは生きた「ブラック・ダリア」に誘惑される。バッキーは死んだ「ブラック・ダリア」によって破滅に向かって突き進む。リーは生きた「ブラック・ダリア」=マデリンと相棒の愛人・ケイのどちらを取るか、警官としてどう生き延びていくのかの選択を迫られる。

マデリンがエリザベス=「ブラック・ダリア」のドッペルゲンガーであるように、悪徳警官バッキーもリーのドッペルゲンガーなのだ。だからこれは2組のドッペルゲンガーの物語だと考えることもできる。バッキー=ドッペルゲンガーの破滅を知ったリーは、警官としてどのような行動を取り、ケイとマデリンのどちらを選ぶのかがラストシーンになる。

いかにもデ・パルマ好みの展開なんだけど、そんな「らしさ」が画面いっぱいに結晶するのが、バッキーが殺されるシーンだね。螺旋階段(デ・パルマの階段への偏愛!)。殺人者の影にひそむもうひとりの殺人者(実は男装したマデリン。変装もデ・パルマが偏愛する設定)。動く影とナイフの一閃。落下する殺人者とバッキー。死んだ2人を真上から見下ろす俯瞰の画面。ヒッチコック好きデ・パルマの鮮やかなショットとつなぎに陶然とする。

もっとも、デ・パルマらしさが最初から最後まで貫かれているかというと、そうでもない。ビッグになってからの彼は『スカーフェイス』『アンタッチャブル』『ミッション・インポッシブル』といった大作も任されるが、そういうときデ・パルマらしい「けれん」は意図的にか抑え気味になり、作品としていまひとつ成功しないことが多かった。

『ブラック・ダリア』も、エクスタシーまであとひと息というところで終わってしまった感じだね。特に前半は小説の複雑なプロットと人間関係を絵解きするのに精いっぱいだし、ラストシーンもハリウッド的きれいごとで肩すかし。

そこここにエルロイらしいダークな雰囲気と、デ・パルマらしいショットがあるんだけど、同じエルロイ原作の傑作『LAコンフィデンシャル』が湛えていた圧倒的な闇の深さと登場する男たち女たちの艶っぽさには及ばなかった。

デ・パルマはもともと『殺しのドレス』『ボディ・ダブル』といったディテール命の小味な官能的サスペンスを得意とする監督。『ブラック・ダリア』は素材としてはそちらの系列なのに、デ・パルマらしい「けれん」を全開できない大作としてつくらざるをえなかったことが惜しい。デ・パルマ自身の製作で思うままに映画化したら、もっと官能的な『ブラック・ダリア』になっていたかもしれないな。


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October 13, 2006

バリー・ハリス at ふじみ野

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バリー・ハリスのコンサートを楽しんだ(12日、ふじみ野市勤労福祉センター)。バリー・ハリスは、バップと呼ばれるモダンジャズ・ピアノを創始したバド・パウエルのスタイルを伝える数少ない現役のピアニスト。尚美大学(ジャズ・コース)で教えるために来日し、地元のふじみ野で1回だけのコンサートを開いた。

足元もおぼつかない75歳、病に倒れ一時は指も思うように動かなかったと聞いたから心配したけれど、ピアノの前に座り鍵盤を弾きだすと、CDで聞いているいつものバリーの音があふれ出る。派手さはないけど、じっくり聞いていると人柄が滲み出てくるような年季の入ったピアノだね。バックは小杉敏(b)、木村由紀夫(ds)。

演奏したのは「チェロキー」「ラウンド・ミッドナイト」のバップの名曲。「ティー・フォー・ツー」などのスタンダード。「深い愛情」「ナシメント」といった自作の曲。

97年のアルバム「FIRST TIME EVER」は病後のせいかミディアム・テンポの曲(自作)が多かったけど、今回はアップ・テンポの曲もあって、50~60年代のバリーを思わせる速さでバップ・フレーズを弾ききる。すごいね。

「ラウンド・ミッドナイト」は、モンクふうな音も交えながら美しいバラード。この夜、いちばん印象に残った。

ミルトン・ナシメントに捧げた自作の「ナシメント」は軽快で、一度聞いたら忘れない独特のリズムとメロディーをもつ。作曲家としてのバリーも大したもの。「深い愛情」は日本でつくった曲で、静かな透明さを湛えている。

アンコールでは枯れたボーカルも披露した。会場の学生にも声を出させ、授業風景をかいま見せる。バリーはNYでもワークショップをやってすごい人気らしいけど、やっぱり教師である前に現役バリバリのミュージシャンであることに納得した2時間。心うきうきして会場を出た。


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October 08, 2006

『西瓜』の過激

ツァイ・ミンリャン監督の2作、『楽日』と『西瓜』が同時に公開されている。それぞれの作品から受ける感触はまったく異なるけど、どちらもまぎれもなくツァイ監督の作風を別方向に極端に推し進めた映画になっていた。

