『マッチポイント』のイギリス度
『マッチポイント』でいちばん興味があったのは、デビュー以来ずっとニューヨークを舞台に映画をつくってきたウッディ・アレンが初めて舞台をロンドンに移したことで、作品にどんな変化が現れたのか、あるいは現れなかったのかということ。
ニューヨークからロンドンへ、まずは当然のことながらロケーションした風景が違う。冒頭、セレブなテニス・クラブの重厚な赤レンガのクラブ・ハウスに向かってクリス(ジョナサン・リース・メイヤーズ)が歩いていく移動ショットから、まぎれもなくロンドンの重くたれこめた空気が感じられる。
ウッディの映画にはたいてい「定番」ともいえるショットが出てくる。ジャズクラブのライブ演奏とか精神分析医の診察室なんかがすぐに思い浮かぶけど、橋の見えるショットもそのひとつ。『アニーホール』や『マンハッタン』はじめ、橋(特にマンハッタンとブルックリンを結ぶブルックリン橋)が画面を大きく横切り、水辺に登場人物が見えるいくつものロング・ショットが記憶に残っている。
この作品でもテムズ河にかかるランベス橋(? 国会議事堂が見えている)の同じようなショットが出てきたのには、やっぱりね。この橋のたもとは、「マッチポイント」というタイトルが暗示する重要なシーンでも登場する。クリス夫妻が住む高級コンドミニアムからはウェストミンスター橋も見える。
さらにウッディ映画の多くにはNYのおしゃれスポットがさりげなく取り込まれているけど、この映画も同様。建築もユニークな美術館テート・モダン、現代アートのサーチ・ギャラリー、ボンド・ストリートのブランド・ショップなどが舞台になって、何度も映るビック・ベンとともにしっかり「観光映画」してる。
この町には、どうもウッディの好きなスイング・ジャズやスタンダードは似合わない。20世紀初頭のオペラ歌手エンリコ・カルーソーの歌が、ザーザーというSP盤のノイズとともに全編に流れている。ヴェルディを歌うその沈鬱な歌声が、この映画の基調音を決めているように思えた。
ストーリーは自作の『ウッディ・アレンの重罪と軽罪』に『陽のあたる場所』や『太陽がいっぱい』をミックスしたような、セレブと成り上がり者が織りなす不倫と犯罪の物語。裕福な一家の娘と結婚したクリスが、義兄の婚約者ノラ(スカーレット・ヨハンソン)と関係をもつ。クリスは手に入れた地位と財産を取るのか、魅力的な美女を取るのか……シリアスなラブ・ストーリーにも、サスペンスフルなミステリーにも、ブラックなコメディにもなりそうな素材だ。
そこでウッディが採用したのは、映画の最初と最後に、偶然と運が人生を大きく左右するという皮肉を噛みしめることになるシーンを置いてウッディらしい目線を設定し、そのあいだをコメディーでもミステリーでもなく、重厚でオーソドックスな描写でつないでいくスタイル。クリスの妻が子供が欲しくて不妊治療に懸命になるシーンとか、妻を取るのか自分を取るのかノラがクリスに迫るシーンなんか、ウッディらしいコメディの絶好の素材なのにそうはならない。
僕はそこに、ニューヨークではなくロンドンを舞台にしたことの影を感じてしまった。これがニューヨークの物語だったら、もっと軽快でブラック・コメディふうな映画に、あるいは『重罪と軽罪』みたいに精神分析好きのひねくれた映画になったんじゃないだろうか。
とくに何度も出てくる週末を過ごす郊外の別荘の場面。シャトーの豪華な建物と、周囲に広がる緑の野や森のしっとりした描写。女主人に叱責されたノラが激しい雨の野原にさまよい出、それを追ったクリスとはじめて関係をもつシーンの濃密な描写は、赤狩りでハリウッドを追われたジョセフ・ロージーが、イギリス上流階級の女性を主人公にした『恋』で見せた同じような場面の同じような空気感を思い出した。
ウッディがこれをコメディにする気がなかったのは、ジョナサン・リース・メイヤーズとスカーレット・ヨハンソンを主役に配したことからもわかる。アイルランドの貧困家庭の出で、トップ・プロに一歩及ばずレッスン・プロになったことから上流階級に入りこむクリスを、メイヤーズは『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンを思わせる目つきと表情で演じている。
一方のヨハンソンはいかにもウッディ好みのクールな美女。ヨハンソンが初めて顔を見せる別荘の遊戯室での美しさったらない。胸の大きくあいた白いドレスにアップした金髪。男を惑わす唇でメイヤーズを挑発する。メイヤーズも挑発に応え、体をヨハンソンにすりよせてラケットの握り方を教える。白いカーテン越しに柔らかな外光が差し込み、逆光になったヨハンソンの顔のクローズアップには息を飲む。
ウッディ、ヨハンソンに惚れたかな。ウッディはダイアン・キートンとかミア・ファーロウとか主演女優をモノにしてきた過去があるけど、まさかあの歳で……。万が一そんなことになったら、世界中を敵に回すことになる。
Comments
>ニューヨークではなくロンドンを舞台にしたことの影を感じてしまった。
確かに・・・・・・。
ちょっと重厚さを感じる本作、私には新鮮でした。
ウッディには、ロンドンも良く似合うと思います。
TBに感謝!
Posted by: マダムクニコ | September 02, 2006 12:32 AM
これからはずっとロンドンを舞台にするのでしょうか。NYものには正直ちょっと飽きもきていたので、私にとっても新鮮でした。これからの作品が楽しみです。
Posted by: 雄 | September 02, 2006 10:00 PM
ということは、ロンドンで撮る限り、コメディは無理なのでしょうか。次作もヨハンソン出演だというし(ヨハンソン主演のコメディなんてクリスティーナ・リッチ主演のコメディ以上に想像できない)。
どこかシニカルな笑いは残してほしいのですが(笑)
Posted by: kiku | September 19, 2006 12:47 PM
あのシニカルさはニューヨークのユダヤ・コミュニティーを必要としているのかもしれませんね。次もヨハンソン主演ですか。ウッディー自身も老いて作中で恋はしにくいですから、やがてあのシニカルな笑いを懐かしむことになるのかも。
Posted by: 雄 | September 19, 2006 10:05 PM