『弓』の生々しい欲望
キム・ギドク監督の映画はいつも一貫したテーマ系と似通った設定を持ちながら、初期作品の性と暴力に満ちた風俗的な次元から宗教の匂いのする象徴的次元へ、さらに『弓』では神話的な次元にまで変貌しているように見える。
『弓』というタイトルが、いくつもの意味を多層的に表している。まず、人を殺傷する武器としての弓。その弓が、この映画では同時に弓占いという神事に使われている。さらに弓と弦のあいだに共鳴する胴をはさみこむことによって、弓はヘグム(韓国二胡)となって音楽をも奏でる。その3種の「弓」が、この映画のいちばん底のところで重要な役割をになっている。
海の上に浮かんでいる船で、老人(チョン・ソンファン)と少女(ハン・ヨルム。『サマリア』の聖少女から一転してエロチック)が暮らしている。身寄りのない少女は10年間、船を下りたことがないらしい。数ヶ月後に迎える少女の17歳の誕生日に、老人と少女は結婚することになっている。
老人は船に釣り人を連れてきて暮らしを立てている。釣り人が少女にちょっかいを出そうとすると、老人は弓を射て釣り人を威嚇する。釣り人が老人に弓占いを頼むと、老人はブランコで遊ぶ少女ごしに舷側に描かれた観音像を射る。老人を信頼しきって彼の射る矢に身をさらす少女が、矢の位置からなにごとかを読みとって託宣を告げる(彼女は巫女的な能力を備えているらしい)。老人は、いつも弓のヘグムで音楽を奏でている。
冒頭からラストまで、老人がヘグムを弾くシーンだけでなく、ほとんどの場面で背後にヘグムの調べが流れている。そしてまた冒頭から最後まで、すべてのシーンが船上で撮影されているから、ときに激しく、ときに気づかぬくらい微妙に画面は常に揺れている。
だからこの映画は、まるごとヘグムの調べと海の揺れがつくりだす原始的なリズムにくるまれている。男と女、そこに割り込んでくるもうひとりの男という物語の原型のような構造が、そんな民俗的なリズムにくるみこまれることによって、また男と女が最後まで無言であることによって神話的な空気が生まれてくる。
少女は釣り客の若い男と、ほのかに惹かれあう。そのことによって老人と少女との信頼にヒビが入りはじめる。老人は激しく嫉妬し、弓を射て若い男を追い払う。
孤立した小宇宙に自足している2人のあいだに世俗的なもう1人が割り込むことによって小宇宙が壊れる。これは前作『春夏秋冬、そして春』と同じ構造。男が女を暴力的に支配して監禁し(ソフトに描かれているけど、そうには違いない)、監禁された女が支配者である男に倒錯した愛情を持つという設定は『悪い男』と共通している。
だからまぎれもなくこれはキム・ギドクの映画だ。そしてこの神話的な空気を感じさせる映画が神話の透明さに遂に達せず、まぎれもなくキム・ギドクの映画であるのは、欲望の生々しさにある。
ことあるごとに老人の顔のアップが映し出される。老人の眼は、孫のような年齢の少女をいとおしむ父(祖父)の慈愛のまなざしではなく、少女に対する執着を隠さない剥きだされた欲望のまなざしだと感じられる。老人の顔の執拗なアップによって、キム・ギドクそのことを伝えたかったのに違いない。
異性に対する剥きだしの、時には反社会的な犯罪のかたちを取る欲望があり、その欲望を浄化するのではなく欲望の底の底にまで降りることによって、ある瞬間、別の次元のなにものかに変貌する。それを(仏教なら)悟りと呼ぶには、あまりに世俗に執着を残している。それでもなお、現実を超えた宗教と呼ぶしかないものを求めずにはいられない。キム・ギドクの映画が一貫して描いてきたのは、そんな同一のテーマ系をもったいくつもの変奏曲であるようにも思える。
ラストで、老人の弓から放たれた矢は男根となって白衣の少女を貫く。血に染まった白衣の少女を乗せた船が海を漂う。ほとんど国産み神話みたいな場面で終わるけれど、浄化された愛の美しさとは遠い欲望の生々しさだけが後に残った。やっぱりこれはキム・ギドクだな。
Comments
TBありがとうございました。
この映画に関しては、最近の誘拐・監禁等の事件があって、手放しでファンタジー・純愛映画と思えない自分が居ました。
でも、決して不愉快さだけが残る訳では無かったです。
雄さんの、
>異性に対する剥きだしの~いくつもの変奏曲であるようにも思える。
記事を読んで、自分の中でもやもやしていたものが見えて来ました。
「欲望の底の底にまで降りる」
この言葉に激しく共感します!
良い悪いでは決め付けられない、いろんな気持ちが混ざり合ったアンバランスさ、ギドク監督の映画には何時もそれを感じます。
Posted by: Puff | September 22, 2006 05:42 PM
初めまして!
TBさせていただきたかったのですが
なぜか反映されないようなので、コメントだけ残します。
>欲望を浄化するのではなく欲望の底の底にまで降りることによって、
>ある瞬間、別の次元のなにものかに変貌する。>悟りと呼ぶには、あまりに世俗に執着を残している。
>それでもなお、現実を超えた宗教と呼ぶしかないものを求めずにはいられない。
うーーん、なるほどぉ。
私は、老人の最期を「解脱」に近いものと受け止めましたが
ラストの「初夜」を考えると、たしかに世俗に執着を残していたようにも思えますねぇ。
まあとにかく、キム・ギドク作品を初めて見たこともあって、
自分の中で消化するのに、かなり戸惑いましたし
これまでの価値観に大きく揺さぶりをかけられたことは確かです。ふぅ~。
Posted by: ゆっこ | September 22, 2006 11:09 PM
>Puffさま
キム・ギドク監督の映画は、いつも自分の(他人には言いたくないような)欲望を恐れずに見つめて、しかもその底からなんらかの「希望」を見つけだそううとする姿勢が一貫していて、そこが彼の作品をオンリー・ワンにしていると思います。それにやられると、キム・ギドク映画の虜になるんでしょうね。
>ゆっこさま
手練れの監督ならこういう素材をもっとソフィスティケートされた映画にするんでしょうけど、キム・ギドク監督は真っ正直ですね。それがもとでいろいろ物議をかもすんでしょうが。
これが初めてのキム作品でしたら、追っかけてみる価値のある監督だと思います。僕も去年だったか『サマリア』が初めてで、そこからDVDで彼の作品を未公開のものをのぞいて全部見ました。
Posted by: 雄 | September 23, 2006 01:58 PM
TBありがとう。
おっしゃること、とてもよくわかります。
結局「欲望」ということ。欲望をずっと追っていくと、かすかに、聖化される瞬間がある。でもそれは、日常たり得ない。・・・結局「不可能性の愛」となる。というように、感じてしまいました。
Posted by: kimion20002000 | October 20, 2006 02:37 AM
この監督はいつも「聖」と「俗」のぎりぎりのところで映画を撮っていますね。その意味では、過去の自分の作品を「ごみ」と言ったこと、わからなくはないのですが。いずれにしても、彼の映画をずっと見たいもんです。
Posted by: 雄 | October 21, 2006 12:17 PM