『楽日』については前に書いたが、都会に降り積もる時間が凝縮された求心的な作品になっていたのに対して、『西瓜』は都会の表層を流れゆくものをキッチュな肌触りでパッチワークした奇妙な味わいの映画になっている。

真夏。渇水の台北で、誰とも心を通わせることなく生きている男(リー・カンション)と女(チェン・シャンチー)が再会する。女が男に「まだ腕時計を売っているの?」と聞く、彼女がこの映画で発するただひとつのセリフは、前作『ふたつの時、ふたりの時間』(未見)の設定を踏まえているらしい(もっとも、リー・カンションはいつもシャオカンという役名で登場するから、ツァイ監督の映画はすべて、1本の映画のパート1、パート2…なのかも)。

この2人の部分は、中身も手法も、ツァイ・ミンリャンが描きつづけてきた都会の孤独な愛という従来の作品の延長上にある。『西瓜』がこの部分だけだったら、題材は違うにしても『楽日』と似たようなタッチの作品に仕上がったんだろう。

そんな「ツァイ・ミンリャンの世界」を自ら壊すように、異質な2つのパートが差し込まれる。ひとつはミュージカル。ビルの貯水槽に飛び込んで体を洗っていたリー・カンションが、いきなり背に角が生え、うろこ(ラメ)に覆われたコスチュームになって、愛の歌を歌いはじめる。

その唐突さは、歌と芝居を自然につなごうとする普通のミュージカル映画とはまったく別もので、社会派の真面目なインド映画(『踊る○○』じゃなく)で登場人物がいきなり歌いはじめるときの唐突さに似ている。ツァイ監督は『Hole』でもミュージカル・シーンを挿入していて、その意味では初めてではないんだけど、『西瓜』ではその怪しさが際だっている。

廃墟になったビルでの暗黒舞踏ふうな踊りとか、トイレ(『楽日』でも!)のなかでピンクのビキニに身を固めラバーカップ(吸引器)を剣に見立てた女たちに、男根の帽子をかぶったリー・カンションが責め立てられるナンバーなんか、そのキッチュさと歌詞の「前向きに生きよう」的なミスマッチには笑いだすしかない。

もうひとつの異質な要素は、『河』などの男同士の息詰まるようなセックスシーンとは違ったパロディふうなセックス描写。男はAV男優という設定で、AVの撮影シーンが繰り返し挿入される。それがいかにもツァイ監督らしいのは西瓜の扱い。

冒頭、だだっ広い地下道を、看護婦(夜桜すもも)が西瓜を抱えて歩いていく。画面が変わると、看護婦(のコスチュームをつけたAV女優)がベッドで脚を広げ、2つに割った西瓜を脚のあいだに挟んでいる。リー・カンションが西瓜の赤い身に指を突っ込み、いじりまわす。そうすると看護婦がよがり声を上げるんだから、思わず笑ってしまう。

これ、もちろんアダルト・ビデオのパロディなんだけど、次のセックス・シーンで画面が引くと、それを撮影しているカメラマンと演出家のチームがいる。

セックス・シーンではなく、セックス・シーンの撮影シーンからは、エロチシズムのかけらも感じられない。むしろ感じられるのは即物的な滑稽さで、ここでもまた観客は笑いだすしかない。

西瓜(原題は「天辺一朶雲」)が、別のシーンでも重要な小道具になっている。チェン・シャンチーは冷蔵庫のなかの西瓜に顔を近づけ、愛しそうに舐め、口づけをする。西瓜ジュースを大量につくって、飲む。西瓜をブラウスの下に入れてまるで妊婦のように歩き、階段に座りこんで赤ん坊を産むように西瓜を下に落とす。

この映画ではペットボトルで水を飲んだり、ペットボトルから水がしたたるシーンがやたら出てきて、それは渇水の夏に人も街も水を補給してることになるんだけど、西瓜の緑と黒の皮と赤い身はもう少し精神的な役割を負わされていて、孤独な体と心を潤すものの比喩になっている。もっともこれ、象徴なんて大げさなものでなく、AV撮影シーンをどう撮るか考えたことから始まった(台湾は日本より規制が厳しいはず)監督の遊び心なんじゃないかな。

これは去年、台湾で興行成績第1位の映画だそうだ。ツァイ・ミンリャンの映画が台湾で興行的に成功したためしはないから、もっぱらセックス描写の過激さが話題になったんだろうけど、映画館は笑いにつつまれたんだろうか、それとも観客は固唾をのんでスクリーンを見つめていたんだろうか。

いずれにしても、大量に出回る日本製アダルト・ビデオが、台北の表層を彩るアイテムのひとつとしてツァイ監督の想像力を刺激したことは確かだろう。

都会に暮らす男と女の、愛への渇望と性の妄想。そんなふうにまとめてみても、この映画について何を語ったことにもならないけど、男と女、アダルト・ビデオ、ミュージカルというまったくタッチの異なる3つの要素がざっくりと張り合わされたこの映画が、最後の最後でひとつになる。

