『LOFT』とサイレント映画
黒沢清の映画を見ていると、サイレント映画を見ているような気分におちいることがある。なぜだか無声映画の感触に近いものを感ずるのだ。
といっても僕のサイレント体験は大したものじゃない。『カリガリ博士』『メトロポリス』や『戦艦ポチョムキン』といった古典、キートンとチャプリンの数本、邦画では小津安二郎と山中貞雄をわずかに見た程度。
サイレント映画は、言うまでもなくセリフの音声と音楽がない。弁士や楽団が入ることもあるけどそれはあくまで例外で、観客の目は沈黙の空間で映像の光と影の乱舞に曝される。闇のなかで五感のうち目だけに強烈な刺激が与えられつづける。
トーキー以後、映画は音声と音楽をもって目も耳も刺激する総合芸術になったけれど、サイレント映画を見ていると、19世紀末に発明された「動く映像」が人々にとってどんなに驚異だったか、その見世物がどんなに人々の心を奪ったかをわずかながら想像できる。
黒沢清の映画の感触は、この無声映画の映像の氾濫に曝されているという感じに似ているんだと思う。『LOFT』の豊川悦司も、過去の作品では役所広司もオダギリジョーも、ぼそぼそとセリフをしゃべり、決して声高になることがない。ヒロインの中谷美紀も、「やめて!」と大声で叫ぶショットや言葉にならない悲鳴を例外として、若い女(安達祐実)の幽霊(幻覚)やミイラに出会っても大声を出さない。低いトーンでセリフをしゃべっている。
音楽にも同じようなことが言える。幽霊やミイラが出現する直前のショットは、さあ出るぞ出るぞ、とばかり音楽が高鳴るのがホラー・恐怖映画の定番だけど、黒沢清はここでも高揚を抑えて、むしろ控えめに、でも感覚をぞろりと逆撫でする音楽を入れている。
セリフや音楽に強弱が少なく、ほとんど一定の低いトーンで入っていると、それに慣れた観客は無意識のうちにセリフや音楽への注意を薄れさせる。いわばゼロに近いと感覚してしまう。だからこそ、黒沢清の映画ではサイレント映画のように映像が圧倒的な力をもって見る者に迫ってくるんじゃないかな。
中谷美紀が草原を横切るショット。壁にシミが浮き出た、いかにも黒沢好みの古い研究所の建物とその内部。中谷美紀が住む洋館の、だだっぴろい空間。そしてミイラが沈んでいる池。水面に映る森の不穏な空気。池に突き出た絞首台のような引き揚げ装置。芦澤明子の見事なカメラで、いくつもの記憶に残るショットが紡ぎ出される。
黒沢清の映画がいちばん印象に残るのは、こういうショットに出会ったとき。逆に言えば、全体の結構が弱い(構成に興味を示さない)作品もあるってことなんだけど、それを補って余りある映像の力。「黒沢清はショットの監督」と思うのだ。
もうひとつ彼の映画でいつも感ずるのは、カットとカットのつなぎに唐突感があること。そのこともサイレント映画に近い感触を与えているのかもしれない。
トーキーになってからの映画は、セリフやストーリーに沿ってカットとカットを違和感なくつないで、観客を映画の流れのなかに引きずり込む。でもサイレント映画では、僕の乏しい体験から言えば物語の整合性やスムースさより、映像と映像の衝突のエネルギーで観客をスクリーンに釘付けにする(モンタージュってことですね)ことで映画をドライブさせるようカットとカットが編集されている。
現在の観客が見ると、そこにちょっとした違和感や唐突感をもつ。黒沢清の映画は、それを意識的にやっているように見える。豊川悦司と中谷美紀が若い女を殺したのではないかと妄想して地面を狂ったように掘りはじめると、いきなり嵐のような天候になり、妄想だと分かってひしと抱き合う。ほとんど説明抜きでそういうことが起こるので、見ている側はあっけにとられるしかない。
この唐突感は、当てずっぽうの勘で言えば黒沢が大きな影響を受けた小津安二郎につながり、小津を通してサイレント映画につながっているんじゃないか。小津はサイレント時代にすでに自分のスタイルを完成させ、トーキーになってからも基本的にそれを変えていない。小津もカットのつなぎが相当に変なんだから。
僕は黒沢清のホラー映画をちゃんと見てるわけではないけど、見ている限り(『CURE』『回路』『ドッペルゲンガー』)、彼のホラーは「出るぞ!」「出た!」という出会い頭の恐怖を与える編集を避けてつくられている。出会い頭ではなく、じわじわと恐怖が身に沁みてくるような、ホラーというジャンルに収まらない映画になっている。
でも『LOFT』では、恐怖・ホラーのジャンル映画的な「出会い頭の恐怖」の演出が多用されている。物語も「古い洋館の恐怖」「殺した女の幽霊(幻覚)」「ミイラ(ゾンビ)の復活」といったジャンル映画の定番を踏襲している。
そんなジャンル映画を構想しながら、にもかかわらず説明のつかない唐突な出来事が黒沢清的に(としか言いようがない)起こる映画に仕上がっている。そこがまた黒沢清的と言うしかない。
それにしても、あのミイラは中谷美紀に似ていたな。いや、中谷美紀がミイラに似ていたと言うべきか。
Comments
ミイラと中谷。似たもの同士。
あ、トヨエツが沼から中谷を抱きかかえて連れ帰ったのは、
ミイラと間違えてたからだったのか!(そんなわけはない)
てなわけで、TBありがとうございました。
Posted by: にら | October 18, 2006 05:03 PM
にらさんおっしゃる「反復」は、中谷=ミイラ説を前提とすると一層説得的で、で、ア・カルイ・ミイラ、と(笑)。エントリ、楽しく拝見しました。
Posted by: 雄 | October 19, 2006 11:03 PM