チェン・シャンチー(愛)と夜桜すもも(性)が合体して、チェン・シャンチーの横顔から涙が一筋流れる。またしてもAVのパロディ的カットで映画は終わるのだけど、切なさと滑稽さの入り交じったその奇妙な感触は最初から最後まで一貫していた。

ツァイ監督の遊び心を楽しめるか、その過激さ(セックス・シーンの、ではなく、長回し・セリフの少なさといった手法の)が『楽日』のようには成功していないことに退屈するか。僕自身は、ちょっと退屈しながら、でも楽しめた。

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October 03, 2006

『カポーティ』 ホフマンとデ・ニーロ

フィリップ・シーモア・ホフマン(製作)の、フィリップ・シーモア・ホフマン(主演)による、フィリップ・シーモア・ホフマン(アカデミー賞獲り)のための映画。

そんなことを言ってみたくなるほど、『カポーティ』はフィリップ・シーモア・ホフマンが役者としての自己イメージをどう描いているかをはっきりさせた映画だった。そのココロは、ロバート・デ・ニーロを継ぐのは俺だぜ!

ホフマンが自分のプロダクションをつくっての第1作。監督(ベネット・ミラー)と脚本(ダン・ファターマン)はいずれも新人で、高校時代の仲間。とくれば、安倍内閣じゃないけど仲良しクラブ。良くも悪くも互いを知り尽くしてる。

まず素材として『カポーティ』を選んだことが、いかにもホフマンらしい。『冷血』そのものじゃなく、『冷血』を取材・執筆するカポーティ。『冷血』は過去にも映画化されてるけど(未見)、流れ者によるカンザスの農場一家惨殺事件は描き方によってはノワールにも、血にまみれたスプラッタにも、社会派の映画にもなりうる。そんな、いかにもハリウッド的な路線を避けたのが、マイナーな映画に好んで出てきたホフマン好み。

『ティファニーで朝食を』で人気作家になったセレブのカポーティが、高価な服に身を包み、助手を連れて事件現場に乗り込む。作家としての名声や、時には袖の下を使いながら捜査官や関係者に話を聞き、逮捕された獄中の犯人に接触する。

『冷血』を読めばわかるけど(新訳の感想を去年、ブログで書いた)、カポーティは犯人のひとり、アメリカ先住民の血を引く混血青年に興味をもち、シンパシーを抱くようになる。ひとりでアメリカ大陸を放浪し、音楽好きでスケッチのうまい混血青年もカポーティを「わが友」と呼ぶ。

死刑判決の下った混血青年にカポーティは弁護士を紹介し、弁護士の力で処刑がたびたび延期される。一部を発表して評判になり、自らも傑作だと確信する『冷血』は、しかし混血青年が絞首刑に処されなければ完結しない。彼へのシンパシーと、作家としての野心、エゴイズムとの間でカポーティは引き裂かれる。

NYではセレブとしてパーティに明け暮れ、カンザスでは混血青年の告白に自分の内面を重ねる作家の葛藤を、フィリップ・シーモア・ホフマンは外側も内側も、確かにカポーティはこういう男だったに違いないと思わせる精緻さで演じてる。

「恐るべき子供」と呼ばれた、小柄でベビーフェイスの同性愛者。裏返って甲高い声。心持ち顎を上げ人を見下す目つき。尊大な身振りを見せたかと思うと、赤ん坊のように不安な表情を浮かべる不安定な情緒。カポーティの取材を手伝い、彼が苦悩している間に作家としても成功した幼なじみのハーパー(キャサリン・キーナー)への友情と嫉妬。

まるで『タクシードライバー』『レイジング・ブル』時代のロバート・デ・ニーロを見ているような(タイプは正反対だが)、演技のお手本みたいな映画。『ブギーナイツ』『マグノリア』以来の、女性的な複雑さを合わせ持つタイプの役柄の集大成みたいで、これじゃアカデミーはじめ賞を総なめしても誰も文句言えないよね。

監督デビューのベネット・ミラーも、友人にしてボスであるホフマンを引き立てるべく、抑えた演出で応える。派手な場面をつくらず(殺人シーンは映画の終わり近くなって初めて出てくる)、静かな緊張を持続させる腕は処女作とは思えない。

なかでも、シネマスコープの横長画面をうまく使った風景ショットが心に残る。カンザスの一面の麦畑。落葉した大木の枝を見上げたカメラが視線を下げると、惨劇の現場である白い建物がぽつんと建つ草原のショット。広大な畑を横切る列車。張りめぐらされた金網の向こうに聳える刑務所。そうした風景がそのままカポーティの、そして混血青年の孤独に重なっている。

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